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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します  作者: 1009


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第八話「御門様の御前にて」

 さとからの文は、短かった。

 しかしその短さの中に、とてつもなく重いものが入っていた。

 糸子は文を三度読んだ。

 三度読んでも、内容は変わらない。

 御門様が、近衛家の姫君にお会いになりたいとおっしゃっている。

「……お梅」

「はい」

「父上を呼んで頂戴。急いで」

 お梅が走るように部屋を出た。

 糸子は文を膝の上に置いて、少しの間だけ目を閉じた。

 来た。

 これまでの全ての準備が、この一点に向かっていたわけではない。しかしこの謁見は、これまでやってきたことの集大成であり、同時に次の段階への扉だ。

 御所御用達の称号。御所台所方との関係。天朝物産会所という構想。それらが全て、御門様との直接の繋がりがあってこそ、本当の意味を持つ。

 しかし同時に、これは最も慎重に臨まなければならない場面だ。

 御門様は天子様だ。

 公家社会において最も高い存在。その御前では、一言一言が全て意味を持つ。不用意な言葉は許されない。しかし萎縮して何も言えなければ、この機会を無駄にする。

 攻めすぎてはいけない。しかし守りに入りすぎてもいけない。

 その綱渡りを、どうやってやり切るか。

 父上が部屋に入ってきた。

「糸子、お梅から聞いた。さとから文が来たと」

「はい。読んでいただけますか」

 父上が文を受け取った。

 読み進めながら、父上の顔色が変わった。

「……御門様が、お前に」

「はい」

「なぜ……」

「御所の台所方のお手伝いが御門様のお耳に入ったのだと思います。それがきっかけかと」

 父上がしばらく黙っていた。

 それから、深く息を吸った。

「糸子、これは……大変なことだぞ」

「分かっています」

「御門様の御前というのは、わたしでも緊張する。お前は……」

「緊張します」糸子は正直に答えた。「しかし行かない理由はありません」

「何か失礼を犯せば」

「犯さないように準備します。父上、有職故実に詳しい方にご相談できますか。御前での礼法を確認したい」

 父上が少し考えた。

「……そうだな。広橋の若君が有職故実に通じていると言っていたな」

「実光様に相談することができれば、と思います。ただし父上のお名前でお声掛けいただけますか。わたくしから直接では、先日の経緯もあって難しいかもしれませんので」

「分かった。すぐに使いを出そう」


 実光が近衛家に来たのは、翌日の午前だった。

 父上からの使いを受けて、父親の広橋権中納言には「近衛様のお呼びで有職故実についてご相談がある」とだけ伝えて来たという。

 座敷に入ってきた実光は、糸子を見て少し目を細めた。

 先日と同じ、観察の目だ。

「また近衛様にお呼びいただけるとは思いませんでした」

「急なお呼び立てを失礼いたしました」

「いいえ。……先日、お声掛けがあれば来ると申し上げましたので」

「実光様、一つお聞きしてよろしゅうございますか」

「はい」

「御門様の御前での礼法について、詳しく教えていただけますか」

 実光が少し間を置いた。

 驚いた、というより、確認している間だ。

「御門様の御前に出られるのですか」

「近々、お召しがあるとお聞きしました」

「それは……大変なことでございますね」

「はい。だから相談したいのです」

 実光が静かに頷いた。

「分かりました。順を追ってお話しします」

 それから実光は、御門様の御前での礼法を丁寧に説明してくれた。

 入室の仕方、座る位置、頭を下げるタイミング、言葉の使い方、目線の置き方……細かい点まで、実光の説明は正確で分かりやすかった。

 糸子は全て帳面に書き留めた。

「実光様、一つ確認させてください」

「はい」

「御門様がお言葉をかけてくださった場合、どのように返すのが適切でしょうか」

「御門様のお言葉には、まず深く頭を下げてから返します。言葉は短く、丁寧に。長々と話すことは控えるべきですが、短すぎても失礼になる場合があります」

「その加減が難しいですね」

「はい。しかし基本は……御門様がお聞きになりたいことに、誠実にお答えすること。それだけです」

「誠実に、でございますか」

「はい。御門様は長年多くの公家と話されています。飾った言葉と誠実な言葉の違いは、すぐにお分かりになります」

 糸子は頷いた。

 誠実に答える。

 それは糸子には難しくない。商売の話も、外国の話も、この国の将来についての話も、糸子が本当に考えていることだ。

 ただし全部話すわけではない。

 御門様の御前で何を話し、何を話さないか。それを事前に決めておく必要がある。

「実光様、もう一つよろしいですか」

「何でしょう」

「御門様は、近頃どのようなことをお気にされているかご存じですか」

 実光が少し考えた。

「……わたしが直接伺えるような立場ではないので、確かなことは申し上げられません。ただ、御所の中での話として……異国船のことは、御門様もお聞き及びのようでございます」

