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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します  作者: 1009


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第六十話「種を蒔く者たち」

一 

 万延元年、夏の始まり。

 江戸の朝は早い。

 一橋藩上屋敷の奥御殿に、夜明けの光が差し込んでくる頃には、すでに庭師が庭を歩いていた。石畳を掃き、松の根元の落ち葉を集め、池の縁の苔に水を打つ——静かな作業が、音もなく続いていく。池の水が朝の光を受けてきらきらと揺れ、その光が縁側の天井に細かく反射していた。どこかで鳥が鳴いた。高くて細い声だった。

 近衛糸子は、文机の前に正座していた。

 この一週間で、部屋の惨状はほぼ片付いていた。丸めて捨てた紙は葵が静かに片付け、帳面は二冊とも所定の場所に収まり、散乱していた書きかけの紙も整理されて束になっている。部屋は元の姿に戻っていた——しかし机の上だけは、今も現役の戦場だった。白紙が三枚、毛筆と硯を挟んで並んでいる。

 糸子は筆を持っていたが、まだ書いていなかった。

 考えていた。

 一か月かけて練り上げた二つの計画は、頭の中で既に整理されている。問題は「どこから手をつけるか」だ。計画というものは、最初の一手を間違えると全体が崩れる。糸子はバイヤーとして長年培った習慣——まず手を動かす前に全体の段取りを頭の中で三度確認する——を、今ここでも行っていた。

 (後継者問題は——急いで動いてはいけない)

 これが最初の判断だった。

 将軍・家茂が今の将軍だ。健康に問題を抱えているという情報は入っている。しかしそれを理由に次の将軍を決める動きを表立って起こすのは、あまりにも性急に見えすぎる。「近衛家が何か企んでいる」という印象を与えてしまう。

 (まず——種を蒔く段階だ)

 糸子が決めた言葉だった。

 今は収穫の時ではない。耕す時でもない。種を蒔く時だ。誰かに「一橋慶喜を支持せよ」と言って回るのではなく、「一橋慶喜という人物はこういう人間だ」という認識が自然と広がるよう、複数の場所に静かに種を蒔く。その種が育つのを待つ。

 糸子はようやく筆を動かした。

 三枚の白紙のうち、一枚目に書き始めた。


二 

 書状を三通書いた。

 一通目は御門様——孝明天皇——への公式の報告書だ。ハリスとの交渉の結果、獲得した条項の詳細、万次郎のアメリカ派遣、そして「今後の糸子の動きの大枠」を丁寧に記した。どこまで書くか、という問題については一週間考えて決断していた。計画①の輪郭だけを伝える。計画②は書かない。御門様を信頼していないわけではない。ただ——今の段階では、情報の重みに判断が引きずられる可能性がある。

 二通目は父・近衛忠房への控えの書状だ。一通目の報告書の写しと、その補足説明。父に「御門様へ渡す際にどういう言葉を添えてほしいか」を書いた。特に後継者問題——一橋慶喜への言及——については、父の口から直接御門様に伝えてほしいという依頼を丁寧に書き添えた。父の言葉には、糸子の書状では出せない重みがある。左大臣として朝廷に仕える人間の、肉声の言葉には。

 三通目は父への別の書状だ。これが最も重要だった。

 硯で墨を静かに磨る。磨りながら、言葉を整えた。父に何をどこまで頼むか。どの人物に接触してもらうか。そして——どこまで話してもらうか、どこから先は話してはいけないか。

 (父上は誠実な方だ。全部話してしまう可能性がある)

 だから指示を明確にしなければならない。三条殿には「近衛家が動いている」という事実だけ。岩倉殿には「内戦なき近代化」という目標だけ——手段は話してはいけない。

 糸子は三通目を書き終えて、読み直した。

 最後に一行追加した。

 「追記:宇治の良いお茶をお送りください。江戸のお茶はどうも物足りなくて」

 筆を置いた。

 それから少し笑った。

 (父上が読んで、肩の力が抜くといいですね)

 重い頼みごとの後に、こういう一行を入れることを、糸子はバイヤー時代に学んでいた。重要な交渉の後のメールには、最後に短い雑談を一つ入れる。それで相手の緊張が和らいで、「この人間はちゃんと自分のことを考えている」という安心感が生まれる。 


 「失礼します——」

 障子が開いて、水無瀬実光が入ってきた。

 有職故実の面から糸子を補佐する公家だ。年齢は四十代半ば、穏やかな物腰の中に確かな知識と判断力を持つ人物だ。江戸に来てから実光は、糸子が「必要な時に現れる」という形で動いている。あれこれ干渉せず、しかし必要な場面では的確に動く——糸子にとって最もありがたい味方で、補佐役的な人物だった。

