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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します  作者: 1009


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第六話「清華家の異議と、広橋の青年」

広橋家から使いが来たのは、晩秋の雨の朝だった。

 近衛家の商売が公家社会の中で話題になり始めていることは、お梅の情報網で把握していた。好意的な話ばかりではない。「公家の姫君が商いとはしたない」という声が、どこからともなく漏れ聞こえてきていた。

 しかし表立った異議申し立ては、今日まで来ていなかった。

 来るとすれば、どこからか。

 糸子はずっと考えていた。

 近衛家と同格の五摂家からは来ない。同格の家が互いの内政に口を出すことは、格式上難しい。幕府からも今の段階では来ない。近衛家の商売はまだ幕府が動くほどの規模ではないし、御所との関係を持つ近衛家に幕府が軽々しく口を出せばそれ自体が問題になる。

 では残るは。

 清華家だ。

 公家の家格は上から順に、皇族、摂家、清華家、大臣家、羽林家と続く。清華家は摂家の下、大臣家の上に位置する家柄で、太政大臣にまでなれる名門だ。摂家ほどの格式はないが、公家社会の中で大きな発言力を持っている。

 そして近衛家と清華家の間には、長い付き合いがある。良い意味でも、悪い意味でも。

 広橋家は清華家の中でも、近衛家との縁が深い家だ。

 使いが持ってきた文書を読んで、糸子は予測が当たったことを確認した。

 広橋権中納言様が近衛家当主に直接お話があると、改まった形で申し入れてきている。

 お梅が心配そうな顔で言った。

「姫様、広橋様は近衛家とは昔からお付き合いのある御家でございます。それが改まって申し入れてこられるということは……」

「内容は分かっています」

「やはり商売のことでございますか」

「おそらくそうです」

 糸子は文書をもう一度読んだ。

 文面は丁寧だ。角が立たないように配慮されている。しかしその丁寧さの裏に、「正式な場で話し合いたい」という意思がはっきりと読み取れる。

 非公式な場で済ませるつもりがない。

 それは、向こうが本気だということだ。

「お梅、父上に広橋様をお通しするよう伝えて頂戴。わたくしも同席します」

「姫様も、でございますか」

「相手が何を本当に言いに来るのか、直接見てみたいのです」

 お梅が少し躊躇した。

「広橋様は権中納言でいらっしゃいます。姫様が同席なさることを、向こうが快く思わない場合も」

「快く思わないなら、それはそれで構いません。どう出るかを見てみましょう」


 二日後、広橋権中納言が近衛家を訪ねてきた。

 六十がらみの、痩せた老人だった。長年公家社会で生きてきた人間特有の、静かな威圧感がある。着物は質素だが品がよく、所作の一つ一つが長年の習慣から来ている。

 そして老人の後ろに、一人の青年がいた。

 二十歳前後だろうか。広橋家の嫡男らしく、父親と同じく礼儀正しく頭を下げている。しかしその目が、座敷に入った瞬間に糸子を見て、一瞬止まった。

 糸子は広橋権中納言の挨拶を、父上の隣で静かに受けた。

 権中納言は糸子が同席していることを見て、わずかに表情が動いた。

 驚き、ではない。

 想定はしていたが、実際に見ると少し違和感がある、という表情だ。

 糸子はその表情を正面から受けながら、内心で素早く判断した。

 向こうは糸子が同席することを、事前に予測していた。ということは、今回の申し入れ自体が、近衛家の商売を実質的に仕切っているのが糸子だという情報を把握したうえでの行動だ。

 情報は向こうにもある。

 甘く見てはいけない相手だ。

 父上が穏やかに挨拶を返した後、広橋権中納言が口を開いた。

「近頃の近衛家のご商売について、少々お話ししたいことがございまして」

「はい、伺っております」父上が答えた。「どのようなことでしょうか」

「率直に申し上げます」

 権中納言の声は穏やかだが、言葉は直接的だった。

「公家が商いを行うことは、古来からの慣わしに照らして、いかがなものかと思う次第でございます。近衛家はこの国で最も格式の高い御家の一つ。その格式が商いによって……その、些か損なわれるのではないかと」

 父上がゆっくりと頷いた。

「ご心配をおかけしているようで、申し訳ございません」

 糸子は父上が謝罪に向かいかけているのを感じて、静かに口を開いた。

「広橋様、少しよろしゅうございますか」

 権中納言の目が糸子に向いた。

 糸子は続けた。

「近衛家の格式が商いによって損なわれる、とおっしゃいましたが、その点についてお考えをもう少し詳しく伺えますか。具体的にどのような形で損なわれると、お考えでしょうか」