「やはりそうでございますか」

「それ以上のことは分かりません。ただ……御門様が近衛家の姫君にお会いになりたいとおっしゃったことは、何かご関心があってのことだと思います」

「その関心が何かについて、実光様はどうお考えですか」

 実光がじっと糸子を見た。

「……御所の台所方のお手伝いだけであれば、わざわざ姫君にお会いになる必要はないはずです。台所方への感謝であれば、さとに伝えれば済む話です」

「では」

「姫君が商いを通じて動いておられることへの……関心ではないかと思います。商いという言葉が正確かどうかは分かりませんが、近衛家が独自に動いていることへの」

 糸子は少しの間考えた。

「その関心が、良い意味での関心か、悪い意味での関心か、実光様はどう思われますか」

「……良い意味だと思います」実光が静かに言った。「悪い意味であれば、お会いになるのではなく、近衛家の当主様にお伝えが来るはずです。姫君にお会いになりたいというのは……姫君が動いていることを、御門様がご存じで、直接お聞きになりたいということではないかと」

「深く感謝申し上げます。大変参考になりました」


 実光が帰った後、糸子は一人で帳面を開いた。

 御前で話すこと、話さないことを整理する。

 話すこと。近衛家の台所方へのお手伝いの経緯。商売が御所への臣下の務めから始まったこと。今後も御所のお役に立てることがあれば続けたいという意思。

 話さないこと。天朝物産会所の構想。将来の外国との取引計画。田辺屋との関係。江戸の販路計画。

 御門様がもし外国について聞かれたら。

 ここが最も難しい部分だ。

 御門様は攘夷の意識が強い方だと、前世の知識にある。外国が来ることへの強い警戒感を持っておられる。

 糸子が考えていることは、外国と対等に渡り合うための準備だ。それは攘夷とは異なる。しかし開国とも単純には言えない。

 どう伝えるか。

 正面から「外国と取引すべきです」とは言えない。しかし「攘夷が正しい」とも言えない。前世の知識が、その道の行き着く先を知っているから。

 言葉を慎重に選ぶ。

 御門様のお考えに反論するのではなく、別の角度から話を進める。

 それが今回の御前での基本方針だ。


 御所への参内の日は、冬の澄んだ朝だった。

 近衛家から御所へ向かう前、糸子は鏡の前に座った。

 着物は父上が選んでくれた、近衛家の正式な装束だ。糸子の年齢に合わせた品のある色合いで、しかし御所に相応しい格式がある。

 鏡の中に、七歳の公家の姫君が座っている。

 前世の橘咲ならば、今日のような場面でどんな顔をしていただろうか。

 百貨店の大口顧客との会食の前、あるいは社内で重要なプレゼンをする前……そういう場面で、咲は「緊張している場合ではない」と自分に言い聞かせてきた。

 今も同じだ。

 緊張している場合ではない。

「姫様、お時間でございます」

 お梅の声が廊下から聞こえた。

 糸子は立ち上がった。


 御所の中の、内向きの部屋に通された。

 さとが案内してくれた。さとの顔は普段より少し緊張しているように見えた。それがかえって、この場の重さを伝えてくる。

「さと、ありがとうございます」

 小声で言うと、さとが小さく頷いた。

「お気をつけて」

 部屋の入口で、糸子は実光に教わった礼法を頭の中で一度確認した。

 入室の仕方。座る位置。頭を下げるタイミング。

 全部入っている。

 糸子は部屋に入った。


 御門様は、糸子が想像していたよりも若く見えた。

 二十代の後半だろうか。穏やかな顔立ちで、しかし目に強い光がある。長年御所の中で育ってきた人間の、静かな威厳がある。

 糸子は実光に教わった通りに礼をした。

 しばらく沈黙があった。

「面を上げよ」

 御門様のお声は、予想よりも穏やかだった。

 糸子は顔を上げた。

 御門様が糸子を見ておられる。

 その目が何を見ているか、糸子は素早く読もうとした。

 値踏み、ではない。好奇心、でもない。

 確認だ。

 何かを確認しようとしている目だ。

「近衛の糸子か」

「はい」

「台所方のことは聞いた。そなたが動いたと」

