2話
「……チ、気付かれたか。さすがに追いつけぬな……」
轟々と流れゆく風の中に、掠れた男の呟きが混ざる。
男は左手に持つ長い杖を真横に振った。ヒュンという乾いた音と共に、今まで正体を覆い隠していた透明なベールが掻き消える。豹紋の浮かぶ黒い毛皮を纏った男の膝元には、一体の赤黒い竜の姿があった。男を背に乗せたその竜は、大きな蝙蝠の翼をバサリバサリと苛立たしげに上下させ、新たな風の波に乗ろうと躍起になる。男は竜の首に飾られている銀の首輪に軽く触れた。男は発声はせず、口だけを細かく動かす。その動きに合わせ首輪は美しい光を放つ。魔法文字の浮かぶ銀の環は、やがてまばゆい光の輪を幾重にも放出し始める。竜の身体は瞬くうちに光に覆いつくされ、次第にその姿を変貌させていく。
大きな翼はみるみるうちに溶けてなくなり、鱗の下に躍動するはちきれんばかりの筋肉の塊りは極限まで削ぎ落とされ、岩をも砕く頑丈な尾はしなやかな鞭のように細く長くなっていく。まるで風竜のようなほっそりとした姿に身を変えた竜は、炎の矢となって東へと向かって空を切った。男は振り落とされないよう、発光を終えた首輪を右手で強く握り締める。その時、男の身体が唐突に影に包まれる。男は風に煽られたフードをはためかせながらジロリと影の主を仰ぎ見る。速度を上げたにも関わらず、何食わぬ顔で頭上を並走するのは二体の巨大な鴉だ。嘴の先から尾の付け根までで、大柄な馬ほどの大きさはあるだろうか。両の翼をピンと広げ、風に身を任せている。
前後に連なって飛ぶ鴉のうち、前方の鴉が男の真横まで高度を下げる。鴉の背に跨っているのは、ひとりの少女だ。歳は十五ほどだろうか。長い黒髪を風になびかせ、浅黒い肌を深紅のローブで覆っている。目深に被ったフードの奥で紅玉のような瞳が輝いている。クスクスと悪戯っぽく笑みを浮かべる少女に、男は苛立ちを隠そうともせずぶっきらぼうに告げた。
「……フン、予定変更だ。風竜に勘付かれるのが早過ぎた。気配は殺していたのだがな。辿り着くまでに捕らえる予定だったが、こうなれば仕方ない。私は死神の住処に向かい待ち伏せる。お前は予定通り追い続けろ。私が良いと言うまで彼奴らを地上に下ろすな」
「いいけど、捕まえないの? 殺してもいいのかしら」
「殺すな、死神との取引に使う。生け捕りにしろ。だが、無理に捕らえる必要は無い。……今頃、オクルスの配下が死神の住処を突き止めている頃だ。だがそう簡単に死神が鍵を渡すはずがない。相打ちになっていれば都合がよいのだがな……」
男はそこで言葉を切った。含み笑いを浮かべる男を、少女は目を細めて愉快そうに眺めている。少女は軽く口笛を吹き、再び男の頭上高く舞い上がる。漆黒の鳥は大きく翼をはためかせ、灰色の雲が立ち込める遥か東の空へと飛び立った。その尋常ならざる疾さに男は舌を巻く。掴んだままの首輪をぎゅっと握り締め、飛び続けている竜に新たな指示を思考によって与える。了承の鳴き声を上げる竜に気を良くしたのか、男は口元を歪めて薄く笑う。
(……あいつは私が王子を捕らえるまで待つつもりらしいが、気の短い奴のことだ、そのうち焦れて先に動くだろう。黒豹に変化した者は強力な駒となりはするが、いかんせん持続時間が短い。しょせんは贄よ……。問題は死神だ、果たして王子を交換条件とすることを由とするか。死神が死神であるなら、他人の命に価値など持つまい。だが、拾い集めた人となりが確かであるなら……)
男は十日ほど掛けて王都で集めた情報を忙しく整理する。駆け引きを持ち掛ける際には、こちらの持ち札が相手に取って価値があるものでなければ何の効果も無い。
死神が、死神でないならば。
人間として生きる者であるならば。
(……人の身に、死神の名は必要あるまい。有能な宮廷魔術師として生きればよい。私が死神として生きてやろう。私は人の命なんぞに値打ちを思ったことなど無いぞ。そう、それが血を分けた者であろうともな……)
