第八話「御門様の御前にて」
さとからの文は、短かった。
しかしその短さの中に、とてつもなく重いものが入っていた。
糸子は文を三度読んだ。
三度読んでも、内容は変わらない。
御門様が、近衛家の姫君にお会いになりたいとおっしゃっている。
「……お梅」
「はい」
「父上を呼んで頂戴。急いで」
お梅が走るように部屋を出た。
糸子は文を膝の上に置いて、少しの間だけ目を閉じた。
来た。
これまでの全ての準備が、この一点に向かっていたわけではない。しかしこの謁見は、これまでやってきたことの集大成であり、同時に次の段階への扉だ。
御所御用達の称号。御所台所方との関係。天朝物産会所という構想。それらが全て、御門様との直接の繋がりがあってこそ、本当の意味を持つ。
しかし同時に、これは最も慎重に臨まなければならない場面だ。
御門様は天子様だ。
公家社会において最も高い存在。その御前では、一言一言が全て意味を持つ。不用意な言葉は許されない。しかし萎縮して何も言えなければ、この機会を無駄にする。
攻めすぎてはいけない。しかし守りに入りすぎてもいけない。
その綱渡りを、どうやってやり切るか。
父上が部屋に入ってきた。
「糸子、お梅から聞いた。さとから文が来たと」
「はい。読んでいただけますか」
父上が文を受け取った。
読み進めながら、父上の顔色が変わった。
「……御門様が、お前に」
「はい」
「なぜ……」
「御所の台所方のお手伝いが御門様のお耳に入ったのだと思います。それがきっかけかと」
父上がしばらく黙っていた。
それから、深く息を吸った。
「糸子、これは……大変なことだぞ」
「分かっています」
「御門様の御前というのは、わたしでも緊張する。お前は……」
「緊張します」糸子は正直に答えた。「しかし行かない理由はありません」
「何か失礼を犯せば」
「犯さないように準備します。父上、有職故実に詳しい方にご相談できますか。御前での礼法を確認したい」
父上が少し考えた。
「……そうだな。広橋の若君が有職故実に通じていると言っていたな」
「実光様に相談することができれば、と思います。ただし父上のお名前でお声掛けいただけますか。わたくしから直接では、先日の経緯もあって難しいかもしれませんので」
「分かった。すぐに使いを出そう」
実光が近衛家に来たのは、翌日の午前だった。
父上からの使いを受けて、父親の広橋権中納言には「近衛様のお呼びで有職故実についてご相談がある」とだけ伝えて来たという。
座敷に入ってきた実光は、糸子を見て少し目を細めた。
先日と同じ、観察の目だ。
「また近衛様にお呼びいただけるとは思いませんでした」
「急なお呼び立てを失礼いたしました」
「いいえ。……先日、お声掛けがあれば来ると申し上げましたので」
「実光様、一つお聞きしてよろしゅうございますか」
「はい」
「御門様の御前での礼法について、詳しく教えていただけますか」
実光が少し間を置いた。
驚いた、というより、確認している間だ。
「御門様の御前に出られるのですか」
「近々、お召しがあるとお聞きしました」
「それは……大変なことでございますね」
「はい。だから相談したいのです」
実光が静かに頷いた。
「分かりました。順を追ってお話しします」
それから実光は、御門様の御前での礼法を丁寧に説明してくれた。
入室の仕方、座る位置、頭を下げるタイミング、言葉の使い方、目線の置き方……細かい点まで、実光の説明は正確で分かりやすかった。
糸子は全て帳面に書き留めた。
「実光様、一つ確認させてください」
「はい」
「御門様がお言葉をかけてくださった場合、どのように返すのが適切でしょうか」
「御門様のお言葉には、まず深く頭を下げてから返します。言葉は短く、丁寧に。長々と話すことは控えるべきですが、短すぎても失礼になる場合があります」
「その加減が難しいですね」
「はい。しかし基本は……御門様がお聞きになりたいことに、誠実にお答えすること。それだけです」
「誠実に、でございますか」
「はい。御門様は長年多くの公家と話されています。飾った言葉と誠実な言葉の違いは、すぐにお分かりになります」
糸子は頷いた。
誠実に答える。
それは糸子には難しくない。商売の話も、外国の話も、この国の将来についての話も、糸子が本当に考えていることだ。
ただし全部話すわけではない。
御門様の御前で何を話し、何を話さないか。それを事前に決めておく必要がある。
「実光様、もう一つよろしいですか」
「何でしょう」
「御門様は、近頃どのようなことをお気にされているかご存じですか」
