5話
対岸の岩場にのっそりと姿を現した黒豹の姿に、アルバートは息を呑んだ。体躯は大柄な人間よりも更に大きい。遠目にも黒の毛皮の下の隆々とした筋肉が見て取れる。鞭のような尾を左右に大きく振りながら、草むらから大きな岩が連なる河辺へとゆっくり移動する。金色に光る双眸はこちらをじっと見据えている。アルバートは長剣を構えながら弟たちの様子を伺った。案の定、恐怖のあまり硬直している二人に、叱咤の声を投げ掛ける。その時、鋭い警告の言葉が耳に飛び込んだ。
「アルバート! 来るわよっ」
「!」
慌てて視線を対岸へと戻したアルバートは、信じられない光景を目の当たりにする。黒豹は大きく背を丸めたかと思うと、勢いよく岩を蹴った。かなりの距離があるにも関わらず、たった一度の跳躍で飛び越えようとしているのだ。轟々と流れる渓流に落ちればただでは済むまいが、なんのためらいもなく黒い獣は宙に身を躍らせ、美しい弧を描いて河原へと着地を決める。思わず見とれるほどの見事な跳躍だが、感心している余裕は無い。既に目前に迫る黒豹を負けじと睨み返し、慌てて迎え討つ構えを取る。
二度目の跳躍を行うそぶりを見せる黒豹に、アルバートは気合の声を上げて間合いを詰めようとする。だが黒豹はアルバートの手前に着地すると、次の瞬間三度目の跳躍に入る。真横に跳んだ黒豹は、杖を振るおうとするプラチナに襲い掛かった。流れるような動きにプラチナは完全に意表をつかれ、紡いでいた呪文を短い悲鳴を上げて中断する。
牙を剥いて飛び掛ってくる黒豹を、反射的に杖を真横に構えて防ごうとするが、それでは鋭い前脚の爪に対して完全に無防備となる。プラチナに迷う間も与えず、ガツ、と大きな音を立てて黒豹は杖の中ほどを噛み締める。衝撃でプラチナは後ろに倒れ込みながら、杖を両手で支えて黒豹の腹を右足で蹴り上げる。だが黒豹は強靭な後ろ脚で大地を蹴り、腹に加わる衝撃を殺す。
黒豹は背中から河原へと倒れ込むプラチナから杖をもぎ取ると、素早く跳躍し二人から距離を置く。軽く咳き込みながらプラチナは起き上がると、ちいさく舌打ちをする。
傍に駆け寄るアルバートに、落胆を隠せない声で囁いた。
「ごめんなさい、杖を取られちゃったわ」
「怪我が無かったらそれでいいさ。……とはいえ、こいつは厄介だな……。豹ってこんなにおっかない動物だったのか。やれやれ」
「そんな訳ないでしょ、おかしいわよ絶対。いくらなんでもこんな河を越えられるはずないわ。橋の長さからしたって、どれだけあると――」
プラチナは唐突に言葉を切る。アルバートはプラチナの視線を横目で追った。視線の先、河の上流に簡素な橋が見える。欄干の無い橋をちいさな動物がひた走っている。遠目にもそれが銀狐であることが判る。その姿に気付いたアルバートは、場違いな口笛をピュウと吹く。何かを咥えた銀狐が、トントントンと軽い音を立てながら橋を渡ってやって来る。チラリとこちらに視線を流し、長い橋を風のように走る。河原へと到着した銀狐は、一旦立ち止まって透明な大きな石を咥え直す。
その姿に気付いた黒豹は、杖を咥えたまま銀狐に向かって疾走する。銀狐は慌てて踵を返し、再び橋の上を走り始める。対岸へと逃げる銀狐を、黒豹は狩りを楽しむかのように走って追い掛ける。途中、杖を河の中へと投げ捨て、薄っすらと笑みを浮かべて銀狐に向かって跳躍する。銀狐はひらりと交わすと、黒豹の背後にトンとちいさな音を立てて着地する。いつの間にか橋の上の黒豹が二頭に増えていることに気付いた銀狐は、肩を並べて牙を剥く獣たちに向かっておもむろに呼び掛けた。
『……私は良いがな、そろそろお前たちは元に戻った方が良くはないか? 獣霊を降ろして随分経つと思うが。限界を超えるとどうなるか見てみたい気もするが、追いかけっこにも少々飽きた。お前たちの主の腕では、これ以上の術の維持は無理だろうと思うがね。……暴走を始めれば、二度と人には戻れぬようになるぞと、死神が親切にも忠告をしてやろう』