至高の英知を手に入れるためならば。
最強の力を手に入れるためならば、
喜んで人間であることを捨てよう。
死神と呼ぶにふさわしいのは、この私――
***
田園風景が続いていた眼下は、いつの間にか深い緑に覆われた山岳地帯へと変わっている。雲ひとつ無い青空は今は遥か遠くに押し流され、目の前には昨日の朝のようなどんよりとした灰色の雲が現れ始める。恐慌を起こした二体の風竜は、雲の中に突入したかと思うと、雲の上に出たり雲の下に潜ったりを繰り返し、でたらめに飛び回っている。たまらないのは背中にしがみついている人間たちだ。ただしがみつくより他はなく、振り落とされないように必死で背びれを握り締める。冷たい霧のような雨に全身を濡らし、激しく上下するたびに胃の中から重いものが込み上げてくる。雲の上に高く舞い上がった風竜の背中で、ついにたまりかねたカルが大声で叫ぶ。
『――怖るるものよ我が声を訊け 闇の末裔の名において汝の心にやすらぎを与えん 恐怖もたらす悪しきものよその身より疾く去れ!』
精霊語とも異なる響きの言葉を素早く紡ぎ、左手一本で背びれにしがみつきながら風竜の巨体にちいさな右手を押し付ける。革の手袋で覆われた右手を黒いもやが包み込む。風竜の身体から次から次へと湧き上がるそれを、カルは手の平からためらいもなく吸収していく。やがて黒いもやが底を尽きたのか姿を現さなくなった。カルはフゥ、と一息つくと、格段に穏やかになった風竜の背中を軽くぽんぽんと叩く。雲の上をゆっくりとたゆたい始めた風竜を満足そうに見つめる。ふと思い出したように顔を上げ、前に居る二人に視線を向ける。相変わらず顔を伏せて風竜にしがみついているエリックの背中を軽く叩き、エリックの肩に左腕を回してしっかりと掴んでいるブライアンの手にもそっと触れる。
「二人とも、もう大丈夫だよ。やっと大人しくなった」
「……え?」
ちいさな呟きが同時に起こる。二人は揃って顔を上げ、互いの顔を確かめ合う。まだ呆然としているブライアンとエリックに、カルは笑いながら言った。
「こっちはなんとか宥めたんだけど、あっちはちょっと難しいかなあ……」
カルが指差す方向に、一足早く我に返ったブライアンが顔を向ける。見ると雲の海に風竜が飛び込んだところだ。もはや悲鳴も聴こえては来ないが、潜る際に背中に人影を確認することが出来た。エリックが哀れむような視線を向けて呟いた。
「あ~あ……。近寄ったらなんとか出来る?」
「近づけたらねえ。まあ、向こうには魔女がいるし、なんとか凌いで欲しいところだね。そうだ、まだ追って来てるのかな?」
カルは三角帽子の黒い紐を顎の下で結び直しながら振り返った。さすがに全速力の風竜には追いつけなかったらしく、今は件の竜の気配は感じられない。だが、それとは違う気配をカルの鋭敏な感覚が捉える。カルはかぼちゃの中で大きな耳を窮屈そうに動かす。遥か西の空を深紅の瞳でじっと見据える。振り返ったまま微動だにしないカルに、エリックが小声で囁いた。
「……まだ離せてない?」
「いや、さっきの妖魔はいなくなっているね。代わりに変なのが来てるね……ほら、あそこに黒い影が見える」
カルは雲の隙間から垣間見える緑の絨毯を指差した。雲が邪魔でよく見えないが、確かに何か黒い影のようなものが飛んでいる。苔のような木々の大きさからすると、かなり大きな影だ。風竜との間にはまだ距離があるが、やっと落ち着いたばかりの風竜に再び不審な存在を教える気にはなれない。カルも同じことを考えているのだろう、再び右手を竜の背に当て、ブライアンにそっと語り掛けた。
「……たぶんあれは、影そのものだね。鳥の姿をしているけど、上に乗っている術者が作ったただの乗り物だ。とはいえ闇の精霊の集まりだから、不用意に触れたら嫌~な気分にはなるよ」
