第九話「御用商人組合の文書と、四人の夜」
御所御用達の称号が近衛家に下されるという正式な文書が届いたのは、御前から三日後の昼過ぎだった。
さとからの使いが持ってきたその文書を、糸子は父上と並んで読んだ。
内容は簡潔だった。
近衛家が御所台所方に対して行ってきた貢献を認め、今後も継続して御所との取引関係を持つことを許可する。近衛家の扱う品については御所御用達として認める。
それだけだ。
しかしその「それだけ」の重さは、糸子には十分に分かった。
父上が静かに言った。
「……できたな」
「はい」
「屋根を直すと言い出した時から、ここまで来るとは思っていなかった」
「まだ始まりです」
「分かっている。しかし……一つ、きちんと達成した」
父上の顔が、穏やかに緩んでいた。
糸子も、少しだけ息を抜いた。
御所御用達。
これで近衛家の商売には、どんな批判も容易に向けられなくなった。「御所のお役に立っている商いに口を出すのか」という論理が使えるようになった。
そしてこの称号は、田辺屋への牽制にもなる。
田辺屋はかつて御所との関係を失った。その空白を近衛家が埋めた。それが今、正式な形で認められた。
しかし糸子がそこまで考えた時、お梅が部屋に入ってきた。
その顔が、固かった。
「姫様、田辺屋から文が参りました」
糸子は帳面を閉じた。
来た、と思った。
しかもこのタイミングで来た。
御所御用達の知らせと同じ日に、田辺屋から文書が届く。
偶然ではない。
田辺屋は御所の動きを把握している。御所御用達の知らせが近衛家に届くことを事前に知っていて、それに合わせて動いてきた。
糸子は文を受け取った。
丁寧な書き出しで始まる文章だった。しかし読み進めるにつれ、その内容が明確になってきた。
近衛家の商売が近年急速に拡大していることについて、幕府の御用商人組合として懸念を表明致します。具体的には、近衛家が取引する品の一部が、従来の幕府認定の流通経路と競合する可能性があります。また御所との取引については、幕府の御用商人組合との調整が必要ではないでしょうか。以上について、近衛家の当主様と正式にお話しする機会を設けていただきたく、何卒、その旨、お耳に入れておきくださいますよう、伏してお願い申し上げます。
文書の末尾に、田辺屋儀兵衛の名前があった。
そしてその下に、幕府の御用商人組合に属する商家の名前が六つ並んでいた。
一人ではなく、組織として動いてきた。
糸子は文書を二度読んで、お梅を見た。
「お梅、実光様にお使いを出して頂戴。今夜都合がつけば来ていただきたいと。それから善次郎と村岡にも。三人に集まってもらいます」
「今夜中でございますか」
「はい。今夜中に対応を決めます」
夜になって、三人が集まった。
実光が最初に来て、次に村岡が来て、善次郎が一番最後に来た。
善次郎は息が少し乱れていた。急いで来たのだろう。
「姫君様、急なお呼び立てで何かございましたか」
「座って頂戴。全員揃ってから話します」
四人が座った。
糸子は田辺屋の文書を三人の前に広げた。
「今日届きました。読んでいただけますか」
三人がそれぞれ文書を読んだ。
実光が読み終えて、静かに言った。
「……組合名義で来ましたか」
「はい」
「一人ではなく組合として動いてきたことは、これが個人の問題ではないということを示しています。田辺屋一軒の話ではなく、幕府の御用商人全体として近衛家の動きを問題視しているという意思表示です」
「その通りだと思います」糸子は頷いた。「実光様、有職故実の観点から、この文書の問題点はどこにありますか」
実光が少し考えた。
「幕府の御用商人組合が、公家に対して正式な調整を求めてきたこと自体は……前例があるとは言えません。公家への干渉は、幕府の立場からも慎重にならざるを得ない部分があります」
「御所御用達の称号が今日正式に下されたことは、この文書への反論になりますでしょうか」
「なります。御所が近衛家の商売を認めている以上、幕府の御用商人がその商売を問題視することは……御所の判断に異を唱えることと同義になります。それは幕府にとっても、御所との関係上、やりにくい立場に置かれます」
「つまり、御所御用達の称号は、田辺屋の文書への最も有効な盾になる」