 「実光様、ちょうどよかった」

 「何かご用でございますか」

 実光が正座して、一礼した。

 「三通の書状を京に送りたいのです。最も確実で、最も早い経路はどれですか」

 実光が少し考えた。

 「御所への書状であれば、朝廷の飛脚を使えます。幕府の検閲が入りますが——内容が問題なければ七日ほどで届きます」

 「幕府の検閲が入るのは困ります」

 「でしたら——天朝物産会所の商用の荷に紛れ込ませる経路があります。松屋善兵衛が管理している経路です。こちらであれば検閲は入りません。十日ほどかかりますが」

 糸子が頷いた。

 「それでいきまする。松屋殿に連絡を」

 「承知しました」

 実光が立とうとした時、糸子が言った。

 「実光様、もう一つ」

 「はい」

 「篤姫様——への連絡経路はありますか」

 実光の動きが止まった。

 少し間があった。

 「……近衛家の養女として大奥に入られた方ですね」

 「はい。近衛家の縁として——お話ができないでしょうか」

 実光が座り直した。これは立ち話で済む話ではない、という判断だ。

 「難しくはありません。近衛家の縁は切れていませんから、手紙のやりとり自体は通例として認められています。ただし——」

 実光が糸子を見た。

 「何の話をなさるおつもりですか」

 「後継者問題について」

 実光が少し目を細めた。公家として長年朝廷に仕えてきた目だ。「何が起きようとしているか」を読もうとしている目だ。

 「……それは、慎重に進める必要がある話です」

 「分かっています」

 糸子が静かに言った。

 「慎重に進めまする。なれど——篤姫様のお力が必要になりましょう。大奥という場所は、わたくしは直接入れない場所でございます。そこに影響を持てる方は、今の状況では篤姫様しかおられませぬ」

 実光が少し黙った。

 庭の鳥がまた鳴いた。今度は少し近かった。

 「……近衛家の養女として大奥にいらっしゃる篤姫様と、近衛家の姫君が後継者問題について書状でやりとりをする——これは朝廷と幕府の政治に近衛家が深く関与することになりましょう」

 「そうでございます」

 「懸念を理解しておいでですか」

 「理解していまする」

 糸子が実光を真っすぐに見た。

 「だからこそ、実光様に経路を作っていただきたいのでございます。実光様が管理してくださる経路であれば——万が一の時も、対応ができましょう」

 実光が長い沈黙の後、静かに頷いた。

 「……分かりました。経路を探してみましょう」

 「誠にありがたき幸せにございます」

 「ただし一つ条件がありまする」

 「なんでございましょう」

 「最初の書状の内容を、わたしに読ませてください。送る前に」

 糸子が少し考えて、頷いた。

 「承知しました。それは当然のことでございます」

 実光が退室した。

 糸子は再び机に向かった。

 四通目の書状が必要になった。篤姫への書状だ。

 (篤姫様は——どういう方だろう)

 糸子は転生前の知識を引き出した。篤姫——天璋院——は薩摩藩主・島津斉彬の養女として将軍・家定に嫁いだ女性だ。家定が亡くなった後も大奥に残り、幕末の動乱の中で大奥という場所から独自の影響力を持った。史実では「江戸城無血開城」の時に、大奥の女中たちを守ることに尽力した——そういう人物だ。

 (聡明で、誠実で、しかし芯が強い)

 その人物に、どう書けばいいか。

 (正直に、書くしかない)

 糸子は筆を取った。


 その頃、数日して京都では……

 糸子の父、近衛忠房が書状を受け取った。

 夕暮れ時だった。近衛邸の書院に、夕日が斜めに差し込んでいた。格子窓を通した光が畳の上に細い縞模様を作り、その縞の上を糸子の書状の束が置かれた。

 忠房は三十代前半の男だった。公家らしい穏やかな顔立ちをしているが、目の奥には誠実さと、それから少しの心配が常に宿っている。その心配の多くは——娘のことだ。

 書状を開いた。

 一通目——御門様への報告書の控え。

 ゆっくりと読んだ。読みながら、何度か目が止まった。

 改正条項。金銀比率の調整。領事設置権。そして万次郎のアメリカ派遣——これらが全て、十二歳の娘が動いて実現させたものだ。

 (……全部、やったのか)

 忠房が帳面を置いて、少し目を閉じた。

 屋根の話から始まった。あの時、糸子が「まず屋根を直します」と言った時、忠房は半分冗談だと思っていた。小さい姫君が商売の話をする——それは驚きだったが、どこまで本気なのかを測りかねていた。

 しかし糸子は本気だった。本気どころか——父が想像した以上のことを、数年間でやってのけた。

 (わたしは何もしていない)