実光が少し考えた。
「……わたしが直接伺えるような立場ではないので、確かなことは申し上げられません。ただ、御所の中での話として……異国船のことは、御門様もお聞き及びのようでございます」
「やはりそうでございますか」
「それ以上のことは分かりません。ただ……御門様が近衛家の姫君にお会いになりたいとおっしゃったことは、何かご関心があってのことだと思います」
「その関心が何かについて、実光様はどうお考えですか」
実光がじっと糸子を見た。
「……御所の台所方のお手伝いだけであれば、わざわざ姫君にお会いになる必要はないはずです。台所方への感謝であれば、さとに伝えれば済む話です」
「では」
「姫君が商いを通じて動いておられることへの……関心ではないかと思います。商いという言葉が正確かどうかは分かりませんが、近衛家が独自に動いていることへの」
糸子は少しの間考えた。
「その関心が、良い意味での関心か、悪い意味での関心か、実光様はどう思われますか」
「……良い意味だと思います」実光が静かに言った。「悪い意味であれば、お会いになるのではなく、近衛家の当主様にお伝えが来るはずです。姫君にお会いになりたいというのは……姫君が動いていることを、御門様がご存じで、直接お聞きになりたいということではないかと」
「深く感謝申し上げます。大変参考になりました」
実光が帰った後、糸子は一人で帳面を開いた。
御前で話すこと、話さないことを整理する。
話すこと。近衛家の台所方へのお手伝いの経緯。商売が御所への臣下の務めから始まったこと。今後も御所のお役に立てることがあれば続けたいという意思。
話さないこと。天朝物産会所の構想。将来の外国との取引計画。田辺屋との関係。江戸の販路計画。
御門様がもし外国について聞かれたら。
ここが最も難しい部分だ。
御門様は攘夷の意識が強い方だと、前世の知識にある。外国が来ることへの強い警戒感を持っておられる。
糸子が考えていることは、外国と対等に渡り合うための準備だ。それは攘夷とは異なる。しかし開国とも単純には言えない。
どう伝えるか。
正面から「外国と取引すべきです」とは言えない。しかし「攘夷が正しい」とも言えない。前世の知識が、その道の行き着く先を知っているから。
言葉を慎重に選ぶ。
御門様のお考えに反論するのではなく、別の角度から話を進める。
それが今回の御前での基本方針だ。
御所への参内の日は、冬の澄んだ朝だった。
近衛家から御所へ向かう前、糸子は鏡の前に座った。
着物は父上が選んでくれた、近衛家の正式な装束だ。糸子の年齢に合わせた品のある色合いで、しかし御所に相応しい格式がある。
鏡の中に、七歳の公家の姫君が座っている。
前世の橘咲ならば、今日のような場面でどんな顔をしていただろうか。
百貨店の大口顧客との会食の前、あるいは社内で重要なプレゼンをする前……そういう場面で、咲は「緊張している場合ではない」と自分に言い聞かせてきた。
今も同じだ。
緊張している場合ではない。
「姫様、お時間でございます」
お梅の声が廊下から聞こえた。
糸子は立ち上がった。
御所の中の、内向きの部屋に通された。
さとが案内してくれた。さとの顔は普段より少し緊張しているように見えた。それがかえって、この場の重さを伝えてくる。
「さと、ありがとうございます」
小声で言うと、さとが小さく頷いた。
「お気をつけて」
部屋の入口で、糸子は実光に教わった礼法を頭の中で一度確認した。
入室の仕方。座る位置。頭を下げるタイミング。
全部入っている。
糸子は部屋に入った。
御門様は、糸子が想像していたよりも若く見えた。
二十代の後半だろうか。穏やかな顔立ちで、しかし目に強い光がある。長年御所の中で育ってきた人間の、静かな威厳がある。
糸子は実光に教わった通りに礼をした。
しばらく沈黙があった。
「面を上げよ」
御門様のお声は、予想よりも穏やかだった。
糸子は顔を上げた。
御門様が糸子を見ておられる。
その目が何を見ているか、糸子は素早く読もうとした。
値踏み、ではない。好奇心、でもない。
確認だ。
何かを確認しようとしている目だ。
「近衛の糸子か」
「はい」
「台所方のことは聞いた。そなたが動いたと」
「父の名の下に、少しばかりお手伝いをさせていただきました」
「父の名の下に、と言うたが……そなたが考えたことであろう」
一瞬の間があった。
糸子は正直に答えることにした。
「はい。父に相談しながら、わたくしが考えました」
「正直な子じゃ」