 権中納言が少し間を置いた。

 六歳の姫君から、こういう問い返しが来るとは想定していなかったのだろう。しかし動じた様子はない。長年の経験が、この程度の意外さは受け止められるだけの落ち着きを与えている。

「公家とは、学問と礼と、御門様へのご奉仕を本分とする存在でございます。銭の計算を行い、品物の売り買いを行うことは、商人のなすべきことであり、公家の本分とは異なる」

「なるほど」

 糸子は頷いた。

 すぐに反論しない。相手の言葉を一度受け止める。それが糸子の通常モードの基本だ。

「広橋様のおっしゃる本分、学問と礼と御門様へのご奉仕……そのためには、まず生活の基盤が必要でございますね」

「それは……」

「屋根が雨漏りしていては、学問に集中できません。食事が質素では、礼を整える気力も削がれます。御門様へのご奉仕も、懐が寂しければ十分には果たせません」

 権中納言が黙った。

「近衛家の商売は、まさにその基盤を整えるためのものでございます。品物を売ることが目的ではなく、近衛家が本分を果たせる状態を作ることが目的でございます」

「しかし実態として、商いを行っていることは変わらない」

「変わりません。しかし御所の台所方のお手伝いをしていることも、変わりません」

 権中納言の目が微かに動いた。

「御所の……台所方の」

「近衛家の取引を通じて、御所の食材の手配をお手伝いしております。これは商いではなく、臣下の務めでございます。その務めを果たす過程で、近衛家に些かの収入が生じているだけのことでして」

 権中納言がしばらく黙っていた。

 その隣で、広橋の青年がじっと糸子を見ていた。

 糸子はその視線に気づきながら、権中納言だけを見ていた。

「……御所のお台所のお手伝いを、でございますか」

「さとという女官長もご存じのはずでございます。広橋様がご心配であれば、さとにお確かめいただいても構いません」

 これは事前に準備していた一手だった。

 さとに話は通してある。広橋家から確認が来た場合には、事実を答えていただくよう、先日お梅を通じて頼んでおいた。

 権中納言が少し考えた。

「……御所のことは、存じませんでした」

「最近始めたことでございますので」糸子は穏やかに言った。「広橋様にご心配をおかけしているとすれば、ご説明が遅れたことはお詫び申し上げます」

 詫びているのは商売の内容ではなく、説明が遅れたことだけだ。

 言葉を使い分ける。詫びる範囲を限定する。

 権中納言がもう一度黙った。

 今度の沈黙は、長かった。


 しばらくして、権中納言が言った。

「……近衛様の姫君がそのようなお考えでいらっしゃるとは、存じませんでした」

「至らない点も多々ございます」

「いえ……」

 権中納言が、初めて少し表情を緩めた。

「見事でございます」

 それは素直な言葉に聞こえた。

 糸子は頭を下げた。

「過分なお言葉でございます」

「しかし……」権中納言は続けた。「世の中には、近衛家の商売を快く思わない方々もおられます。わたくしがお話ししに来たのは、そういった方々の代わりに、一度近衛様に直接お伝えしておくべきと思ったからでもございます」

「どのような方々でしょうか」

「名前は申し上げられません。ただ……幕府の御用商人の中に、近衛家の動きを面白くないと思っている者がいると、風の噂に聞いております」

 糸子は内心で少し緊張した。

 幕府の御用商人。

 そちらから来るとは、まだ想定していなかった。

「具体的にはどのような形で、面白くないと思っているのでしょうか」

「近衛家が独自の流通経路を作ることで、自分たちの商売の縄張りが侵されると感じているようで……。実害がある段階ではないようですが、今後規模が大きくなれば、何らかの形で出てくることもあるかもしれません」