「父の名の下に、少しばかりお手伝いをさせていただきました」

「父の名の下に、と言うたが……そなたが考えたことであろう」

 一瞬の間があった。

 糸子は正直に答えることにした。

「はい。父に相談しながら、わたくしが考えました」

「正直な子じゃ」

 御門様が少し表情を動かされた。笑顔とは言えないが、硬さが和らいだ。

「何ゆえ台所方のことを考えた」

「御所がお困りであると伺いましたので。近衛家にできることがあれば、と思いました」

「近衛家にできることが、商いであったか」

「商いとは少し異なります。近衛家の取引を通じて、良い品を御所にお届けすることが目的でございました。取引そのものは、あくまで手段でございます」

「手段、か」

 御門様がもう一度糸子を見られた。

「そなたはまだ幼い。しかし話し方が幼くない」

「恐れ入ります」

「怖くないか。朕の前で」

「怖うございます」

 素直に答えた。

 御門様が、今度ははっきりと表情を動かされた。

「正直じゃ」

「嘘をついても仕方がございませんので」

「ふむ」

 少しの間があった。

 糸子は待った。急がない。御門様のペースに合わせる。

「台所方が改まったことは、朕も知っておる。食材の質が良くなった。さとがよく動いておるとは聞いていたが……近衛の動きがあってのことだとは知らなかった」

「微々たるお手伝いでございます」

「微々たる、とは思わぬ。さとが長年困っておったことが、ようやく動いた。それは小さいことではない」

 糸子は頭を下げた。

「過分なお言葉でございます」

「糸子」

「はい」

「そなたは今後、どのようなことをするつもりじゃ」

 来た。

 糸子は一瞬、頭の中で言葉を選んだ。

 何を話し、何を話さないか。

 御門様の御前で、計算した言葉を使うことは失礼だ。しかし何も考えずに話すことは無責任だ。

 誠実に、しかし慎重に。

「御所が本来の力を発揮できるよう、お役に立てることを続けたいと思っております」

「御所の力、と申すか」

「はい。御門様をお支えする公家や朝廷が、十分な力を持っていれば、この国のために動けることが増えます。その力を作ることに、近衛家として貢献したいと考えております」

「その力とは、銭のことか」

「銭も含まれます。しかし銭だけではございません。情報も、人のつながりも、力でございます」

 御門様が少し間を置かれた。

「情報、か」

「はい」

「何ゆえ情報を力と申す」

 糸子は答えた。

「知らなければ、判断できません。判断できなければ、動けません。正しい情報を持つことは、正しい判断の基盤でございます。特にこれからの時代は……」

 糸子は少し間を置いた。

「続けよ」

「これからの時代は、外から多くのことがこの国に入ってまいります。その時に、正しい情報を持って正しい判断ができることが、この国にとって大切なことだと思います」

「外からのこと、とは」

「南蛮の国々のことでございます」

 沈黙が落ちた。

 糸子は御門様の表情を見た。

 硬くなってはいない。しかし真剣さが増している。

「南蛮の国々について、そなたは何を知っておる」

「書物で読んだことがございます。それから、取引を通じて聞いた話もございます」

「何を読んだ」

「南蛮の国々の力のことでございます。特に、英吉利国が世界の各地でどのように動いているかについて」

「英吉利国」

「はい。先年、唐土の清朝と争いがございました。清朝は大国でございましたが、英吉利国に敗れました」

「それは聞き及んでいる。しかしなぜそなたが……」

「近衛家の商いを通じて、大坂や江戸の商人から情報が入ってまいります。商人は世の動きに敏感でございますので、南蛮の国々についての話も耳に入ります」

 これは本当のことだ。善次郎から聞いた話、鴻池の伊右衛門から聞いた話……それらは全て、商売を通じて得た情報だ。

「清朝が敗れた。それがこの国にどう関わると申す」

 ここが核心だ。

 糸子は言葉を選んだ。

「清朝は大国でございました。しかし英吉利国の力に備えができておりませんでした。その結果、思わぬ形で敗れました。この国も……備えを整えておくことが大切かと存じます」

