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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します  作者: 1009


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7/12

第七話「田辺屋の影と、最初の牽制」

善次郎が近衛家に飛び込んできたのは、冬の入り口の夕暮れ時だった。

 いつもは父親の善兵衛の京都出店への立ち寄りに合わせて来るのに、今日は一人だった。しかも息が少し乱れている。急いで来たのだろう。

 糸子は帳面から顔を上げた。

「どうしましたか」

「姫君様、少しよろしゅうございますか。急いでお伝えしたいことがありまして」

「座って頂戴。息を整えてから話してください」

 善次郎が座った。

 お梅が茶を持ってきた。善次郎がそれを一口すすって、ゆっくりと息を整えた。

 その表情が、いつもと違う。

 困惑と、少しの不安が混ざっている。

 糸子は善次郎が話し始めるのを、急かさずに待った。

「江戸から戻る前に、少し大きな話が出てきてしまいました」

「どのような話ですか」

「幕府の御用商人の方が、松屋に来られました。田辺屋という方でございます。わたしに、近衛家のことをいろいろと聞かれました」

 糸子は帳面を静かに置いた。

 来たか、と思った。

 広橋権中納言が忠告してくれた懸念が、想定より早く動き始めていた。

「何を聞かれましたか」

「近衛家が何を扱っているか、どの職人と取引しているか、大坂の鴻池さんとはどのような関係か……それから、誰が実際に取引を決めているか、という話も」

「誰が決めているか、という点については何と答えましたか」

 善次郎が少し躊躇した。

「近衛様の御当主様が全てお決めになっていると、そのように申しました。姫君様のお名前は出していません」

「それは正解です」

「……よかった。でも相手の方は、なんとなく信じていないようなご様子でして」

「どのような様子でしたか」

「笑っておられたのでございますが……目が笑っていなくて。探りを入れているという感じがしました。父もそれを感じ取ったらしく、途中から答えを曖昧になさっておりました」

 糸子は少し考えた。

 田辺屋。

 広橋権中納言が教えてくれた名前とは違う。しかし関係している可能性はある。

「田辺屋という商家について、他に何か聞きましたか」

「父が後で少し話してくれました。田辺屋は江戸でも大きな商家で、幕府の御用を多く務めているとのことです。それから……御所への出入りもあるとか」

 糸子の横で、村岡が静かに言った。

 今日はたまたま帳面確認の日で、村岡も近衛家にいた。

「田辺屋でございますか」

「ご存じですか」

「名前は聞いたことがございます。御所の台所方に食材を納めていた時期があったと。最近はあまり聞きませんが」

「最近聞かないのはなぜでしょうか」

 村岡が少し考えた。

「……定かではございませんが、台所方との間に何か行き違いがあったとか。詳しくは分かりません」

 糸子は二人を見た。

 田辺屋は御所への出入りがあった。しかし今はない。その空白を、近衛家が埋めつつある。

 それが面白くないのかもしれない。

 あるいはもっと単純に、近衛家が作り始めている流通経路が、田辺屋の縄張りに触れているのかもしれない。

 どちらにしても、向こうが動き始めたのは確かだ。

「善次郎、田辺屋の方はその後どうしましたか。松屋から何かを求めてきましたか」

「それが……一つだけ、お願いされました」

「聞かせて頂戴」

「近衛家が今後、新しい商いを始めるようであれば、事前に田辺屋に一言声をかけてほしいと。仲良くしたいとおっしゃっていました」

 仲良くしたい。

 その言葉の裏に何があるか、糸子には分かった。

 事前に声をかけろということは、近衛家の動きを事前に把握したいということだ。そして把握した上で、田辺屋にとって都合の悪い動きには釘を刺す。都合の良い動きには乗っかる。そういう意図だ。