 これは情報だ。

 権中納言は異議申し立てに来たと同時に、情報を持ってきた。

 なぜ持ってきたのか。

 糸子は素早く考えた。

 権中納言は近衛家を完全に敵対視しているわけではない。むしろ忠告しに来ている。それは近衛家との長い縁を、完全に切りたくないという意思の現れだ。

「広橋様、ご忠告ありがとうございます。大変参考になりました」

「参考に、でございますか」

「はい。今後の商いを進める上で、注意すべき点を教えていただきました。感謝しております」

 権中納言が糸子を見た。

「……あなたは、面白い姫君でいらっしゃる」

「そうでしょうか」

「普通の姫君ならば、このような話に委縮するか、あるいは反発するかのどちらかでございます。しかしあなたは……参考にすると仰る」

「委縮しても反発しても、問題は解決しません。参考にして、次の手を考えるほうが、ずっと有益です」

 権中納言が少しの間、糸子を見ていた。

 それから、深く頭を下げた。

「……失礼いたしました。余計なお話をしてしまったかもしれません」

「いいえ。来てくださってよかった」

 糸子は本心からそう言った。

 これは本当のことだ。権中納言が来てくれたことで、幕府の御用商人という新しい懸念が分かった。知らないまま進んでいれば、もっと厄介な形で問題が出てきたかもしれない。


 権中納言が父上と別の話題に移った頃、糸子はさりげなく広橋の青年に目を向けた。

 青年はずっと糸子を見ていた。

 先ほどから視線が外れない。

 好奇心の目だ。警戒でも敵意でもない。ただ、純粋に興味を持っている目だ。

 糸子は青年の名前をまだ聞いていなかった。

 父上が権中納言と話している間、糸子は静かに青年に声をかけた。

「お名前を伺っていませんでした」

 青年が少し驚いた顔をした。

 近衛家の姫君から直接話しかけられることは、想定していなかったのだろう。

「……広橋、実光と申します」

「広橋様のご嫡男でございますか」

「はい」

「今日はお父上のお供で」

「はい。……勉強のために連れてきていただきました」

「勉強、でございますか」

「父から、近衛家の姫君がご自身で商いを仕切っておられると聞きまして。どのようなお方かと、興味がございまして」

 直接的な物言いだ。

 糸子は少し面白いと思った。

 清華家の嫡男が、六歳の姫君に「興味がございました」と言う。普通の公家社会の礼法から言えば、かなり踏み込んだ発言だ。

「先ほどのお話を聞いていて、どう思われましたか」

 実光が少し考えた。

「……見事だと思いました」

「お父上も同じことを仰っていました」

「父はああ申しましたが……わたしが見事と思ったのは、別のことでございます」

「別のこと、とは」

「先ほど姫君様は、お父上を異議申し立てから守られました。お父上が謝罪に向かいかけたところを、自然に引き取って、論点を変えられた。父はあの瞬間に気づいていないと思いますが、わたしには見えました」

 糸子は少し間を置いた。

 この青年は、見える人間だ。

「よく気づきましたね」

「わたしは人が何を考えているかを観察することが好きで……余計な癖でございますが」

「余計な癖ではありません。必要な能力です」

 実光が糸子を見た。

「姫君様は、なぜそのような能力が必要だと思われるのでございますか」

「交渉の場で、相手が何を考えているかを読めない人間は、常に後手に回ります。先を読めれば、先手を打てます」

「……姫君様は、父との話の間中、先を打ち続けておられました」

「父上がいてくださったから、できたことです」

「いいえ」実光が静かに言った。「近衛様が同席しておられなくても、姫君様はあの話をなさったと思います」

 糸子は実光を見た。

 この青年の観察眼は、かなり鋭い。

 こういう人間は、味方にすれば心強い。しかし敵に回れば厄介だ。

「広橋様は今後、どのようなお仕事をなさるおつもりですか」

 実光が少し驚いた顔をした。

「突然のお話でございますが……父の跡を継いで、公家としての務めを果たすことになると思います」

「学問は」

「漢籍と和歌を中心に。それから有職故実を」

「有職故実…」

 糸子の頭の中で、何かが動いた。

 有職故実とは、朝廷や公家社会における儀式や礼法についての知識体系だ。何が正式で何が正式でないか、どの行為がどのような意味を持つか……公家社会の「ルール」の全てがそこにある。

 これは使える知識だ。

 糸子が今まさに必要としている部分がある。公家社会の中で動く時、有職故実の知識が深ければ深いほど、こちらの行動の正当性を主張できる。逆に言えば、有職故実に通じた人間が味方にいれば、何か問題が起きた時の論拠を作れる。

「広橋様、一つお聞きしていいですか」

「はい」

「近衛家の商売について、有職故実の観点から何か問題がありますか」

 実光が少し考えた。

「……正直に申し上げますと、古い事例を調べると、公家が商いに関わった記録が全くないわけではございません。平安の頃から、公家が所領の産物を取引した記録はいくつかございます」