「はい。今日この時期で来たことは、田辺屋が御所御用達の知らせを事前に知っていて、その前に動こうとしていた可能性があります。しかし届いた時にはすでに称号が下された後でした。田辺屋にとっては、対応が少し遅すぎた」
善次郎が言った。
「姫君様、田辺屋は御所の動きをどうやって事前に知ったのでございましょうか」
「それが分かれば、対処できることが増えます。善次郎、田辺屋が御所に情報の経路を持っているとすれば、どのような経路が考えられますか」
「……御所に出入りしている商家を通じて、でしょうか。田辺屋は御所との直接の取引はなくなっていますが、御所に出入りしている他の商家と取引があれば、そこから情報が漏れることはあるかと」
「村岡、御所の中で田辺屋と関係のある商家を知っていますか」
村岡が少し考えた。
「直接は存じません。ただ……御所の台所方以外の部署、例えば御装束の仕立てなどを担当している商家の中に、田辺屋と以前取引があったと聞いたことがあります」
「その商家を通じて情報が入っている可能性があるということですね」
「可能性としては、でございますが」
糸子は頭の中で整理した。
田辺屋は御所の中に情報の経路を持っている。だから御所御用達の動きを事前に把握できた。そしてそのタイミングに合わせて、組合名義の文書を送ってきた。
これは相当に計算された動きだ。
単純な商売上の縄張り争いではなく、情報戦を含めた戦略的な動きだ。
「今夜、この文書への返答の仕方を決めたいと思います。三人の意見を聞かせてください」
実光が言った。
「返答しないという選択肢はありますか」
「あります。ただし返答しない場合、田辺屋は近衛家が問題を認識していないか、あるいは認識しているが対応できないと判断するかもしれません」
「では返答する場合、どのような内容が適切でしょうか」
「御所御用達の称号が下されたという事実を前面に出して、近衛家の商売は御所への臣下の務めであることを再確認する。幕府の御用商人組合との調整については……調整する必要があるとは考えていないという立場を、柔らかく、しかしはっきりと伝える」
村岡が静かに言った。
「柔らかく、というのは」
「文書の言葉を丁寧に保ちながら、内容は譲らない。形式は穏やかで、中身は明確に」
善次郎が少し考えてから言った。
「姫君様、一つよろしゅうございますか」
「どうぞ」
「田辺屋は今後、どこまで動いてくると思われますか。この文書は始まりに過ぎないのでしょうか」
糸子は少し間を置いた。
「正直に言うと、まだ分かりません。しかし田辺屋が組合名義で動いてきたことは、個人の問題として解決する気がないということです。組合として問題視しているということは、近衛家が譲歩しない場合、次の手を組合として考えてくる可能性があります」
「次の手とは」
「幕府への働きかけです。幕府の御用商人組合が正式に幕府に申し入れをすれば、幕府が近衛家の商売に何らかの制限を設けようとするかもしれません」
実光が頷いた。
「そうなった場合、御所御用達の称号があっても、幕府の判断には抗いにくくなります」
「その通りです」
「では……御門様のお力をお借りすることを考えるべきでしょうか」
糸子はしばらく黙った。
御門様のお力を借りる。
それは選択肢としてある。御門様が近衛家の商売を認めるとお言葉を下されれば、幕府も動きにくくなる。
しかしそれには代償がある。
御門様を商売上の問題に巻き込むことになる。それは御門様の権威を商売に使うということであり、慎重にならなければならない。
「今の段階では御門様のお力を借りることは考えていません。まだその段階ではありません」
「ではどうするのでございますか」実光が聞いた。
「まず返答文を送ります。その内容で相手の次の動きを測ります。相手が引くなら、そこで終わり。引かない場合は……その時に次の手を考えます」
「一手一手、相手の動きを見ながら」
「そうです。こちらが先に大きな手を使う必要はありません。相手が仕掛けてきてから対応しても、遅くはない」
返答文の内容を四人で考えた。
実光が文章の骨格を提案し、村岡が言葉の細部を整え、善次郎が「商人として読んだらどう受け取るか」という観点から確認した。
最終的に糸子がまとめた文章は、こうなった。