 忠房はいつもそう思う。糸子が動くための許可を出した。それだけだ。商売の相手との交渉も、英語の習得も、御門様への参内も、江戸行きの決断も——全部、糸子がやった。

 二通目を開いた。控えへの補足と、御門様への取り次ぎの依頼だ。

 「特に一橋殿の件については父上から一言添えていただければより重みが増すと存じます」

 忠房が少し唇を引き結んだ。

 一橋慶喜——将来の将軍候補だ。糸子がその名前を出してきた意味は、分かる。無血での体制移行のためには、「「大政」は天下の政、「奉還」は奉じて返すことを決断できる人間が将軍になること」が必要だ——と糸子が書いてきていた。

 (大政奉還か……)

 忠房はその言葉の重さを嚙みしめた。幕府が自ら政権を天皇に返す——それが本当に起きるとすれば、日本の歴史が根底から変わる。

 しかし糸子はそれが起きると読んでいる。

 (お前がそう言うなら——そうなるのかもしれない)

 忠房は三通目を開いた。

 父へのお願いを書いた書状だ。三条殿への接触、岩倉殿への接触、そしてそれぞれにどこまで話すかの明確な指示——全てが丁寧に書かれていた。

 最後の一行を読んで、忠房が少しだけ笑った。

 「追記:宇治の良いお茶をお送りください。江戸のお茶はどうも物足りなくて」

 「……まったく」

 忠房が独り言を言った。

 「こういう一文を入れてくる子だ」

 笑いながら、目が少し潤んだ。

 (元気でいるのだ、向こうで)

 忠房は書状を丁寧に折り直した。

 翌日から動こう、と決めた。


 翌朝、御所。

 近衛忠房が参内した。

 御所の廊下は長い。磨き抜かれた板張りの廊下が、幾つもの角を曲がりながら奥へと続く。廊下の両側には几帳や衝立が並び、その向こうに庭が見える。春の庭は緑が深く、松の枝が廊下の屋根の向こうに伸びていた。静かだった。外の世界の喧噪とは別の時間が、御所の中には流れている。

 忠房は左大臣として、御所への参内は日常だった。しかし今日は——いつもと違う書状を懐に持っていた。

 御門様の御前に通された。

 御簾の向こうに、気配がある。孝明天皇——御門様——の気配だ。忠房は深く平伏した。

 「忠房、参れ」

 「はっ」

 「今日は糸子からの書状を持参いたしましてございます」

 「糸子から?」

 御門様の声に、微かな変化があった。「糸子」という名前を聞いた時の、それは興味と——少しの安堵のような変化だった。

 「はい。江戸でのお役目を御報告申し上げる書状でございます」

 忠房が両手で書状を差し出した。

 御簾の向こうから、書状が受け取られた。

 沈黙があった。

 御門様が書状を読んでおられる沈黙だった。時間にすれば長くはないはずだが、忠房には長く感じられた。平伏したまま、廊下の外から聞こえる鳥の声だけを聞いていた。

 やがて——。

 「忠房」

 「はっ」

 「朕は未だに異国が嫌いだ」

 「はい」

 「なれど——」

 御門様が少し間を置かれた。御簾の向こうで、何かを整理されているような間だった。

 「糸子は朕との約束を今のできうる範囲で最大限に守うてくれた」

 「朕はうれしく思う」

 忠房が深く頭を下げた。

 「誠に忝く——深く御礼申し上げ奉りまする」

 「御門様のそのお言葉を聞き、我が娘、糸子も——さぞや喜ぶことと思いまする」

 「糸子への書状の返事は——追ってそなたに渡す」

 「はっ、ありがたく存じ上げます」

 「糸子が江戸でも元気そうでなによりであった」

 「ありがたき幸せに存じ上げます」

 少しの間があった。

 廊下の外で、風が松の葉を揺らした。御所の庭の風は優しい。荒々しくない。

 忠房が静かに口を開いた。

 「御門様、一つだけ申し上げてもよろしいでしょうか」

 「申せ」

 「後継者問題について——糸子から言伝を預かっております」

 御門様の気配が、少し変わった。書状を読んでいる時の静かな気配から、政治的な問題を聞く時の——注意深い気配に。

 「……聞こう」

 「糸子が申すには——一橋慶喜殿が、この国の将来にとって最も適切な人物と存じます、とのことでございます」

 「理由は」

 「将来、政権を朝廷に返すことを決断できる人物である、とのことでございます」

 御門様が少し沈黙された。

 忠房は平伏したまま、その沈黙を待った。

 御門様はこういう時に急がれない。言葉をすぐには返さず、しばらく考えてから話される。それが御門様の在り方だと、忠房は長年の参内で知っていた。

 「……それはどういう意味じゃ」

 「今は将軍として政を担っていただきます。しかし将来——時が来た時に、朝廷中心の新しい体制への移行を助けてくれる人物だと」

 「……一橋がそれをするか」

 御門様の声には、軽い懐疑と——しかし興味が混ざっていた。

 「糸子はそう思っております、とのことでございました」

 忠房が少し続けた。

 「わたくしも——糸子が言うならば間違いはないと思うておりまする」

 その言葉を言った後、忠房は少し驚いた。

 自分でも気づいていなかったが——それは本当のことだった。糸子が言うならば間違いはない、と父親として本気で思っている。数年間で糸子がやってきたことの全てが、その確信の根拠だった。