ブライアンは長剣の柄を握り締めながらカルに顔を近づけて訊ねる。
「闇の精霊? ということは、上に見える人影は精霊使いなのか?」
「……あ~、そうだねえ……。うん、待てよ、闇の精霊を使う精霊使いだよね……。なんだか、嫌な予感がしてきたね……」
カルの声が次第に暗くなっていく。上昇を始めた黒い影を、カルはじとりと睨みつける。バサリという大きな羽音と共に雲の上に姿を現したのは、巨大な鴉だ。何も映さない漆黒の目を持つ鴉の背に、深紅のローブをはためかせる者――フードは背に流し、美しい黒髪をなびかせる少女。褐色の肌に深緑の短衣と白の短いキュロットパンツ、ほっそりとした長い足をローブから覗かせ、片膝を巨鳥の背について腰を低く落としている。そして何より目を引くのは、美しい深紅の瞳と、木の葉のような大きく尖った独特の耳。
クスクスと笑みを浮かべて三人の姿を眺めている少女に、カルは低く呻き声を上げる。
「……やっぱりか。くっそ、なんでこいつが噛んでるんだよ。エリック、用意はいい? 殺すぞこの女」
「こ、殺すって……。なに、知ってる子? ていうか……」
どう見てもカルと他人とは思えない。カルの素顔を知らないブライアンも、困惑した顔をしている。どう見ても彼女はダークエルフだ。瞳の色が同じだということには既にブライアンも気が付いている。カルはかぼちゃの顔を憂鬱そうに俯かせ、吐き捨てるように言った。
「……ねえちゃんだよ。宝石を報酬に傭兵やってる。こいつはいつか殺らなきゃならない相手なんだ。ここで会ったが百年目、絶対ぶち殺す!」
「ねえちゃんなのかよ!? 殺すとかゆーな馬鹿」
「うるさい、だまれ、エリックは兄弟仲がいいから判らないだろうけどね、この世で一番横暴で、わがままで、凶悪で、尊大なのが姉という生き物なんだよ!! 弟は生まれた瞬間から奴隷だと思ってやがるんだ! 復讐するは我にあり、いくぜこのクソアマ!!」
大きく右手を振り上げるカルを、エリックとブライアンが羽交い絞めにして押しとどめようと躍起になる。盛んに罵詈雑言を浴びせながら暴れるカルに、少女はニヤリと笑みを浮かべる。
「あら~? もしかして、そのジャックランタンの中身ってカルだったり?? あらあらまあまあ」
ケラケラと笑う少女を、カルは舌打ちをして睨みつける。
「……しまった、ばれたか」
「ばれたかってお前な……。あんだけ叫んでたら普通バレるだろ。いいから待てって、お前が落ち着けよ」
エリックはカルの首に右腕を回してぐいと引っ張る。ブライアンも苦笑いを浮かべて言った。
「何があったのか知らないけど、身内同士で戦うのは良くない、君も弟は大事にしようぜ、なあ?」
「あら、これはよいイケメン♪……いやだわ~、あたしはこんなにカルちゃんのことを大事~に思ってるのに。でもまあ、それはそれ、これはこれ。今はあたし、お仕事中なのよ。可愛いかわいいスタールビーちゃんのためなの、悪いけどお兄さん、も~うちょっとお空の上に居てちょうだいね~」
にっこりと微笑む少女に、エリックが質問を投げ掛けた。
「あのさ、誰に雇われてるわけ? 頼むよ、こっちの味方になってくんない? カルは俺の友だちだからさ、友だちの姉さんとは戦いたくないんだ!」
「そう言われてもね~。……そうねえ、まあいいわ。どうせもうすぐ雇い主は死にそうだしね~。口止めもされてないしぃ。あんたたちを捕まえたがってるのは、お隣サルトゥスの、召喚大好き魔術師コンビよ。あの国はなかなか魔術師連中のレベルが高いから、出し抜きたくて躍起になっているのよね~。二人とも、だいぶ上げ底してるし~、死神から鍵を奪いたくて必死みたいよ~。あたしはあんま、関わりたくないのよね~。とはいえスタールビーちゃんは可愛いしぃ、今はあんたたちを地上に下ろすなって言われてるから~、なんなら世間話でもしててもいいわよ~♪ そうそう、あたしのことはルージュって呼んでね~」