「それは、商いに当たりますか」

「解釈によります。商いと捉えることもできますし、所領の管理と捉えることもできます」

「近衛家の現在の商売は、後者の解釈が当てはまると思われますか」

 実光がじっと糸子を見た。

「……当てはまるよう、構成されていると思います」

「恐れ入ります」

 糸子は静かに頷いた。

 実光がそれ以上何かを言いかけて、止めた。

 止めた部分が気になった。

「何か言いかけましたか」

「……いえ、その」

「遠慮なく仰ってください」

 実光が少し迷った後、口を開いた。

「姫君様は、この先どこまで商売を広げるおつもりでいらっしゃいますか。御所御用達の称号を得て、江戸にも販路を広げて……その先に、何を考えておられるのでしょうか」

 糸子は少し考えた。

 どこまで話すか。

 実光は今日初めて会った人間だ。しかし観察眼があり、有職故実の知識があり、父親の異議申し立てを冷静に見ていた人間だ。

 全部は話さない。しかし少しだけ、見せる。

「この国が外国に食い物にされないための備えをしたいと思っています」

 実光の目が変わった。

「……外国に?」

「南蛮の国々が、この国に近づいてきています。その時に備えて、今から力を蓄えておく必要があります。その力を作る方法として、商いを選んでいます」

「なぜ商いを?」

「お金がなければ何もできません。情報がなければ判断できません。人のつながりがなければ動けません。商売はその三つを同時に作る方法です」

 実光がしばらく黙っていた。

 それから静かに言った。

「……有職故実の観点から、公家の行動の正当性を裏付ける作業が必要になった時、お声掛けいただけませんでしょうか」

 糸子は実光を見た。

「それは、協力してくださるということですか」

「父がここに来たのは、異議申し立てのためでございました。しかしわたしは……姫君様のなさろうとしていることが、この国にとって必要なことかもしれないと思いました。父の意を汲んで黙っているよりも、できることをしたほうがいいと」

「お父上には」

「話しません。少なくとも今は」

 糸子はしばらく実光を見た。

 信頼できるか、まだ分からない。

 しかし今日の実光の観察眼と、有職故実の知識と、父親の意向に縛られない判断力は、糸子には見えた。

「分かりました。機会があれば、お声掛けします」

「ありがとうございます」

 実光が頭を下げた。


 広橋父子が帰った後、父上が糸子を見た。

「糸子、よかったのか」

「何がですか」

「広橋の若君と、あのような話を」

「父上には聞こえていましたか」

「少し聞こえた。あの若君は……信用できるのか」

 糸子は少し考えた。

「まだ分かりません。しかし有職故実に通じた人間が近くにいることは、今後役に立つ可能性があります」

「それは分かるが……相手は清華家だぞ。もし今日の話が外に漏れれば」

「漏れないと思います」

「なぜ」

「漏れた場合、実光様自身が父上に黙っていたことが露見します。それは実光様にとっても都合が悪い。漏らすことで得られる利益より、黙っていることの利益のほうが大きい」

 父上がため息をついた。

「お前は本当に……」

「父上、広橋様が来てくれて良かったと思っています」

「良かった、とな」

「幕府の御用商人から面白くないと思われているという情報が得られました。それは今まで把握していなかったことです。早めに知れて良かった」

「それはそうだが……」父上がまた間を置いた。「糸子、一つ聞いていいか」

「どうぞ」

「怖くないのか」

 糸子は父上を見た。

「何が、でございますか」

「こんな大きなことを動かして、誰かから睨まれたり、邪魔されたりすることが」

 糸子は少しの間、考えた。

 怖いか。

 怖くない、と言えば嘘になる。

 前世の咲は、百貨店で新しい提案をするたびに反発を受けた。プロジェクトを潰されたことも一度や二度ではない。その経験が、この問いへの答えを持っている。

「怖いです」

 父上が少し驚いた顔をした。

「しかし怖いかどうかと、やるかどうかは別の話です。怖くてもやる理由があれば、やります。やらない理由が怖さだけであれば、それは理由になりません」

 父上がしばらく糸子を見ていた。

 それから、静かに言った。

「……分かった。父も、できる限り力になろう」

「ありがとうございます、父上」


 その夜、糸子は帳面に今日の出来事を書き込んだ。

 広橋権中納言の訪問。異議申し立てというよりは忠告。幕府の御用商人の一部が近衛家の商売を面白くないと思っている。今後の規模拡大に際して注意が必要。

 広橋実光。観察眼が鋭い。有職故実に通じている。協力の意思を示した。信頼できるかはまだ不明。しかし有職故実の知識は今後必要になる可能性が高い。関係を保つ価値がある。

 幕府の御用商人への対応。すぐに動く必要はない。しかし御所御用達の称号が正式に得られれば、こちらへの攻撃がより難しくなる。称号取得を急ぐ理由がまた一つ増えた。

 筆を止めて、糸子は行灯の灯を見た。

 今日は幾つかのことが動いた。

 異議申し立てが来た。しかし想定の範囲内だった。

 新しい懸念が分かった。幕府の御用商人という想定外の勢力だ。

 新しい可能性が生まれた。実光という、有職故実に通じた協力者の候補だ。

 一つの問題が、二つの収穫を連れてきた。

 そういうこともある、と前世の咲の経験が言っている。

 困難は情報を連れてくる。情報は次の手を生む。

 糸子は帳面を閉じた。

 雨はまだ降っていた。

 しかし屋根からは、何も落ちてこない。

 それだけで今夜は十分だ、と糸子は思った。


第六話 了

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