 御門様が長い沈黙の後、おっしゃった。

 「……分かった。考えておこう」

 忠房が深く平伏した。

 「誠にありがたく存じ奉ります」

 「忠房」

 「はっ」

 「糸子は——よく育てた」

 忠房の顔に、何かが走った。

 電気のような、しかしもっと温かいものが。

 「……勿体なきお言葉」

 声が少し震えた。喉が詰まった。左大臣として、長年御所に参内してきた忠房が——御前で声を震わせた。

 「忝きお言葉、身に余る光栄に存じます。」

 御門様がそれ以上何も言わなかった。

 それで十分だった。

 

 御所を退出した後、忠房はしばらく動けなかった。

 御所の外の廊下に立って、庭の松を見ていた。

 春の松は、緑が深かった。太い幹がどっしりと地面に根を張り、枝が四方に伸びている。風が吹くたびに、葉が細かく揺れる。しかしその揺れは激しくなく、穏やかだった。

 御門様が「よく育てた」とおっしゃった。

 忠房は「何もしていない」と思っていた。全部、糸子がやった。屋根の修繕も、天朝物産会所も、英語の習得も、江戸での交渉も——糸子が考えて、糸子が動いた。忠房はただ「いいだろう」と言い続けた。それだけだ。

 しかし御門様はそれを「よく育てた」と言ってくださった。

 (……娘に全部任せたことを、御門様は「育てた」とおっしゃるのか)

 忠房の目が潤んだ。公家の作法として、御前では表情を崩さなかった。しかし今は——一人だ。

 「……糸子よ」

 忠房が小声で言った。

 「お前はよくやっている」

 その言葉は、娘に向けたものだったが、同時に自分自身への言葉でもあった。

 信じることが——育てることだったのかもしれない。

 松が春の風に揺れた。

 忠房はしばらくそこに立ち続けた。それから、ゆっくりと歩き始めた。次の仕事が待っている。


 数日後、近衛邸の書院。

 夕暮れの光が格子窓から斜めに入り込み、畳の上に金色の縞を作っていた。庭では梅の木が微かに揺れ、その向こうに夕空がある。まだ完全には暮れていない空——藍と橙が混ざった、幕末の京都の夕暮れだった。

 三条実美が近衛邸を訪れた。

 二十三歳の若い公家だ。体つきはすらりとして、目が大きく、何かを熱烈に信じているような、そういう目をしていた。近衛家への訪問に際して、几帳面に正装している。

 名目は「近況の伺い」だ。近衛家と三条家は長い付き合いがある。不自然な招待ではない。

 「三条殿、お越しいただきありがとうございます」

 忠房が茶を勧めた。

 三条が受け取りながら、「いいえ、こちらこそ」と言った。その言葉は礼儀正しかったが、目は少し探っている。「なぜ呼ばれたのか」を考えている目だ。若いが、聡明な男だと忠房は思った。

 しばらく雑談が続いた。

 朝廷の最近の動き、各藩の様子、京の街の話——当たり障りのない話が続いた。三条が「最近、江戸の話が届いていますが」と言った。

 「ああ、そういえば」と忠房が応じた。

 「近衛家の糸子から書状が来まして」

 「ああ、江戸においでの姫君様ですね」

 三条の目が少し明るくなった。「近衛の姫君」の名前は、各藩の間で広まっていた。ハリスを言い負かした——という話は、朝廷の中でも聞こえていたのだろう。

 「はい。ハリスとの交渉に関わられたとか」

 「存じております。朝廷の使者として大変なお役目をなされたとのことで」

 忠房が茶を一口飲んだ。

 夕日が格子窓を通して、三条の横顔を照らした。若い顔だった。しかし目の奥には、情熱が宿っていた。

 「糸子が申すには——日本はこれから大きく変わると」

 三条が少し前に身を乗り出した。

 「……どのように」

 「外国と対等に渡り合える国になれる、と」

 「それは——」

 三条が続きを促すように黙った。

 「近衛家は——そのために動いていると、ということです」

 「具体的には」

 「詳しくは——まだ申し上げられませんが」

 忠房が三条を真っすぐに見た。

 「ただ——その動きに、朝廷の若い方々にも関わっていただける時が来ると思っております」

 三条が何かを感じた表情をした。

 椅子に座りながら、しかし体の中心に何かが宿ったような——そういう表情だ。

 「……それは」

 三条が少し声を落として言った。

 「覚えておきます」

 「よろしゅうおたの申します」

 その後、しばらく他の話をして、三条が帰った。


 三条が帰った後、忠房は書院に一人残った。

 暮れた庭を見ながら、糸子の言葉を思い出した。

 「全てをお話しせず、『近衛家が動いている』ということだけをお伝えください」

 その通りにした。詳しい話はしなかった。しかし——それで十分だったのかもしれない。

 三条の目に、あの瞬間、何かが灯った。

 「覚えておきます」という言葉は——本気だったと、忠房は感じた。

 (糸子よ、種は蒔けた)