「松屋はどう答えましたか」

「父が『善次郎は近衛家のお手伝いをしているだけで、そのような取り決めをする立場にない』と答えてくださいました」

「松屋さんはうまく断ってくださいましたね」

「はい。でも田辺屋の方は『ならば姫君様に直接お伺いしたい』と仰っていて……」

「直接来ますか」

「どうも、そのような話でございました」


 善次郎が帰った後、糸子は村岡と二人で話した。

「田辺屋が直接来た場合、どうなさるおつもりでございますか」

「会います」

「会われますか」

「会わなければ何も分かりません。相手がどのような人間か、何を本当に求めているか、会って話してみなければ判断できません」

「しかし向こうは幕府の御用商人でございます。下手に動けば幕府まで話が広がる可能性が」

「それは向こうも同じです。近衛家を正面から敵に回せば、御所との関係で幕府にとっても都合が悪くなる場面が出てくる。お互いにそれは分かっているはずです」

 村岡が少し考えた。

「つまり、正面衝突は向こうも望んでいないということでございますか」

「おそらく。だから『仲良くしたい』という言い方をしてきました。正面衝突ではなく、縄張りを確認したいだけかもしれません」

「縄張りの確認であれば、会うことは有益でございますね」

「ただし注意が必要です」

「どのような点でございますか」

「会って話すことで、こちらの情報が向こうに渡ります。何を話し、何を話さないかを事前に決めておく必要があります」

 村岡が頷いた。

「何を話さないか、でございますか」

「御所との関係については、さとが知っている範囲の話しかしない。将来の計画については一切話さない。鴻池さんとの具体的な取引内容も話さない。相手が聞いてきても、曖昧に返す」