心に直接響く言葉は、二頭の黒豹に僅かな曇りを与えた。ぴくりと動く細い髭を、銀狐は哀れみを含んだ瞳でじっと見ている。淡々と紡がれる言葉には一切の揶揄の色は無く、ただ事実のみを告げているのだと訊くものに思わせる。動きの止まった二頭の黒豹に、鞭打つ言葉が投げ掛けられた。
「何をしている。王子を捕らえよと言ったろう。……ふむ、その咥えている物は水晶か? 住処からわざわざ持ち出した物か……。もしや、それか?」
岩陰から姿を現したのは、先ほどの霊獣使い、リンクスだ。橋の上で立ちすくんでいる二体の下僕にそう告げると、橋に近づきながら銀狐をじろりと睨む。咥えた口が邪魔で水晶はよく見えないが、強い魔力を帯びていることは感じられる。下僕を通して視た屋敷での顛末を思い出しても、それが彼にとって、危険を冒してでも取りに戻らねばならぬほど大切な物だということは容易に察しがつく。リンクスはニヤリと口元を歪めると、剣を携えてこちらへと駆けて来る青年に杖を向けた。それを合図に、黒豹のうち一頭が銀狐の頭を飛び越え、再び向こう岸へと跳躍する。銀狐もその後を追おうとするが、残った黒豹が立ちはだかる。
唸り声を上げて襲い掛かる黒豹に、銀狐はたまらず狭い橋の上で飛び跳ねる。右へ左へ、フェイントを織り交ぜて身を交わすが、慣れない重い体はいつものように軽快には動いてはくれない。ついに尻尾に喰いつかれ、その弾みで銀狐の姿が解けた。みるみるうちに華奢な少女へとその身を変え、体を走る偽りの痛みに顔をしかめる。緩く癖のある長い銀髪を水面を吹き抜ける強い風に煽られながら、少女は大きな両剣水晶を両腕でしっかりと抱えている。洗いざらしの飾り気の無い長衣に身を包み、長い袖からちいさな手が覗いている。間近に迫る黒豹を気丈にも睨み返し、じりじりと橋のふちへと後ずさりする。
その時、唐突に空から声が降って来た。
「――跳んで!」
音も無く頭上に現れた黒い影は、確かにそう告げた。少女は目を丸くしながらも、呼び掛けに応じ橋を蹴った。高い跳躍ではなかったが、黒い影は鳥のような大きな翼を広げ、さっと少女を掬い上げる。ふわりと舞い上がる巨大な鴉を、忌々しげにリンクスは睨む。
リンクスは舌打ちすると、そのままアルバートへと向かって飛ぶ鴉に杖をさっと向けて呪いの言葉を投げ付けた。ゴウ、と大きな音を立てて、大きな炎の矢が放たれる。二度の轟音と共に突如河原が炎に包まれる。魔法によって生み出された火種は、無造作に石を敷き詰めた河原で、あり得ない炎上を続ける。
間一髪、鴉は漆黒の爪先でアルバートの右腕を掴み上空へと舞い上がった。河原にそびえる火柱の中から、悲痛な叫び声が上がる。何かを焦がす嫌な臭いが、湧き上がる黒い煙と共に周囲に流れていく。
「アルバート!?」
慌てて炎に向かって駆け寄るプラチナに、上空から馴染みの声が飛んで来た。
「プラチナ! 大丈夫、アルはここだ!」
「え!?」
声のした方を仰ぎ見ると、巨大な鴉の脚元にアルバートがぶら下がっている。アルバートは鴉の右脚にしっかりとしがみつきながら、鴉の背中から顔を覗かせている弟を見た。エリックは右腕を伸ばし、アルバートに呼び掛けた。
「ほら、掴まって!」
アルバートはなんとか右腕を伸ばし、エリックの腕を掴む。そのまま引き上げようとするエリックに、前に乗っているカルが告げた。
「ちょっと悪いんだけど、そろそろ術が持たないね。そのまま捕まえてて、あっちに降りるよ」
カルは返事も待たず、そのまま河原へと向かって高度を下げる。地上すれすれのところで黒い影はふっと消えた。どさりと投げ出されるアルバートの上に、エリックも前のめりになって落ちる。その傍らに水晶を小脇に抱えた少女が優雅に舞い降りて、心配そうに二人の顔を覗き込む。
アルバートとエリックは、その視線に気が付くと照れ臭そうな笑みを浮かべながらすっくと起き上がった。
一方、上手に着地を決めたカルは、駆け寄って来るプラチナを一瞥して思わず落胆のため息をついた。