 忠房が思った。

 翌日、近衛邸に、岩倉具視が来た。

 三条の訪問とは別の日に設けた、別の招待だった。

 岩倉は三十五歳だった。三条より一回り年上で、その分だけ落ち着いている。しかしその落ち着きは——三条の誠実な落ち着きとは違う。計算を内側に隠した、外側だけが穏やかな落ち着きだ。近衛邸の玄関で従者を従えて現れた岩倉は、忠房を見た瞬間に何かを読もうとした。

 その目が鋭かった。

 「岩倉殿、お越しいただき辱う存じます」

 「いいえ。近衛様からのお招きとあれば」

 岩倉が穏やかに笑った。しかしその目は笑っていなかった。「なぜ呼ばれたのか」を、既に三つか四つの仮説に当てはめて考えている目だ。

 書院に通した。

 今日は庭に向いた席ではなく、部屋の中央に床几を置いた。岩倉が座った。忠房が向かいに座った。

 茶が運ばれた。

 岩倉が茶を一口飲んで、待った。忠房が話を始めるのを待っている。この男は先に話し始めない。相手の言葉を全て聞いてから、自分の言葉を選ぶ。

 「実は——娘の糸子から書状が来まして」

 「ああ、江戸の姫君様ですね」

 岩倉が応じた。その声はまだ探っている。

 「ご存知でしたか」

 「ハリスとの交渉に関わられたとか。朝廷内でも話題になっています」

 「そうですか」

 忠房が少し間を置いた。

 書院の外で、鳥が一声鳴いて、遠ざかった。

 「岩倉殿は——今の日本をどうお思いですか」

 岩倉が少し目を細めた。

 「……唐突なご質問ですね」

 「はい。直接に聞いた方がいいと思いまして」

 岩倉が少し考えた。その考える時間が——計算ではなく、どこまで正直に話すかを測っているように忠房には見えた。

 「正直に申し上げれば——幕府のままでは、この国は危ういと思っております」

 「朝廷が中心になるべきだと」

 「……そう思っています。しかし方法が難しい」

 「はい」

 忠房が静かに言った。

 「近衛家は——内戦なき日本の近代化を、本気で目指しています」

 岩倉が少し固まった。

 固まったのは一瞬だった。しかしその一瞬が、岩倉の計算の中で何かが更新された瞬間であることは、忠房にも分かった。

 「……それは」

 岩倉が言葉を選んだ。

 「娘様のお考えで?」

 「糸子からの言伝です。近衛家としての方針でもあります」

 「内戦なき、というのは——」

 「幕府が戦わずに同じ方向を向く、ということです」

 岩倉が少し前に傾いた。

 「……それはどうやって実現するのですか」

 忠房が穏やかに微笑んだ。

 糸子が書状に書いた言葉を思い出しながら。

 「それは——まだ申し上げられませぬ」

 「なぜですか」

 「時が来れば分かります」

 岩倉が少し沈黙した。

 「時が来れば」という言い方に、岩倉の鋭い目が微かに光った。情報を与えられなかったことへの苛立ちではなく——かえって引きつけられたような光だった。

 「……一つだけ聞かせてください」

 「なんでしょう」

 「近衛家は——誰と組んで、それを目指しているのですか」

 「今日はそれも申し上げられません」

 「……」

 岩倉が少し唇を引き結んだ。

 「岩倉殿」

 「はい」

 忠房が静かに、しかし明確に言った。

 「ただ——近衛家は、岩倉殿のような方がこの動きに加わってくださることを望んでいます」

 岩倉が忠房を見た。

 その目が——初めて純粋な驚きを見せた。

 計算を一瞬忘れた、素の驚きだった。

 「……それだけですか」

 「今日はそれだけです」

 岩倉が少し考えた。

 窓の外の庭が夕暮れに染まり始めていた。橙と金が混ざった光が、書院の中に入り込んでいた。

 やがて岩倉が言った。

 「分かりました。しばらく——考えます」

 「よろしゅうおたの申します」


 岩倉が帰った後、忠房が一人になった。

 書院に夕暮れの光が満ちていた。

 畳の上の縞模様が、じわりと薄れていく。外がゆっくりと暗くなっていくのに従って、部屋の中も暗くなっていく。行灯にまだ火を入れていない。しかし忠房は立ち上がらなかった。

 ただ、その薄暮の中に座っていた。

 「……糸子の言った通りだ」

 忠房が思った。

 「岩倉殿は全部知りたがっていた。しかし全部教えなかった。その方がかえって引きつけられている」

 三条への接触と岩倉への接触——二つは全く違う手法だった。三条には「動きがある」という事実だけを伝えた。岩倉には「目標」だけを伝えて、手段は教えなかった。それぞれが、その人物の性格に合った接触だった。

 (糸子はどうやってこれを知っているのだ?)

