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銀の魔女と七人の王子たち  作者: 蒼月葵
第三章 死神の名を持つ男
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10話

 背後に腰を下ろしている漆黒の獣が、耳をぴくりと動かした。低い唸り声を上げながら威嚇の姿勢を取る獣を、主とおぼしき男が見下ろしながら無言で制する。金色の双眸は迷いながらも渋々了承を伝えると、射るような眼差しを遥か前方へと向けて再び腰を下ろす。男は口元に薄っすらと笑みを浮かべ、木々の狭間に目を凝らす。音も無く近づいてくる影はいまだ遠く、並外れた跳躍力を誇るこの黒豹といえども襲いかかるには少々距離がある。


 男は右手に握り締めている杖を我知らず力を篭めて握り直す。杖を押さえつけている親指に痛いほどの力が加わっていることに気付き、思わず苦笑いを浮かべる。これほどの緊張を強いられるのは久々だ。古いトネリコを削って造られている杖はしなやかで折れることは無いが、杖の中ほどを握る手にはじっとりと汗が滲んでいる。二歩ほど後ろで待機している黒豹も、茂みの中から見え隠れしている黒い三角の耳から一時も目を離すことはない。


 名も知らぬ鳥の美しいさえずりが、閑静な山のただ中に響く。だがそれが聴こえているものは此処には誰ひとりとしておらず、ピインと張り詰めた空気のみが場を支配する。朝より降り注ぐ小雨すら押し退ける異様な静寂の中、悠然と姿を現したのは一頭の銀狐だった。大小の茂みを音も無く掻き分けて現れた銀狐は、緩く流れる小川に掛かる簡素な橋の手前で華奢な脚を止めた。橋の向こうには黒豹を連れた男が静かに佇んでいる。銀狐は頭を少し下げて、男の異様な風貌をじっと見つめる。


 その男は身長ほどの長さのある杖を右手に握り締めている。小柄な体躯を黒い毛皮で作ったローブで包んでいる。よく見ると、陽の加減で黒い豹紋が浮かんで見える。フードを目深に被り、牙を連ねた飾り紐をローブに幾重にも巻いている。フードの隙間から見えるのは、何かの獣の頭骨だ。おそらく豹の頭蓋骨なのだろう。犬歯の付いたかなり大きな頭蓋を被り、男の顔は口元より下しか伺えない。

 やがて銀狐はその場に静かに腰を下ろし、ふっさりとした尾を身に巻きつけながら穏やかな口調で語り掛けた。


『……見たところ、サルトゥスの霊獣使いか。何用か』


「ふん、博識なことだ。貴様が『死神』だな。……まあいい、急ぐのでな、単刀直入に言おう。死神よ、鍵を渡せ」


 ニヤリと口元を歪める男に、銀狐は小首をかしげながら応えた。


『単刀直入にも程というものがあるだろうに。名乗るくらいはしてもよいと思うが、どうか』


「……名か。リンクスとでも名乗っておこうか?」


 くっくと喉の奥で笑う男に、銀狐は呆れたように言った。


『リンクス(山猫)ねえ。慎ましやかなことだ。ならば私はドミノと名乗るとしよう。……では先ほどの返答だ。鍵など知らぬ。他を当たれ』


 用は済んだとばかりにくるりと踵を返す銀狐に、リンクスは怒気を孕んだ低い声で問い掛けた。


「知らぬだと? ……訊け、私は取引に来たのだ。此処にこの国の王子が直に来るだろう。それまでに済ませたいことがある。お前にとって悪い話では無い。国にとり、王子たちにとり……そして、お前の師にとってもな」


 フードの下から覗く暗い眼窟の奥が鋭い光を放つ。銀狐は脚を止めると、訝しげな眼差しを背後へと向ける。興味を示したと認めたのか、リンクスは更に話を続けた。


「……王子が竜に乗って此方へと向かっている。無事に辿り着ければよいな? 双方、最良の出会いとなるように祈念してやろう。……彼奴らはお前を宮廷魔術師として招聘するつもりだ。応えてやればよい。その折に、死神の名は邪魔となろう。……私に渡せ。サルトゥスにて名乗りを上げてやろうぞ。証の鍵があれば誰もが信じよう。お前はお前として、堂々と父や師の跡を継ぐがいい。若い王子は有能な宮廷魔術師候補を見事手中に収めることが出来、お前は地位と安泰な余生を約束されるのだ。因習の縛りは王家にとり邪魔であろう。古き慣わしはひとつで充分、これ以上重荷を増やすことは王家としても避けたかろう。全てが丸く収まるではないか。案ずることなど何も無い。鍵さえあれば、死神の記憶や技も手に入る。そうだろう?」


 黒い三角の耳がぴくりと動く。背後を振り返っていた銀狐は、再び向きを変えてリンクスへと向き直る。豊かな尾を左右にゆっくりと動かしながら押し黙っている。なおも説得の言葉を紡ごうとするリンクスを、銀狐がため息をつきながら遮った。