「話してもよいことは」

「近衛家が京都の職人と取引していること。それが御所への臣下の務めの一環であること。この二点だけです」

 村岡がじっと糸子を見た。

「姫君様は……田辺屋の訪問を、すでに想定なさっておられたのでございますか」

「広橋様が教えてくださった時から、いつか来ると思っていました。ただ、もう少し後だと思っていたので、少し早かったとは思います」

「準備はよろしゅうございますか」

「今から整えます」


 田辺屋から近衛家への訪問の申し入れが来たのは、その三日後だった。

 文書ではなく、使いが口頭で伝えてきた。

 田辺屋儀兵衛が近衛家にご挨拶に伺いたいという内容だった。

 糸子は父上に事情を説明した。

「田辺屋という商家が来ます。幕府の御用商人です。おそらく近衛家の商売について探りを入れに来るかと思います」

「どう対応するつもりだ」

「父上に同席していただいて、わたくしが話します。話す内容は、御所への臣下の務めとして行っているということだけです。それ以外のことは話しません」

「それ以外のことを聞かれたら」

「曖昧にお答えします」

 父上が少し考えた。

「幕府の御用商人を曖昧にあしらって、後で問題にならないか」

「問題が起きた時に考えます。今の段階では、こちらが何かを譲る理由がありません」

「……分かった。任せよう」


 田辺屋儀兵衛が近衛家を訪ねてきたのは、それから二日後だった。

 六十近い、小柄な男だった。

 一見すると穏やかな老商人に見える。しかし糸子は最初の一瞥で、この人間が穏やかではないと判断した。

 目が違う。

 長年商いの場で勝ち続けてきた人間の目だ。相手を測ることに慣れ切っていて、その計算が習慣になっている。笑顔の裏で、常に損得を弾いている目だ。

 鴻池の伊右衛門とは種類が違う。

 伊右衛門は叩き上げの商人だったが、まだどこかに商人としての矜持があった。しかし田辺屋儀兵衛の目には、矜持よりも計算が先に来ている。

 糸子は内心で警戒レベルを一段上げた。

 儀兵衛が父上に丁寧な挨拶をした後、糸子を見た。

「近衛様の姫君様でいらっしゃいますか。お話は伺っております」

「はじめまして」

 糸子は穏やかに返した。

 今は通常モードだ。探りを入れてくる相手には、こちらも探りを入れる。

「田辺屋でございます。江戸と京都で商いをさせていただいております。近頃、近衛様のご商売のお話をよく耳にするようになりまして、ぜひ一度ご挨拶をと思い参りました」

「それはわざわざ。どのようなお話を耳になさいましたか」

「大坂の鴻池さんとお付き合いを始められたとか。京都の職人さんたちとも直にお取引なさっているとか。御所のお台所のお手伝いもされているとか」

 かなり詳しく把握している。

 糸子は表情を変えずに頷いた。

「御所のお台所については、臣下の務めとして少しお手伝いをしております。商いというほどのことではございません」

「はあ、なるほど」

 儀兵衛が少し間を置いた。

「実は、田辺屋もかつて御所のお台所にお品をお納めしていた時期がございまして」

「存じております」

 儀兵衛の目が微かに動いた。

「ご存じで」

「御所に伺った際に、そのような話を耳にしました」

 これは事実だ。村岡から聞いた話だ。

「その後、いろいろとございまして……現在はお取引がなくなっておりますが」

「さようでございますか」

 糸子はそれ以上聞かなかった。

 田辺屋と御所の台所方の間に何があったか、詳細は分からない。しかしここで詳しく聞けば、相手に「その情報を持っていない」と分からせてしまう。知っているとも知らないとも言わず、ただ受け流す。

「近衛様のご商売は、今後どのような方向に広げていかれるおつもりでございますか」

 探りの核心が来た。

 糸子は少し考えるような間を作ってから答えた。

「御所への臣下の務めを果たすことが主な目的でございますので、その範囲で考えております」

「江戸への販路もお考えとお聞きしましたが」

「松屋さんとお話ししたことはございます。ただまだ具体的には何も決まっておりません」

「松屋さんとは、どのようなお話を」

「それはまだ内々の話でございますので」

 糸子は穏やかに、しかしはっきりと遮った。

 儀兵衛がまた少し間を置いた。

「なるほど。……実は、田辺屋は江戸と京都の両方に拠点がございまして。もし近衛様が江戸への販路をお考えでございましたら、お手伝いできることがあるかもしれません」

 そう来たか。

 糸子は内心で少し考えた。

 田辺屋が「手伝う」と言っている。これは提案ではなく、牽制だ。松屋を通じて動く前に、田辺屋を通じるべきだという意思表示だ。

「ありがたいお話でございますが、今の段階では近衛家の商売はまだ小さなものでございます。田辺屋のようなお力のある商家にお手を煩わせるほどのことはないかと存じます」

「いえいえ、小さい大きいは関係ございません。ご縁でございますから」

「そのお心遣いは有り難くちょうだいいたします。機会があれば、またご相談させていただくかもしれません」

 機会があれば、またご相談。

 YESでもNOでもない答えだ。しかし「今すぐはない」ということははっきりと伝わる。

 儀兵衛がまた笑顔を作った。その目が笑っていないことは、変わらない。

「近衛様の姫君様は、なかなか……賢いお方でいらっしゃいますな」

「とんでもございません」

「松屋の倅が近衛家のお手伝いをしているとお聞きしました。商家の倅と公家の姫君が一緒に商いを学ぶとは、面白いことをなさっておられる」

 善次郎の話が出た。

 糸子は少し警戒を上げた。

「善次郎は帳面の整理を少し手伝ってもらっているだけです。商いを教えているわけではありません」

「しかし松屋の倅が近衛家に出入りすれば、松屋も近衛家のことをよく知ることになります。それは……近衛様にとっても、松屋にとっても、良いことでございましょうね」

 これは脅しではない。しかし釘だ。

「松屋も近衛家のことをよく知ることになる」という言葉は、「田辺屋も松屋を通じて近衛家の情報を得られる」という意味も持っている。

 糸子は表情を変えなかった。

「善次郎はよく気が利く子でございます。それだけのことです」

「はあ……」

 儀兵衛がお茶を一口すすって、また穏やかに言った。

「近衛様のご商売が大きくなれば、田辺屋もお力添えできることが増えるかと思います。今後ともよろしくお願いいたします」

「こちらこそ」


 儀兵衛が帰った後、父上がため息をついた。

「……なかなかの人物だったな」

「そうでございます」

「糸子、あの男は何を考えていると思う」

 糸子は少し考えた。

「近衛家の商売の規模と方向を把握したかったのだと思います。それから、松屋との関係を通じて情報を得られるという牽制もありました」

「牽制……。そのような意図があったのか」

「善次郎の話を出したのは、そのためだと思います」

「では善次郎を近衛家に来させるのは、やめたほうがいいか」

「いいえ」

 糸子は即座に答えた。

「善次郎をここから外すことは、田辺屋の牽制に屈することになります。それは見せてはいけない弱さです。善次郎には引き続き来てもらいます。ただし田辺屋のことを伝えて、注意してもらいます」