 忠房が思った。

 十二歳の娘が——人の性格の違いを読んで、それぞれに合った情報の渡し方を設計する。その能力がどこから来るのか、忠房には分からなかった。しかし確かなことは——糸子の設計通りに動いたら、二人とも「近衛家の動き」に引きつけられた、という事実だった。

 「糸子よ——」

 忠房が小声で言った。

 「お前はいつからこういうことを知っていたのだ」

 その言葉に答える声はなかった。

 しかし忠房の口元には、笑みが浮かんでいた。

 「……父は一生、お前には勝てないな」

 行灯に火を入れなければ、と思いながら、しばらくその薄暗い書院に座り続けた。


 夕方になった、一橋藩上屋敷。

 奥御殿に戻った糸子は、文机の前に座った。

 行灯に火が入っている。その光の中で、帳面を開いた。

 今日やったことを、確認するように書き出した。

 「実光様——篤姫様への経路を依頼」

 「書状三通——松屋経由で京へ」

 「父上——御門様・三条殿・岩倉殿への接触を依頼」

 全部が、今日動き始めた。

 糸子が帳面を閉じた。

 葵が入ってきた。夕餉の知らせだ。

 「姫君様、今日はどのようなお顔の色ですね。先週よりずいぶん良くなられました」

 「一か月休んだ甲斐がありました」

 「良うございました。本当に心配していたのですよ」

 葵の言葉は、正直だった。葵は飾らない。感じたことを、ゆっくりとした言葉で言う。それが——糸子には心地よかった。

 「葵、ありがとう」

 「え? 何がですか?」

 「ずっと心配してくれていたから」

 葵が少し固まった。それから「……そんな、当然のことで」と言って、目を伏せた。

 糸子が立ち上がった。

 縁側の向こうの庭に、夕暮れが来ていた。池の水が橙色に染まり、松の葉が夕風に揺れている。鳥がどこかへ帰っていく影が、空を横切った。

 (今日、種を蒔いた)

 糸子が思った。

 これが育つのにどれくらいかかるか——分からない。一年かもしれない。三年かもしれない。しかしこの国の時間の流れは速い。のんびりしてはいられない。

 (しかし——今日のところはここまで)

 「葵、夕餉にしましょう」

 「はい、姫君様」

 糸子が部屋を出た。

 廊下に夕暮れの最後の光が差し込んでいた。

 その光の中を、糸子は歩いた。


十一

 同じ頃、京都では。

 三条実美が、一人で夜の書院に座っていた。

 「近衛家が動いている」

 呟いた。

 窓の外に月が出ていた。丸い月ではなく、少し欠けた月だ。しかしその光は明るく、庭の石畳を白く照らしていた。

 (近衛の姫君が江戸で動いた。朝廷として動いた)

 三条は聞いていた。ハリスとの交渉の話を。「御所御用達の機関が外交の場で動いた」という話を。そしてその背後に「近衛家の姫君」がいるという話を。

 (自分も——何か、できることがあるはずだ)

 三条の中で、それは燃えるような感覚として存在していた。自分はまだ二十三歳だ。官位もそれほど高くない。力もない。

 しかし——何かできることがあるはずだ。

 (近衛様は「時が来れば」とおっしゃった)

 三条はその言葉を、ここ数日繰り返し思い返していた。「時が来れば」——その時が来るのを待ちながら、自分は何をすべきか。

 各藩の志士たちと話すことだ、と三条は決めた。

 自分が持っている最大の力は、志士たちからの信望だ。理由は自分でも正確には分からないが、各藩の若い志士たちが三条に話しかけてくる。三条を「信頼できる朝廷の人間」として見ている。

 その力を——「近衛家が動いている」という事実を伝えることに使える。

 (それが今の自分にできることだ)

 三条が立ち上がった。

 月明かりの中、庭を少し歩いた。

 石畳が冷たかった。夏の始まりの夜は、まだ少し涼しい。

 遠くで、鐘の音が聞こえた。京の夜の鐘だ。

 (この国は変わる)

 三条が思った。

 (変えられる)


 三条が目を覚ました。

 夜中だった。どれくらい眠っていたかは分からない。しかし体はまだ眠れそうだった。

 なぜ目が覚めたのか——分からなかった。

 窓の外に月が出ていた。その月を見ながら、三条は「近衛家が動いている」という言葉を、また思った。

 (何ができるか)

 三条は考えた。

 明日、長州の志士と会う約束がある。土佐の志士にも会う予定がある。その席で——「近衛家が動いている」という事実を、自然な形で話せないか。

 (話せる。話すべきだ)