『……あのな、そういう話は今までに一万回くらいは訊かされた。うんざりするほど代わり映えがしない。違うことといえば、今まさに王子がやって来るということくらいか。……それすらも、私にとってはどうでもよいことなのだ。要するに、鍵を渡さなければ王子を襲うと言いたい訳なのだろう? 勝手に襲えばよかろう。私を追放した王家の世継ぎが少々減ろうが何しようが知ったことではない。それに、宮廷魔術師なぞ誰がなりたいものか。貴重な研究時間を何故他人に割かねばならん。死神と呼びたい者は好きなだけ呼べばよい。お陰で誰にも邪魔されず悠々自適な毎日だ。そうそう、邪魔といえばお前のような存在が邪魔ではあるな。……疾く去るがいい』


 これで終いとばかりに立ち去ろうとする銀狐を、黒い風が遮った。銀狐の目前に忽然と現れたのは黒豹だった。一度の跳躍で橋を飛び越え、銀狐に瞬きひとつの時間すら与えず先回りする。さすがに銀狐も面食らったのか、目を丸くして立ち尽くしている。身を強張らせる銀狐に気を良くしたのか、黒豹が舌なめずりをしながら一歩踏み出した。その様子を眺めていたリンクスが、呻くように嗤いながら黒豹を制する言葉を発した。


「……待て、そいつは食えぬぞ。しょせん影なのでな。そうだろう? ……お前の化身が銀狐なのは承知している。お前に危害を加える気は無い、置き去りにしている肉体には手を出さずにいる。……落ち着いて話がしたい。今からお前の住処に邪魔しても良いか?」


『だから、そういう台詞は飽きたというのだ。私の場所などお前には探れぬ。化身の魔術を使えば肉体が無防備になるのは重々承知、結界のひとつも張らずに使うわけがあるまい。甘く見られたものだよ。死神の端くれにも置けぬな』


 銀狐は大袈裟に肩をすくめて一息に言い放つ。苛立たしげに牙を剥き、三倍ほどの大きさの黒豹の目を睨みつける。


『……そこに何時までも居るがいい。お前如きに私の身体など食わせてやらぬ。せいぜい腹を空かせて彷徨うがいい』


 フン、と鼻を大きく鳴らして銀狐は地を蹴った。ふわりと舞い上がった銀狐は、そのまま高い木々の枝から枝へと飛び移り、深い森の中へと消えて行った。遅れを取った黒豹は、杭のような犬歯を剥き出しにして漆黒のしなやかな体躯に力を溜める。跳躍しようとする黒豹を、リンクスは愉快そうに笑いながら止めた。


「まあ、待て。今頃住処を囲んでいる頃だ。……クク、名ばかりの死神というのも大変なものだな。世間知らずの田舎魔術師には不相応。鍵さえ手に入れれば用は無い、王子共々食い尽くすがよい。だが、鍵を渡すまでは手を出してはならぬぞ……よいな」


 ジロリと睨む主に、黒豹はびくりと身を震わせてちいさく頷いた。萎縮した自分を叱咤するかの如く、全身のバネをぐっと縮め、一気に解き放つ。邪魔な草むらを幾つも飛び越えてあっという間に姿を消した下僕に満足したのか、リンクスは高らかに笑いながらゆっくりと歩き出した。



***



 その様子を、ため息をつきながら眺めている男がいた。

 漆黒のローブを纏ったその男は、人気の無い森の奥深くにある巨木に投げやりに背を預けて佇んでいる。長い杖を木に立て掛け、足元でうねる大蛇のような太い根にやれやれと呟きながら腰を下ろす。首からぶら下げたちいさな両剣水晶を人差し指で弾いて弄びながら、脳裏に浮かぶ招かれざる客たちの様子を見物しながらひとり愚痴をこぼす。


「……まったく。だから何度も同じことを言わすなというのに。化身の魔術をそのまま使う馬鹿がいるかね。半分だけ離脱するに留めれば、化身を造りつつ身体にも留まることが出来るのだがね」


 化身の魔術とは肉体から精神と霊体を離脱させる魔術だ。だからこそ動物の姿を模して術者は正体を隠す。だがウィルドは、完全には離脱せず半分ほどの霊体だけを使って術を成している。もっとも長時間その状態を保つのは疲れるので、そういう時には更に半分にすることで術を維持している。その代わり、容量の問題で動物の姿も半分ほどの大きさになってしまうのだが。


 リンクスと名乗った男を思い出す。随分と下調べを入念にしたものだとおかしな感心をする。言わんとする理屈は判らないでもないが、それに乗るにはいささか自尊心が邪魔をする。ウィルドは自嘲気味に口元を歪める。


(……ふん。随分と簡単に言ってくれる。そうだな、誰かとすり替わることなど実にたやすいことだよ。提案されるまでもない、魔術師なのだよ私は……。だがな、私自身にも判らないのだよ。何故だろうな、私は死神と呼ばれることに、さほど抵抗は無い。……きっと、それはそういうことなのだろうな)


 いつの間にか止んでいた小雨が、再びかすかな音を立てて降り始めた。霧のような朧な雨が空を仰ぐウィルドの顔を濡らしていく。漆黒の魔術師は冷えた身体から白い息をほぅっと吐き出すと、昨夜垣間見た陽気な少年たちの姿をぼんやりとした眼差しで振り返った。


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