「具体的にはどのような注意を」

「田辺屋が松屋に再び来た場合、近衛家のことは一切話さないように。松屋の商売についても、必要最小限の答えだけにするように」

「善次郎がそれを守れるか」

「守れます。善次郎は正直な子ですが、守るべきことを守ることはできます」


 その夜、糸子はお梅に頼んで、さとへの文を書いた。

 内容は短い。


 田辺屋という商家が近衛家を訪ねてきました。かつて御所の台所方とのお取引があったと聞きましたが、その経緯についてご存じのことがあれば、お教えいただけますか。


 文を書き終えてから、糸子は帳面を開いた。

 今日分かったこと。田辺屋儀兵衛は計算の人間だ。感情より損得が先に来る。正面衝突を求めているわけではないが、近衛家の動きを把握し、コントロールしたいと思っている。

 田辺屋が使える手。松屋との関係を利用した情報収集。幕府との繋がりを背景にした圧力。御所への出入りがかつてあったという実績を使った正当性の主張。

 こちらが使える手。御所との現在の関係。近衛家の格式。鴻池との取引実績。そして田辺屋が御所の台所方との関係を失った経緯、という情報。

 最後の点は、まだ詳細が分からない。さとからの返事を待つ。

 筆を止めて、糸子は少し考えた。

 田辺屋との今日のやり取りは、どちらも探りを入れただけで終わった。これは想定通りだ。

 しかし儀兵衛の目の冷たさは、想定より少し強かった。

 この人間は、必要と判断すれば、もっと強い手を使ってくる。

 そうなった時にどうするか。

 今は考えておくだけでいい。実際に起きてから動いても遅くはない。しかし想定だけはしておく。


 三日後、さとからの返事が来た。

 お梅が持ってきたその文を、糸子は丁寧に読んだ。

 内容は想定より詳しかった。


 田辺屋はかつて御所の台所方に食材を納めておりました。しかし数年前、納めた食材の中に品質の悪いものが混じっていたことが判明致しました。台所方がそれを指摘すると、田辺屋は最初認めず、後になってようやく謝罪をしましたが、その対応が遅かったために台所方との信頼関係が崩れました。その後、田辺屋との取引は自然に減り、今はほとんどない状態でございます。


 糸子は文を読み終えて、少しの間考えた。

 品質の問題と、その対応の遅さ。

 これは商人として致命的な話ではないが、御所という場所では致命的だった。

 そしてその空白を、近衛家が今まさに埋めつつある。

 田辺屋が近衛家の動きを面白くないと思う理由が、より明確になった。

 商売上の縄張りの問題だけではなく、御所という場所への未練もある。

 糸子は帳面に書き込んだ。

 田辺屋が御所の台所方との関係を失った原因。品質の問題と対応の遅さ。この情報は今すぐ使う必要はないが、田辺屋が強い手を使ってきた時の切り札として持っておく。

 切り札はすぐに使わない。

 使う時は、使わなければならない時だ。


 翌日、善次郎が来た。

 田辺屋の訪問について伝えると、善次郎の顔が青くなった。

「姫君様のところにまで来たのでございますか」

「来ました。ただし今日のところはお互いに探り合いで終わりました」

「わたしがしっかりお断りできていれば……」

「善次郎は十分うまく対応しました。松屋さんも助けてくださいました」

「でも……」

「善次郎、自分を責めなくていい。田辺屋が動いたことはいずれ起きることでした。今起きてよかったとも言えます」

「よかった、でございますか」

「知らないまま規模が大きくなってから出てくるより、今の段階で出てきたほうが対応しやすいのです」

 善次郎がお茶を一口すすった。

「田辺屋について、何か調べてきてほしいことはございますか」

「一つだけ」

「なんでございましょう」

「田辺屋が江戸でどのような商いをしているか、大まかに把握してきて頂戴。何を主に扱っているか、どのような客と付き合いがあるか。詳しくなくていい。大まかで構いません」