「あーあ、杖が無いじゃない……。しょうがないなあ、水の手を借りるか」
カルはひとり愚痴ると、炎の柱の中で焼け焦げている獣の姿を目の端で捉える。見覚えのある姿だ。すると、あの魔術師が霊獣使いなのだろう。カルはスッと目を細め、手袋に包まれた指を水面へと向けた。
その時、背後から何者かが近寄ってくる気配を感じた。カルはさっと視線を向ける。やって来るのはフランとギルバートだ。フランは両腕で大きな包みを抱え、先を走るギルバートの後ろを懸命に追っている。それに気付いたアルバートが、大声で怒鳴った。
「馬鹿、こっちに来るな! 逃げろって言っただろ!?」
「そうだけどっ!」
ギルバートは足元に転がる無数の石に足を取られながらも、子供にしては早い足で駆けて来る。判ってはいても、兄弟が襲われているのを目の当たりにして逃げることは出来ないのだろう。
あっ、というちいさな叫び声と共に、フランが大きく体勢を崩す。もつれる足を必死に動かすが、両腕が塞がっているためうまく体を立て直すがことが出来ず、あえなく顔から転んでしまう。ギルバートは慌てて立ち止まると、くるりと踵を返してフランに駆け寄る。
その様子に気を取られていたカルは、ぴくりと耳を動かして振り返った。しまった、と心の中で毒づく。大きな炎の塊りが、魔術師の杖の先から放たれたところだ。引っ込めていた指先を急いで水面へと向ける。
間に合わない、そう覚悟しながらも大急ぎで精霊語を紡ぐ。疲れた体から力が抜けていくような感覚に襲われるが、今はそれを気にしている暇は無い。
迫る火炎に気付いた一同は、その場から離れることも出来ず息を呑んだ。アルバートは硬直する体を叱咤し、エリックとプラチナを後方へと突き飛ばす。そのまま倒れ込むアルバートに、炎の矢が突き刺さる――誰もがそう認識した、一秒先の光景。
その光景を切って捨てたのは、何者であるのか。
現実を願望へと挿げ替えたのは、神の技か、悪魔の夢か。
そびえ立つ炎の柱に新たな贄が捧げられることはなく、代わりに炎の壁が天を突く勢いで遥か上空へと伸び上がっていく。
炎の幕はアルバートの鼻先で紅の光を煌々と放つ。巨大な帆のような薄い炎は、チラチラと揺れながら次第にその身を細らせていく。やがて反物のように幅を狭めた炎は、生みの親の手を離れ新たな主の元へと還ってゆく。
その場に呆然として立ち尽くす者たちを残し、炎の帯はくるりと空に輪を描きながらその場を離れた。
向かう先は空中。そこに佇むのは、黒衣の男。
滑らかな艶を湛える黒い水中生物の背に、片膝を立てて腰を下ろす者。やって来た忠実な炎を杖の先で遊ばせている。男は面白くもなさそうにちいさく鼻を鳴らすと、長い杖を軽く振って炎を元の世界へと送り返す。
眼下の光景を一瞥したその男は、橋の中ほどに立ち尽くす同業者へと漆黒のエイを向かわせる。音も無く近づく姿にリンクスはごくりと喉を鳴らし、手の中の杖を強く握り直す。大きく響く心の鼓動を必死に抑えながら、震える声で警告の言葉を発した。
「……それ以上、近づくな。お前が……死神、か」
精一杯の威圧を篭めた言葉を、男――ウィルドは軽く受け流す。冷ややかに眼前の男を見下ろしながら、やんわりとした口調で告げる。
「そうだが。……あまり豪快な魔法を使われると、私が迷惑なのだよ。悪の魔術師を倒したい正義の騎士志望者の相手をするのも、いい加減うんざりなのでね。そういうことは自分の国で好きなだけすればいい。さっさと帰るのだな」
ウィルドはそれだけ伝えると、スッと立ち上がって河原を振り返った。河原に座り込んでいるアルバートたちをゆっくりと見渡し、少し離れた場所に横たわっている風竜に視線を向ける。尾をこちらへと向けているため風竜の顔は伺えないが、わずかに上下する身体の様子から、たいしたことはなく眠っているだけなのだろうと判断する。
ウィルドは再びアルバートたちに向き直ると、エイを彼らに近寄らせながら静かな声で呼び掛けた。