ひらひらと手を振ってみせる少女――ルージュを、エリックとブライアンは困惑した表情で見つめる。どうしようかと顔を見合わせる二人の横で、カルが口をへの字に曲げてむくれている。エリックはカルの肩をトントンと指で叩き、カルに意見を求める。カルはそっぽを向きながら、渋々といった口調で応える。
「……ここが風竜の背中じゃなかったらね。びびらせたら暴走するから不利だ……。それが判ってるからこいつは余裕かましてるんだ、ちくしょう。……あ、そうだ、あっちの風竜はどうなったんだろう」
カルはふと雲の海に視線を向けた。先ほど潜ったはずの風竜は、いまだに姿を見せない。雲の下は雨が降っているのだが、風竜は雨を嫌う性質がある。すぐに上昇してくるものと思っていたのだが、一向に姿を現す気配がない。不安そうに覗き込む三人に、ルージュはクスクスと笑いながら言った。
「……今頃、下でお祭りに巻き込まれているのかもね~。下に行きたければ、一緒に乗せてあげてもいいけど~、運賃は貰うわよ~。後払いにしといてあげるけど、どうしましょう~?」
口を開こうとするカルをブライアンが制し、代わりに応えた。
「判った、城に戻ったら掘り出しに行くから。連中が渡す報酬よりも値が張る石を用意する。だから足止めは勘弁してくれないか」
「ほ、掘り出しにって。あんた王子さまでしょ~??」
「そうだが、城の財産は俺たちが勝手に使うものじゃない。ドワーフに心当たりがあるから、彼らに手伝って貰って必ずなんとかする!」
ブライアンは彼らの姿を思い浮かべながら、必死に説得の言葉を重ねた。ルージュはくるくると視線を彷徨わせながら忙しく考えを巡らせる。鴉の上で胡坐を組んで、ぶつぶつと独り言を呟く。
「ドワーフ。よい響きね~。う~ん、ドワーフぅう……。うぅ~ん、出回っている石には~そのうち巡り逢えるけど~、まだ世に出ていない石の中にも~きっと可愛い子がいるでしょう~。……う~ん、とりあえず足止めはちゃんとしたし~、もういっか~♪」
どうしようもねぇなこいつ……と呟くカルの口を、ブライアンとエリックが慌てて手で押さえる。せっかくその気になってくれたのに、ここで意地になられたら困る。何よりアルバートたちの身が心配だ。あの勢いでもし地上に叩きつけられたらと思うと背筋が寒くなる。エリックがカルを押し退けて言った。
「ほんと、もうこんな時間経っちゃって、俺たち参っちまったなあ。充分だと思うよ、だからさ~この通り、お願い!全部終わったらさ、メシ食いに行こうぜ、奢るからさあ」
「メシ~? まあいいけど~。あたしそっちのおにいさまを食べたいな~とか~♪」
「あっそう? じゃあもうひとり同じのがいるから、二人纏めて食っちゃえばいいよ」
ブライアンを見つめながらクスクスと笑うルージュに、エリックがへらりと笑って応える。ブライアンはエリックの頭を拳で軽く小突き、鴉の上から差し出される手を取り風竜から乗り移る。カルは間近に迫るルージュの乗った鴉には目もくれず、その後方に控えているもう一体の鴉を手招きする。エリックと一緒に飛び移ると、不安そうに自分たちの様子を伺っている風竜に呼び掛けた。
「ちょっと下を見てくるから、この辺りを飛んでいてくれる? 仲間がどうしてるか判る?」
『……判らないですね。雲と雨が邪魔します。こんなことは初めてです。どうしたらよいのか……』
「大丈夫だと思うよ、そのうち上がってくるよ。相棒が戻って来た時、背中に人間が乗ってなかったら今回の頼み事は終わりだね。ありがとう、また会う日まで、と先に言っておくよ」
カルの言葉にエリックも頷く。ブライアンも鴉から身を乗り出して礼の言葉を贈る。風竜は身体をくねらせて別れの挨拶を述べると、心配そうな眼差しを雲の下へと向けた。