「分かりました。父にも少し聞いてみます」

「松屋さんには、田辺屋の話をする時には注意するよう伝えてくださいな。田辺屋に聞かれている、という印象を与えないように」

「心得ました」

 善次郎が立ち上がりかけた時、村岡が静かに言った。

「善次郎殿、一つよろしゅうございますか」

「はい、村岡様」

「田辺屋の方が松屋に来た時、何か……商売の話以外のことを仰っていましたか。世間話のような形で」

 善次郎が少し考えた。

「そういえば……南蛮の国のことを少し話されていました。最近、異国船が近海に増えているとか。それについて幕府が対応を考えているとか」

 糸子と村岡が同時に善次郎を見た。

「どのような文脈でその話が出ましたか」

「商売に影響が出るかもしれないという話でした。異国船が来れば、外国との取引が増える可能性がある。そうなれば今の商いの仕組みが変わるかもしれない、という話で」

「田辺屋はその変化を、どちらの方向で見ていましたか。良い変化か、悪い変化か」

「……どちらとも言っていないように思いました。ただ、変化がある、ということを繰り返し仰っていました」

 糸子は少し考えた。

 田辺屋が外国との取引の変化について話した。それは商売上の話として自然に見えるが、文脈が少し気になる。

 幕府の御用商人が、外国との取引の変化について話す。それは幕府がその方向を向いていることを示しているかもしれない。

 あるいは、それを話題に出すことで、近衛家の反応を見ようとしていたかもしれない。

「善次郎、その話が出た時、松屋さんはどう答えましたか」

「父は……変化があるとすれば備えが必要だと、当たり障りなく答えておりました」

「それでいいです。松屋さんの答えは正解でした」


 善次郎が帰った後、村岡が糸子に言った。

「姫君様、田辺屋が外国の話を持ち出したことは、気になりませんでしたか」

「気になっています」

「どのようにお考えでございますか」

 糸子は少し間を置いた。

「田辺屋は幕府の御用商人です。幕府が外国との取引について何か動きを考えているなら、田辺屋はそれを知っている可能性があります。そしてその変化の中で、近衛家がどう動くかを見ている」

「近衛家が外国と取引することを、田辺屋は望ましく思っていない、ということでございますか」

「分かりません。まだ情報が足りない。ただ……田辺屋が外国の話を出したのは、偶然ではないと思っています」

 村岡が静かに頷いた。

「御所の中でも、異国船の話は少しずつ出てきております。わたくしが耳にした範囲では、御門様もお気にされているとのことで」

「御門様が」

「はっきりとしたことは分かりません。しかし御所の空気が、少しずつ変わってきている気がいたします」

 糸子は少し考えた。

 御所の空気が変わっている。田辺屋が外国の話を持ち出した。善次郎が江戸で大名家の奥向きが情報を求めていると言っていた。

 この三つが同じ方向を向いている。

 この国が、何かを感じ始めている。

 黒船が来るまで、まだ数年ある。しかし人々は本能的に、何かが来ることを感じ始めている。

「村岡、御所の空気の変化について、もう少し詳しく教えて頂戴な。どのような話が出ていますか」

「異国船がたびたび近海に現れているという話は、御所の中でも広まっています。それについて幕府がどのように対処するのかを、御門様がお聞きになっているとか……その程度の話でございますが」

「御門様が幕府の対処を気にされている」

「はい」

 糸子は帳面に書き込んだ。

 御所の空気の変化。御門様が異国船への幕府の対応を気にされている。田辺屋の外国の話。これらは無関係ではない可能性がある。今後の動向を注視する。

 筆を置いて、糸子は行灯の灯を見た。

 今日一日で、いくつかのことが重なった。

 田辺屋との最初の牽制を終えた。深入りせず、しかし弱さも見せなかった。御所の空気の変化を村岡から聞いた。外国への意識が、この国全体でゆっくりと高まり始めている。

 全てが少しずつ、同じ方向に動いている。

 糸子はそれを感じながら、帳面を閉じた。

 黒船まで、あと何年か。

 時間はある。しかし無限ではない。

 一つずつ、確実に積み上げていく。

 それだけだ。


第七話 了

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