「……わざわざこんな処まで来ることもあるまいに。土産を持たせず申し訳ないが、渡すものも無いのでね。まあ、藪を突けば蛇が出る、と身をもって知ったろう。これを機に、少しは思慮深くなることだな」
呆然としたまま自分を見つめている一同に、ウィルドはそう告げると、少女の傍にエイを寄せる。そのちいさな手から両剣水晶を受け取ると、杖の先で少女の額に軽く触れる。途端、少女の姿はぼんやりと光を帯び、柔らかな影となってふわりと消えた。用は済んだとばかりにエイを上昇させるウィルドに、ようやく我に返ったアルバートが慌てて言った。
「あ、あの! 貴方は一体? 彼女に何をしたんですか?」
「彼女? いや、別に私はその魔女に何かした覚えは無いが。何かしたのならば、あの霊獣使いだろう」
ウィルドは言葉の意味が呑み込めず、座り込んだままのプラチナを横目で見ながら言った。アルバートは首を振りながら尚も食い下がる。
「いえ、プラチナのことじゃなくて! 今貴方が杖で消した、あの子のことです!」
「……? いや、あれは私だが……。用が済んだから消しただけだ。これは私にとって大事な物なのでな」
ウィルドは怪訝な表情を浮かべながら左手に抱えた両剣水晶を見せた。プラチナが横から口を挟む。
「ああ、やっぱりそうよね。ほら、ウィルドはおっさんだって言ったでしょ、この人がそうよ。あら、でもそれじゃ今の可愛い子は何なんのかしら? 変ね、化身の魔術と思っていたけど、全然違う魔法なのかしら?」
腑に落ちないと言った顔をするプラチナに、ウィルドが口を尖らせる。
「まて、おっさんと今言ったか? 私はまだ四十にもなっていないのだがね。しかも可愛いとか意味わからんことを。あれはただの私の分身だ」
「分身って。なに可愛らしく作り込んでるのよ、貴方って変人だって訊いてるけど、それじゃ変態過ぎるでしょ。ていうかもう一回見せてちょうだい、この子たちが可愛い可愛いってそりゃもう昔っからうるさいんだけど、確かに可愛かったわねえ。近所にモデルでも居るわけ? ぜひ紹介してちょうだいな! 美少女の独り占めは犯罪よ!!」
「び、びしょうじょ??? アホかお前はっあれがどうやったら女に見えるんだ、お前たちの目はおかしい!」
ようやくやって来たギルバートとフランが、二人の会話を目を丸くして訊いている。アルバートは血相を変えてウィルドに詰め寄る。
「ちょ、ちょっと待ってください! あの子が貴方って、言ってる意味が全然判りません!」
「知らんわ、お前が意味不明だ! そもそも――」
ウィルドは反論の言葉を唐突に切った。エイの上で腰を浮かせているウィルドの視線が、背後へとさっと流される。傍観を決め込んでいたカルがようやく口を挟んだ。
「そういうことは後にするべきだね。……もうひとり、やって来たみたいだよ?」
カルはそう言うと、橋からやや下流へと視線を向ける。
平らな大岩の上に、リンクスと寸分違わぬ装束の男が佇んでいる。その傍らには、銀の首輪を填めた一体の赤竜と、紅のローブを纏った褐色の肌の少女。
そして――ぐったりとして地に伏せている、ひとりの青年の姿。少女の足元で崩れ落ちているその青年は、目を固く閉ざして苦悶の表情を浮かべている。脂汗の流れる端正な横顔は蒼白。濡れた岩の上で身じろぎひとつしない。
声も出せずただ息を呑むアルバートに、二人目の霊獣使いは抑揚の無い声で淡々と告げた。
「……確かにこれは双子の王子の片割れだな。生かして返して欲しければ、そこに居る死神の杖を寄越すがいい。正気で返して欲しければ、メルクリウスの鍵を私に差し出せ」
霊獣使いは横たわるブライアンの頭に杖の先を押し付けた。顔の半身を覆う頭蓋の眼窟に青白い炎が灯る。低い呻きを洩らす者には目もくれず、黒衣の魔術師をじっと見据えている。一切の感情を削ぎ落とした姿に、死神の幻影が朧に重なる。
ざあ、と木々が枯れ枝を揺らし唐突にざわめく。吹き抜ける強い風はそこかしこに溜まった雨水を撒き散らす。パタパタと降り注ぐ冷たい水滴が、アルバートの感覚の消えた頬を静かに濡らした。