 三条が決めた。

 これが自分にできる「種蒔き」だ。近衛家が直接できないことを、自分が橋渡しする。それが自分の役割だ。

 三条が再び横になった。

 今度はすぐに眠れた。

 月が黙って窓の外にあった。


十二

 同じ夜、岩倉具視の屋敷。

 岩倉は書院に一人で座って、灯火を前にしていた。

 「内戦なき日本の近代化」

 その言葉を、岩倉は何度も頭の中で転がしていた。

 (近衛家が本気でそれをやろうとしている)

 岩倉の目が、静かに光った。

 三十五年間、朝廷の中で生きてきた。この国の政治の仕組みを、岩倉は誰よりも深く知っている。幕府の限界も知っている。朝廷の可能性も知っている。そして——「内戦なき移行」というのが、どれほど難しいかも知っている。

 (しかし——近衛家はそれを本気でやろうとしている)

 天朝物産会所の動き。ハリスとの交渉への関与。一か月前から噂になっていた「近衛家の姫君」の話——それらが全部、一つの線の上に並んだ。

 (「どうやって」を教えない、という手法も——計算された選択だ)

 岩倉はそれを見抜いていた。近衛忠房が「教えない」のは、情報を持っていないからではない。情報を渡さないことで、岩倉を引き込もうとしている——その策略が見えた。

 (見えた上で——引きつけられているのが、また面白い)

 岩倉が小さく笑った。

 「内戦なき近代化」。もしそれが本当に実現できるなら——岩倉も関わりたい。いや、関わるべきだ。それが自分の力を最も有効に使える場所だ。

 (ただし——全部任せるわけにはいかない)

 岩倉はそう考えた。近衛家の計画に乗ることと、近衛家に使われることは違う。岩倉は「使われる」役を担うつもりはなかった。

 (対等に関わる形を作る必要がある)

 それをどうやって実現するか——岩倉は灯火を前に、長い時間をかけて考え始めた。


 灯火がまだ燃えていた。

 岩倉は寝ていなかった。

 「内戦なき近代化」——その言葉と、「どうやって」の空白の部分を、岩倉は何時間もかけて考えていた。

 いくつかの仮説が浮かんだ。

 一つ目——天朝物産会所を経済の基盤として使い、朝廷の財政を独立させる。

 二つ目——各藩の志士たちに「朝廷中心の体制」への共鳴を広げる。

 三つ目——将軍後継者問題に朝廷が関与する前例を作る。

 (おそらく——全部だ)

 岩倉が思った。

 一つではない。これらを同時並行で動かしている。その全体の設計者が——近衛家の姫君だ。

 (十二歳の姫君が、この設計をしているのか)

 岩倉が初めて、本当の意味で驚いた。

 計算を忘れた驚きだった。

 「……面白い」

 岩倉が灯火に向かって呟いた。

 「これは——面白い」

 灯火が揺れた。  


十三

 江戸、一橋藩上屋敷。

 近藤勇が廊下から庭を見ていた。

 夜番は慣れた仕事だ。沖田や土方が「よく飽きないですね」と言うが、近藤は飽きない。静かに守ることが——自分の性に合っていると思っていた。

 姫様は眠っておられる。

 それで十分だ。

 近藤が庭を見ながら、ここ数日の出来事を思い返した。

 姫様が一か月、篭もっていた。誰にも会わず、ひたすら書き続けていた。そして今日から、また動き始めた。実光様に頼みごとをして、勝殿を呼んで、書状を三通書いて——。

 (また何かが始まるのだろう)

 近藤は思った。

 ハリスとの交渉の時もそうだった。糸子が動き始めると、周囲の空気が変わる。目に見えない何かが動き始める感覚がある。

 (俺たちはその周囲を守ればいい)

 近藤はそれで満足していた。

 「姫様が考え、俺たちが守る」——それが旭狼衛の在り方だ。剣で守ることが、自分たちの役目だ。それ以上でも以下でもない。

 しかし——近藤は時々思う。

 本当に守れているのだろうか、と。

 姫様が考えていることの全ては、近藤には分からない。二冊の帳面のことも、その中身も、計画の全体像も——知らない。知る必要がないとも思っている。しかし——本当に守るためには、どこまで知っておく必要があるのか。

 「難しいものだ」

 近藤が小さく言った。

 月が傾いていた。夜が深まっている。もうじき沖田と交代の時間だ。

 近藤は池を見た。

 水面に映る月が、ゆっくりと動いていた。


 とある宿。

 坂本龍馬が寝転がっていた。

 天井を見ていた。

 「近衛家……」

 また呟いた。

 この数日で龍馬の中で「近衛家」という存在の像が変わりつつあった。公家の家名ではなく——実際に動いている機関として。

 (御簾の向こうに姫様がいて、ハリスと渡り合った)