「備えとは、何の備えじゃ」

「南蛮の国々を正しく知ることでございます。知らなければ備えができません。知った上で、この国としてどう対処するかを考えることが、備えの第一歩かと存じます」

 御門様がしばらく沈黙された。

 長い沈黙だった。

 糸子は動かずに待った。

「南蛮の国々を正しく知ること……それを、そなたはできるか」

「完全にはできません。しかし商いを通じた情報収集と、書物からの知識を合わせることで、何がしかのことはお伝えできると思います」

「近衛家の商いが、そのための手段でもあると申すか」

「はい。商いはお金を生みますが、同時に情報も生みます。その情報を御所のお役に立てることができれば、と考えております」

 御門様が、また少し表情を動かされた。

「商いで情報を集め、御所に伝える……それがそなたの考えていることか」

「はい。大それたことでございますが」

「大それたとは思わぬ」

 御門様の声が少し変わった。

 硬さではなく、何か別のものが入ってきた。

「朕も……この国のことが心配である。幕府が全て把握しているとは思えぬ。御所に正しい情報が入ってこないことが、長年の懸念じゃ」

 糸子は頭を下げた。

「御門様のお心、拝察いたします」

「そなたが動くことで、御所に正しい情報が届くようになるなら……朕は、それを止める理由がない」

「ありがたき御言葉でございます」

「ただし」

 御門様の声が少し引き締まった。

「この国を乱すような動きは、朕は望まぬ。南蛮の国々と取引をするにしても、この国の形が変わるようなことは……朕の本意ではない」

 糸子は頭を下げたまま答えた。

「はい。この国の形を守ることが、近衛家の本分と心得ております。商いはその本分を果たすための力を作るためでございます」

「よろしい」

 短い言葉だった。しかしその重さは、長い言葉より重かった。

「糸子、そなたはまだ幼い。しかし……面白い子じゃ」

「恐れ入ります」

「また来るがよい。話を聞かせよ」

 糸子は深く頭を下げた。

「身に余る光栄、ありがたき幸せに存じます」


 御所から近衛家への帰り道、お梅が小声で言った。

「姫様、お顔の色が少し悪うございます」

「そうですか」

「緊張なさいましたか」

「しました」

 糸子は正直に答えた。

 御門様の御前では、どれほど準備をしていても、一言一言に全力を使った。あの緊張は、これまでのどんな場面とも違う種類のものだった。

「うまくいきましたか」

「……分かりません。しかし最悪の結果ではなかったと思います」

「また来るがよいと、仰ってくださったとお梅には聞こえました」

「聞こえていましたか」

「少しだけ」

 糸子は少し笑った。

「また来るがよい、というのは……御門様のご関心が完全には消えていないということだと思います。それは悪いことではない」

「次に行く時は、もっとしっかりとした話をお持ちするつもりですか」

「はい。南蛮の国々についての情報を、もう少し整理してお伝えできるよう準備します。善次郎の江戸での情報と、村岡の御所内の情報と、わたくしが持っている知識を合わせれば、それなりのものになると思います」


 近衛家に戻ると、父上が待っていた。

「どうだった」

「思ったより、話が進みました」

「話が進んだ、とは」

「御門様が、近衛家の動きにご関心をお持ちであることが分かりました。また来るようにとのお言葉もいただきました」

 父上が少しの間黙っていた。

 それから、静かに言った。

「……糸子、お前は本当に、大したものだな」

「父上のお名前があってできたことです」

「いや」父上が首を振った。「父の名前でできることには限りがある。あの御前で、一人で話を続けたのはお前だ。それはお前の力だ」

 糸子は少し考えてから答えた。

「父上、一つお願いがあります」

「何だ」

「今日御門様にお話ししたことを、外には漏らさないようにしていただけますか。田辺屋の件もありますし、御門様との関係が外に知れれば、余計な動きが出てくる可能性があります」

「分かった。お梅にも伝えておこう」

「ありがとうございます」


 夜、糸子は帳面を開いた。

 今日の御前での会話を、できる限り正確に書き留めた。

 御門様がおっしゃったこと。糸子が答えたこと。どの言葉の時に表情が動いたか。どの話題に最も関心を示されたか。

 書き終えて、糸子は行灯の灯を見た。

 御門様は、南蛮の国々についての情報を求めておられる。

 これは想定の範囲内だった。しかし「この国の形が変わるようなことは望まぬ」というお言葉は、今後の動き方に影響してくる。

 糸子が考えている日本独自の近代化は、この国の形を守ることと矛盾しない。しかし説明の仕方によっては、矛盾するように聞こえる場面が出てくる。

 御門様のお言葉を頭に置きながら、今後の動きを考え直す必要がある。

 急がない。しかし考え続ける。

 糸子は帳面を閉じた。

 御所御用達の称号は、今日の謁見で大きく近づいた。

 しかしそれ以上に大きなことが、今日起きた。

 御門様とのつながりが生まれた。

 それは、糸子が思い描いていた構想の中で、最も重要なピースの一つだった。

 まだ始まりだ。しかし確かに、始まった。

 雨漏りする屋根を直すことから始まった小さな商売が、今日、御門様の御前に届いた。

 次は何をするか。

 糸子は目を閉じた。

 答えは、もう出ている。


第八話 了

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