田辺屋様はじめ幕府御用商人組合の皆様よりご懸念のお申し出、謹んで拝受いたしました。近衛家の取引については、このたび御所より御用達の称号を賜り、御所への臣下の務めとしての取引であることが正式に認められました。近衛家の商いは、従来の流通経路を乱すものではなく、御所への奉仕を目的とした独自の取り組みでございます。幕府御用商人組合の皆様のご商売を妨げる意図は全くございませんので、ご安心いただければ幸いでございます。今後ともよろしくお願い申し上げます。
四人が文章を確認した。
実光が言った。
「御所御用達の称号を前面に出しながら、競合しないと言い切っている。そして組合との調整については、一言も触れていない」
「触れる必要はありません。触れれば調整の余地があると認めることになります」
「田辺屋はこの返答をどう読むでしょうか」
「近衛家が譲らないと読むと思います。そして御所御用達の称号を盾にされていることを認識する」
「その後、田辺屋はどう動くと思われますか」
「しばらく様子を見ると思います。御所との関係を持ち出されれば、組合として幕府に働きかけることも、少し難しくなります。御門様に逆らう形になってしまいますから」
善次郎が言った。
「姫君様、この返答で田辺屋が大人しくなればよいのでございますが、もしそうでなかった場合……」
「その時は、別の手を使います」
「別の手、とは」
糸子は少し間を置いた。
「田辺屋が御所の台所方との関係を失った経緯について、さとから聞いた話があります。それはまだ使う必要がない情報ですが……使わなければならない時が来れば、使います」
実光が糸子を見た。
「それは……切り札として持っておく、ということでございますね」
「はい。切り札はすぐに使わない。しかし必要な時には、必ず使います」
返答文を書き終えた後、四人でお茶を飲んだ。
緊張が少し緩んで、自然と話が続いた。
善次郎が言った。
「実光様、本日はありがとうございました。有職故実の観点からのお話、大変参考になりました」
実光が少し驚いた顔をした。
「善次郎に感謝されるとは」
「わたしには全く分からない世界でございますので。公家の方々の話し合いがあのような文書で動くとは、商売の世界とは全然違います」
「商売の世界は、直接話し合いが多いのですか」
「はい。お互いに値段を言い合って、合えば取引成立、合わなければ終わり。文書のやり取りよりも、顔を突き合わせた話し合いが基本でございます」
「そちらのほうが分かりやすいですね」
「でも公家の方々のように文書で動く世界は、言葉の重みが違うのだと分かりました。文書に書かれた言葉は消えませんから」
「そうです。だから言葉を慎重に選ぶ必要があります」
村岡が静かに言った。
「実光様、一つよろしゅうございますか」
「はい」
「実光様がここに来てくださることは、広橋様はご存じないのでしょうか」
実光が少し間を置いた。
「……父には、近衛家に時々呼ばれていると話しています。具体的な内容は話していません」
「広橋様が知られた場合、実光様のお立場はどうなりますか」
「少し難しくなるかもしれません。父は近衛家の商売を問題視してここに来ました。その息子が近衛家に協力しているとなれば……父として、困惑するでしょう」
「それでも来てくださっているのですね」
「はい」
実光が少し間を置いてから続けた。
「正直に申し上げると……父はこの国のことを心配しています。ただ心配の仕方が、近衛家とは違う。父は変化を恐れている。しかしわたしは、変化しないことのほうが怖いと思っています」
「変化しないことへの怖さ、でございますか」
「このまま何も変わらなければ、いつか外から大きな力が来た時に、対応できません。それが怖い。姫君様がなさっていることは、その対応の準備だと思っています。父が反対するようなことでも、必要なことはある」
糸子は実光を見た。
「実光様がそのようにお考えになったのは、いつ頃からでございましょうか」
「……書物を読んでいて、南蛮の国々のことを知るにつれて、徐々に。有職故実を学ぶほどに、この国の形が変わらないことへの誇りを感じる一方で……その形が守られるためには、外からの力に対応できる備えが必要だとも感じるようになりました」