御門様が少し表情を動かされた。笑顔とは言えないが、硬さが和らいだ。
「何ゆえ台所方のことを考えた」
「御所がお困りであると伺いましたので。近衛家にできることがあれば、と思いました」
「近衛家にできることが、商いであったか」
「商いとは少し異なります。近衛家の取引を通じて、良い品を御所にお届けすることが目的でございました。取引そのものは、あくまで手段でございます」
「手段、か」
御門様がもう一度糸子を見られた。
「そなたはまだ幼い。しかし話し方が幼くない」
「恐れ入ります」
「怖くないか。朕の前で」
「怖うございます」
素直に答えた。
御門様が、今度ははっきりと表情を動かされた。
「正直じゃ」
「嘘をついても仕方がございませんので」
「ふむ」
少しの間があった。
糸子は待った。急がない。御門様のペースに合わせる。
「台所方が改まったことは、朕も知っておる。食材の質が良くなった。さとがよく動いておるとは聞いていたが……近衛の動きがあってのことだとは知らなかった」
「微々たるお手伝いでございます」
「微々たる、とは思わぬ。さとが長年困っておったことが、ようやく動いた。それは小さいことではない」
糸子は頭を下げた。
「過分なお言葉でございます」
「糸子」
「はい」
「そなたは今後、どのようなことをするつもりじゃ」
来た。
糸子は一瞬、頭の中で言葉を選んだ。
何を話し、何を話さないか。
御門様の御前で、計算した言葉を使うことは失礼だ。しかし何も考えずに話すことは無責任だ。
誠実に、しかし慎重に。
「御所が本来の力を発揮できるよう、お役に立てることを続けたいと思っております」
「御所の力、と申すか」
「はい。御門様をお支えする公家や朝廷が、十分な力を持っていれば、この国のために動けることが増えます。その力を作ることに、近衛家として貢献したいと考えております」
「その力とは、銭のことか」
「銭も含まれます。しかし銭だけではございません。情報も、人のつながりも、力でございます」
御門様が少し間を置かれた。
「情報、か」
「はい」
「何ゆえ情報を力と申す」
糸子は答えた。
「知らなければ、判断できません。判断できなければ、動けません。正しい情報を持つことは、正しい判断の基盤でございます。特にこれからの時代は……」
糸子は少し間を置いた。
「続けよ」
「これからの時代は、外から多くのことがこの国に入ってまいります。その時に、正しい情報を持って正しい判断ができることが、この国にとって大切なことだと思います」
「外からのこと、とは」
「南蛮の国々のことでございます」
沈黙が落ちた。
糸子は御門様の表情を見た。
硬くなってはいない。しかし真剣さが増している。
「南蛮の国々について、そなたは何を知っておる」
「書物で読んだことがございます。それから、取引を通じて聞いた話もございます」
「何を読んだ」
「南蛮の国々の力のことでございます。特に、英吉利国が世界の各地でどのように動いているかについて」
「英吉利国」
「はい。先年、唐土の清朝と争いがございました。清朝は大国でございましたが、英吉利国に敗れました」
「それは聞き及んでいる。しかしなぜそなたが……」
「近衛家の商いを通じて、大坂や江戸の商人から情報が入ってまいります。商人は世の動きに敏感でございますので、南蛮の国々についての話も耳に入ります」
これは本当のことだ。善次郎から聞いた話、鴻池の伊右衛門から聞いた話……それらは全て、商売を通じて得た情報だ。
「清朝が敗れた。それがこの国にどう関わると申す」
ここが核心だ。
糸子は言葉を選んだ。
「清朝は大国でございました。しかし英吉利国の力に備えができておりませんでした。その結果、思わぬ形で敗れました。この国も……備えを整えておくことが大切かと存じます」
「備えとは、何の備えじゃ」
「南蛮の国々を正しく知ることでございます。知らなければ備えができません。知った上で、この国としてどう対処するかを考えることが、備えの第一歩かと存じます」
御門様がしばらく沈黙された。
長い沈黙だった。
糸子は動かずに待った。
「南蛮の国々を正しく知ること……それを、そなたはできるか」
「完全にはできません。しかし商いを通じた情報収集と、書物からの知識を合わせることで、何がしかのことはお伝えできると思います」
「近衛家の商いが、そのための手段でもあると申すか」
「はい。商いはお金を生みますが、同時に情報も生みます。その情報を御所のお役に立てることができれば、と考えております」
