1話
険しい山々の狭間から、常ならば夕暮れの朱の空が垣間見える時刻だ。だが今は陽と闇の溶け合う優美な姿は見えず、代わりに混沌を塗りこめた鈍色の雲が湧き上がっている。漆黒の衣を纏うその男は、二階の書斎の窓を開け放ち、遥か西の彼方をただ静かに見つめていた。
やがて薄曇の空から、ちいさな流星がふっと現れた。綺麗な弧を描き、男が佇む窓へするりと舞い降りた。音もなく床の上へと降り立った銀の獣は、男へと鼻先を向けて腰を下ろす。ふっさりとした尾を軽く払い、体へと巻きつける。その様子を、男は観察するように目を細めて見ている。
男はもう一度、窓の外へと視線を向ける。しばらくそのまま遠くの西空を眺めていたが、やがて小さくため息をつくと、窓の横に立てかけてあった杖を手に取った。
黒曜石を細い六角柱に削りだしたかのような、滑らかな光沢を持つ黒い杖だ。背丈に僅かに足りないほどの長さがあり、中央よりやや下に、握りやすいよう薄い幅広の革が巻いてある。男は革の部分を軽く握り、傍らで佇む銀狐の額にそっと杖の先で触れた。
男が何事かを呟くと、杖の先、そして銀狐の全身が淡い蒼の光に包まれる。ひと呼吸ほどの間を置いて、銀狐の体に変化が現れ始めた。みるみるうちに銀狐の姿はちいさくなり、男が杖の先を離した時には半分ほどの大きさの仔狐となっていた。仔狐はひょいと男の肩に飛び乗ると、黒い頭に顎を置いてきゅっと目を閉じる。
男は続いて杖をくるりと回す。途端に杖は黒い羽ペンへと姿を変えた。それをローブの下に仕舞いながらひとり愚痴をこぼす。
「……まったく。私の居ない処で勝手に他人を巻き込むな。そもそも私は一言も引き受けるなどと言ってはおらんというのに。……まあ、もう嫌になっただろう」
双子の王子の姿を前に見たのは、いつだったか。相当昔のことのように思う。そう、あれは七人目の王子が誕生した日だった。確かアウレウスに呼ばれ、王城に化身の術を使い忍び込んだ時だ。ということは十年前になる。あの時はまだ十にも満たぬ子供だった。それがもうすぐ二十となるとは。急に時の流れというものを、まざまさと実感する。男――ウィルドは思わず苦笑いを浮かべる。
もう青年と呼べる歳となった二人は、魔術師との戦いでも怯むことなく堂々と相対していた。最初に襲った蛇に咬まれていれば、そのまま咬み傷から身体の中へと侵入され、なんらかの呪いを埋め込まれることとなっていただろう。その後、炎の矢が放たれたが、あれは更に深く対象者を蝕む。術者よりも数段格上の魔術師でなければ、呪いを解くことはおろか霊的な傷口を塞ぐことすら出来ない。
本来は害をなす魔獣を御するために生み出された魔術なのだが、それをためらいもなく正統な王位継承者に向けるとは。
(……魔術師の質も随分と下がったものだ。それとも、本気で王座を彼らには渡さぬとでも。ヴィンセント卿はそこまで王位に執着する方とも思えんのだがな……。私はあの方は苦手だ。関わりたくもない。ちゃんと伝言を果たしてくれればよいのだが)
王弟であるヴィンセント卿と直接顔を合わせたことはほとんどないのだが、そもそも産まれて間もない自分を両親ともども国から追放した張本人だ。宮廷魔術師を務めていた父は、その後国境近くのこの場所に妻と子を連れて隠匿し、後任を父の兄、アウレウスが務めることとなった。
国王であるザカライアスは、その元となった因習を気にすることはなく、逆に迷信であると宣言すらして、親子を護ろうと当時尽力していたのだと伝え聞いている。
しばらく物思いに耽っていたウィルドは、ふと顔を上げた。眉根を寄せ、厳しい視線を虚空へと向ける。
(そういえば、彼らにまつわる因習があったな。国を別つ存在……それを信じる者が、今はどれほど居るのだろうな)
双子の王子は国を割る――そう古くから言い伝えられているのだが、それはこの国の歴史に起因する。
双子の王子が元となった内乱により、ひとつであった国は三つに別たれることとなった。兄が王となったこのテルティア、弟が支配するトリア、そして内乱を期に独立した森林の国、サルトゥス。その国の起こりがあるだけに、三ヶ国とも双子の王子を忌み嫌う。国が別れてより二百年が経つが、その後初めての双子の王子が、テルティアで産まれることとなる。
だが、二百年の間にこれまで一度も現れなかったのかどうか――真実は誰も知ることはない。
ウィルドはずぶ濡れとなって戦う彼らの姿を思い出す。
共に戦うあの兄弟に、その言葉を思い起こす者が居るのだろうか。たったひとつの重なりが、いにしえの言葉に呪詛の力を与え現在に成就せしめるのか。
かつての自分に向けられた、良識という名の非情な刃が、再び振り下ろされるのか。
もし彼らが、それと戦おうとしているのならば――
いつの間にか壁にもたれていたウィルドは、軽く頭を振って背筋を正す。ふう、とため息をつくと、窓へ向かって右腕を伸ばす。肩に乗っていた仔狐が右腕へと移り、そのままためらいもなく宙へと駆けて行った。向かう先には暗雲立ち込める西の夕空。仔狐の頼りなげな足どりを、ウィルドは物憂げな眼差しを向けて見送った。