「矛盾しているように見えて、矛盾していませんね」
「はい。変えてはいけないものを守るために、変えるべきことは変える。その判断が大事だと思っています」
糸子は頷いた。
実光は、糸子が思っていたより深く考えている人間だった。
深夜近くになって、三人が帰ることになった。
善次郎が最後に言った。
「姫君様、今夜のことで一つだけ確認させてください」
「なんですか」
「田辺屋への返答文は、明日送るのでございますか」
「はい、明日の朝に使いを出します」
「では……返答を送った後、田辺屋がどう動くかを、松屋でも気をつけて見ておきます。田辺屋が江戸で何か動きを見せた場合は、すぐにお伝えします」
「よろしくお願いね」
「それから……」善次郎が少し躊躇してから続けた。「姫君様、今夜のような場に呼んでいただいて、ありがとう存じます。わたしには公家の礼法も有職故実も分かりません。でも、こういう場に加えていただけることが……本当に有りがたいことでございます」
「善次郎がいなければ、田辺屋の動きをここまで早く把握できませんでした。感謝しているのはこちらです」
善次郎が深く頭を下げた。
村岡が帰り際に糸子に言った。
「姫君様、今夜の話の中で一つ気になったことがございます」
「何でしょう」
「田辺屋が御所の内部に情報の経路を持っているという話でございますが……御装束の仕立てを担当している商家を通じて、という可能性を申し上げました。もう少し調べてみます」
「お願いします。ただし目立たないように」
「心得ております」
実光が最後に言った。
「姫君様、今夜の返答文の文章……公家の文書として十分な格式を持っています。いつ有職故実を学ばれたのですか」
「実光様が先日教えてくださった礼法と合わせて、書物で少し」
「書物だけで、あれだけの文章が書けるとは」
「実光様に見ていただいて直していただきましたから」
「わたしが直した部分は、ほとんどなかったように思います」
「そうでしたか」
実光が少し笑った。
「姫君様は……不思議なお方でございます」
「よく言われます」
三人が帰った後、糸子は一人で座敷に残った。
行灯の灯が一本だけある。
糸子は今夜の出来事を振り返った。
田辺屋の文書が来た。組合名義だった。予想より早く、予想より大きな動きだった。
しかし対応の方針は決まった。御所御用達の称号を盾にして、譲らない姿勢を柔らかく伝える。
切り札はまだ使わない。
そして今夜の四人の話し合いで、改めて感じたことがある。
実光の有職故実の知識。村岡の御所内の情報網。善次郎の江戸での耳。
三人それぞれが、糸子には持っていない何かを持っている。
そして三人が集まることで、一人では見えなかったものが見える。
これが組織の力だ。
前世の百貨店で、チームで動く面白さを知っていた。しかしこの時代に、こういう形のチームができるとは思っていなかった。
公家の嫡男、御所の女官見習い、江戸の商家の倅。
全く異なる立場の三人が、七歳の姫君の周りに集まっている。
糸子は帳面を開いた。
今夜の話し合いの内容を書き留めながら、次の手を考え始めた。
田辺屋の返答を送る。田辺屋の次の動きを待つ。その間に、御所御用達の称号を使った江戸への販路拡大を進める。松屋との正式な取引契約を結ぶ。
そして御門様への次の報告を準備する。
南蛮の国々についての情報を、御門様にお伝えできる形にまとめる。それは御門様のご関心に応えることであり、同時に近衛家と御門様の関係をより深めることになる。
一つ一つが繋がっている。
糸子は筆を走らせながら、前世の咲の記憶に聞いた。
百貨店で社内ベンチャーを立ち上げた時、最初は一人だった。少しずつ協力者が増えて、チームになって、プロジェクトが形になっていった。あの時の感覚と、今の感覚が重なる。
違うのは、規模だ。
あの時は一つの百貨店の中での話だった。今は、この国の行く末がかかっている。
しかし基本は同じだ。
一人では動けないことも、信頼できる人間と一緒なら動ける。
糸子は帳面を閉じた。
行灯の灯が揺れた。
外は静かだった。
田辺屋の次の動きはまだ分からない。しかし今夜決めたことは、明日から動かせる。
一つずつ。確実に。
それだけだ。
第九話 了