御門様が、また少し表情を動かされた。
「商いで情報を集め、御所に伝える……それがそなたの考えていることか」
「はい。大それたことでございますが」
「大それたとは思わぬ」
御門様の声が少し変わった。
硬さではなく、何か別のものが入ってきた。
「朕も……この国のことが心配である。幕府が全て把握しているとは思えぬ。御所に正しい情報が入ってこないことが、長年の懸念じゃ」
糸子は頭を下げた。
「御門様のお心、拝察いたします」
「そなたが動くことで、御所に正しい情報が届くようになるなら……朕は、それを止める理由がない」
「ありがたき御言葉でございます」
「ただし」
御門様の声が少し引き締まった。
「この国を乱すような動きは、朕は望まぬ。南蛮の国々と取引をするにしても、この国の形が変わるようなことは……朕の本意ではない」
糸子は頭を下げたまま答えた。
「はい。この国の形を守ることが、近衛家の本分と心得ております。商いはその本分を果たすための力を作るためでございます」
「よろしい」
短い言葉だった。しかしその重さは、長い言葉より重かった。
「糸子、そなたはまだ幼い。しかし……面白い子じゃ」
「恐れ入ります」
「また来るがよい。話を聞かせよ」
糸子は深く頭を下げた。
「身に余る光栄、ありがたき幸せに存じます」
御所から近衛家への帰り道、お梅が小声で言った。
「姫様、お顔の色が少し悪うございます」
「そうですか」
「緊張なさいましたか」
「しました」
糸子は正直に答えた。
御門様の御前では、どれほど準備をしていても、一言一言に全力を使った。あの緊張は、これまでのどんな場面とも違う種類のものだった。
「うまくいきましたか」
「……分かりません。しかし最悪の結果ではなかったと思います」
「また来るがよいと、仰ってくださったとお梅には聞こえました」
「聞こえていましたか」
「少しだけ」
糸子は少し笑った。
「また来るがよい、というのは……御門様のご関心が完全には消えていないということだと思います。それは悪いことではない」
「次に行く時は、もっとしっかりとした話をお持ちするつもりですか」
「はい。南蛮の国々についての情報を、もう少し整理してお伝えできるよう準備します。善次郎の江戸での情報と、村岡の御所内の情報と、わたくしが持っている知識を合わせれば、それなりのものになると思います」
近衛家に戻ると、父上が待っていた。
「どうだった」
「思ったより、話が進みました」
「話が進んだ、とは」
「御門様が、近衛家の動きにご関心をお持ちであることが分かりました。また来るようにとのお言葉もいただきました」
父上が少しの間黙っていた。
それから、静かに言った。
「……糸子、お前は本当に、大したものだな」
「父上のお名前があってできたことです」
「いや」父上が首を振った。「父の名前でできることには限りがある。あの御前で、一人で話を続けたのはお前だ。それはお前の力だ」
糸子は少し考えてから答えた。
「父上、一つお願いがあります」
「何だ」
「今日御門様にお話ししたことを、外には漏らさないようにしていただけますか。田辺屋の件もありますし、御門様との関係が外に知れれば、余計な動きが出てくる可能性があります」
「分かった。お梅にも伝えておこう」
「ありがとうございます」
夜、糸子は帳面を開いた。
今日の御前での会話を、できる限り正確に書き留めた。
御門様がおっしゃったこと。糸子が答えたこと。どの言葉の時に表情が動いたか。どの話題に最も関心を示されたか。
書き終えて、糸子は行灯の灯を見た。
御門様は、南蛮の国々についての情報を求めておられる。
これは想定の範囲内だった。しかし「この国の形が変わるようなことは望まぬ」というお言葉は、今後の動き方に影響してくる。
糸子が考えている日本独自の近代化は、この国の形を守ることと矛盾しない。しかし説明の仕方によっては、矛盾するように聞こえる場面が出てくる。
御門様のお言葉を頭に置きながら、今後の動きを考え直す必要がある。
急がない。しかし考え続ける。
糸子は帳面を閉じた。
御所御用達の称号は、今日の謁見で大きく近づいた。
しかしそれ以上に大きなことが、今日起きた。
御門様とのつながりが生まれた。
それは、糸子が思い描いていた構想の中で、最も重要なピースの一つだった。
まだ始まりだ。しかし確かに、始まった。
雨漏りする屋根を直すことから始まった小さな商売が、今日、御門様の御前に届いた。
次は何をするか。
糸子は目を閉じた。
答えは、もう出ている。
第八話 了