 近藤長次郎が言っていた言葉を思い出した。「よい主を持ちましたのう、龍馬さん」——それは近衛家への言葉だった。

 (俺も——その「よい主」のやっていることを、もっと知りたいぜよ)

 龍馬が体を起こした。

 行灯の前に座って、紙を広げた。

 誰かに手紙を書こう、と思った。近藤長次郎に。「天朝物産会所について、もっと詳しく聞かせてくれ」という内容だ。直接ではなく、遠回しに。

 龍馬は文章を書くのが好きだった。思ったことをそのまま書く。飾らない。

 筆を取った。

 書き始めた。

 行灯の火が揺れた。


十四

 さらに同じ夜、江戸の一橋藩上屋敷。

 糸子は眠れなかった。

 布団の中に入ったが、目が覚めていた。

 天井を見た。行灯は消えている。月明かりだけが薄く入り込んで、天井の板目を浮かび上がらせていた。

 頭の中で、今日動かした駒を確認していた。

 父は御門様に書状を渡した——はずだ。届いたのはいつ頃か。

 父は三条殿と岩倉殿に接触する——それは数日以内に動くだろう。

 篤姫様への書状は——まだ経路が確保されていない。実光様が動いてくださるのを待つ。

 勝殿は——慶喜殿の周辺に種を蒔いてくれる。これは時間がかかるが、確実に進む。

 (全部、動いている)

 糸子が天井を見ながら思った。

 一人では何もできない。しかし——人を動かす設計ができれば、自分が動けない場所でも計画が進む。これが「組織」の力だ、と糸子はバイヤー時代に学んでいた。

 (屋根を直す時もそうだった)

 自分が大工仕事をするわけではなかった。職人を手配して、材料を調達して、仕組みを作った。

 (今も同じだ。ただ——規模が違うだけ)

 糸子が静かに笑った。

 目が少し重くなってきた。

 (後継者問題は、まだ始まりだ)

 眠りながら思った。

 (しかし——種は蒔いた)

 その言葉を最後に、糸子は眠りに落ちた。

 江戸の夜が深まった。

 月が傾き、池の水面に映る光が細くなっていく。松の葉が夜風に静かに揺れて、庭全体が眠っているようだった。

 一橋藩上屋敷の奥御殿は静かだった。

 近藤勇が廊下の端で夜番をしていた。いつもと変わらない姿勢で、刀に手を添えて、庭を見ていた。

 しばらくして、近藤が小さく呟いた。

 「今夜は——少し穏やかな夜ですな」

 誰に言うでもなく。

 蛙が遠くで鳴いた。夏の始まりの、丸い声の蛙だった。


十五

 夜が明けていく。

 江戸の東の空から、じわりと明るくなっていく。

 一橋藩上屋敷の庭に、朝の光が入り始めた。池の水面が金色に変わる。松の葉が光を受けてきらきらと揺れる。どこかで鳥が鳴く。夜明けの、最初の鳥の声だった。

 沖田総司が廊下の端で夜番を終えようとしていた。

 近藤と交代して、数時間。静かな夜だった。

 奥御殿の部屋に灯火はない。姫様は眠っておられる。

 沖田が朝の庭を見た。

 池の鯉が一匹、水面に顔を出した。赤い鯉だった。口を丸く開けて、また水の中に戻っていく。

 沖田が小さく笑った。

 「おはようございます」

 鯉に向かって言った。

 それから部屋の方を見た。

 (姫様は今日も、何か考えておられるのだろうな)

 沖田はそう思いながら、あくびを一つした。

 朝の光が、廊下の上に長く伸びていた。


 そして——糸子が目を覚ました。

 窓の外が明るかった。朝だ。

 布団の中でしばらく天井を見た。

 今日やることを、頭の中で整理した。

 朝の涼しいうちに、篤姫様への書状の草稿を書く。実光様の経路が整うまでの間に、内容を固めておく必要がある。

 それから——後継者問題の整理を続ける。「一橋慶喜がなぜ計画①に必要か」という論理を、御門様に説明できる形にまとめておく。

 あとは——宇治のお茶が届くのを待つ。

 (それが今は一番楽しみかもしれませんね)

 糸子が思った。

 そしてそのことに気づいて、少し笑った。

 江戸の交渉も、各藩への種蒔きも、後継者問題も——全部が重要だ。しかし今の糸子にとって、宇治のお茶への期待が同じくらい重要に感じられる。それでいい、と思った。

 重いものだけを抱えていたら、人間は壊れる。小さな楽しみが、人間を支える。これはバイヤー時代にも知っていたことだ。

 糸子が布団から出た。

 縁側の外に朝の庭が見えた。

 昨日と同じ庭だが、朝の光の中では全く別の色をしていた。石畳が白く、松の葉が鮮やかで、池の水面が穏やかに光っていた。

 「さて」

 糸子が言った。

 「今日も始めましょうか」


 第六十話 了


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