表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します  作者: 1009


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

56/59

第五十五話「ハリスVS糸子 舌戦⑤」

「ハリスVS糸子 舌戦」シリーズは今回のお話しで、ようやく最後になります(;´Д`A

一 最後の切り札——「わたくしのお聞きした話では」

 会談が、まとまりに向かっていた。

 改正条項の文言が確認された。金銀比率の調整条項が合意に向かっていた。日本のアメリカへの代表駐在権が原則として認められた。

 ハリスの表情は、先ほどより落ち着いていた。一定の成果を得た、という顔だった。

 ハリスの抵抗が、少しずつ和らいでいた。

 しかし——糸子は、まだカードを持っていた。


 糸子は、御簾の内側で、最後のカードを頭の中で確認した。

 これは他のカードと性質が違う。

 今から使おうとしているこのカードは——嘘が混じっている。

 (でも、なぜこれがハリスに効くかは——本当のことだ)

 糸子は、転生前の知識を引き出した。

 大学院で幕末経済史を専攻していた頃、何度も読んだ文献があった。

 イギリスは今、焦っている。

 それは、本当のことだ。

 「世界の工場」として君臨し、アジア貿易の主導権は当然自らにあると自負してきた大英帝国が——後発の新興国アメリカに、日本という市場を先に押さえられた。

 ペリーの黒船が浦賀に現れた時、イギリスの外交官たちがどれほど歯噛みしたか。

 太平洋を渡る蒸気船の石炭補給拠点として、清国市場への足がかりとして——日本はイギリスにとっても喉から手が出るほど欲しい位置にある。

 それを、アメリカに先を越された。

 (ただし——今のイギリスは手が回らない)

 クリミア戦争。インドの動乱。そして今は清国でのアロー戦争。最強の海軍を誇るイギリスが、その戦力と外交官を複数の戦線に割かれている。

 日本に本格的に介入しようにも、今すぐには動けない。

 (これがハリスの急所だ)

 糸子の思考が、鋭く絞られた。

 ハリスは今、本国からの圧力を感じながら、焦っている。しかし彼は同時に、イギリスの動向を誰より意識している。

 なぜか。

 アメリカが先に日本と条約を結んだ、その「先行者利益」が——イギリスに追いつかれれば消える。

 アメリカが日本と有利な条約を結べば、イギリスはその条約と同等か、それ以上の条件を要求してくる。条約というものはそういうものだ。最恵国待遇の原則が、各国の条約を横並びにしていく。

 (つまりハリスにとって「イギリスが日本と直接交渉する」というシナリオは——アメリカの優位性を根本から崩す悪夢だ)

 糸子はそこまで計算して、静かに次を考えた。

 嘘は「イギリスが…すぐに動く用意がある、日本にとってより有利な条約条件」という部分だ。

 しかし——アロー戦争が終われば、イギリスが必ず日本に来ることは事実だ。そしてその時、イギリスはアメリカより有利な条件を求めてくることも、ほぼ確実だ。

 (嘘の中に、本当が混じっている)

 それが、このカードの強みだった。

 ハリスが確認しようとしても、確認できない。イギリスの動向は、ハリス自身も完全に把握できていない。

 (不確実性そのものが、武器になる)

 糸子は思った。

 (今のハリスは疲弊している。論理では返せなかった。感情的にもなった。そこへ、確認できない情報が来る。疲れた頭で「もしかしたら本当かもしれない」と思わせるだけで——十分だ!


 交渉もここまで来れば、もう使うことへの抵抗は一切なかった。御簾の内側の糸子に使わないという選択肢はなかった。

 これを使わなければ、ハリスはまだ「十分な成果を上げた」という顔で報告書を書けてしまう。

 そうなれば、日本側が勝ち取った条件が後で覆される可能性がある。

 ハリスを、完全に、後戻りできない状況に追い込む必要があった。

 (面の皮をものすごく厚くしよう!、それこそ御面を被るくらいの勢いで)

 糸子は、内心で呟いた。

 「Mr. Harris.」

 (ハリス氏)

 御簾の向こうから、糸子の声がした。

 会談がほぼまとまりに向かっていた空気の中で、その声は少し違う響きを持っていた。

 「There is one more thing I must share with you. I hesitate to raise it, because I am not certain of its accuracy. But given the importance of today's discussion, I feel it would be irresponsible not to mention it.」

 (もう一つ、あなたと共有しなければならないことがあります。正確性について確信が持てないため、提起することをためらいます。しかし今日の議論の重要性を考えると、言及しないことは無責任と感じます)

 ハリスが、少し前に傾いた。

 「What is it?」

 (何ですか?)

 「It is something I have heard, through channels available to the Konoe family.」

 (近衛家が利用できる経路を通じて聞いたことです)

 「わたくしのお聞きした話ではございますが——」

 糸子が、日本語で言った。その後、英語で続けた。

 「This is based on information I have received — I cannot fully verify its accuracy — but I believe you should be aware of it.」

 (これは私が受け取った情報に基づいています——その正確さを完全に確認することはできません——しかし、あなたはこれを知っておくべきだと思います)

 「I have heard that Britain is currently considering a direct approach to Japan.」

 (イギリスが現在、日本への直接的なアプローチを検討していると聞いています)

 ハリスが、少し前に傾いた。

 「According to what I have heard — Britain believes that if the negotiations between America and Japan fail to reach a conclusion, there is an opportunity for Britain to step in.」

 (私が聞いたところによれば——イギリスは、アメリカと日本の交渉が結論に至らない場合、イギリスが介入する機会があると考えているそうです)

 「And the terms Britain is apparently prepared to offer——」

 (そしてイギリスが提示する用意があるとされる条件は——)

 糸子が、一拍置いた。

 「Are significantly more favorable to Japan than what America is currently offering.」

 (アメリカが現在提示しているものよりも、日本に対してはるかに有利なものです)

 「イギリスとしては、アメリカが一方的な条件で先に条約を結んでしまうよりも、日本との最初の条約を自国が結ぶ方が戦略的に有利と考えているようで」

 糸子が日本語を混ぜながら続けた。

 「Britain is willing to include genuine reciprocity, a meaningful revision clause, and fair exchange rates — from the start. Because Britain wants to demonstrate that it is a more trustworthy partner than America.」

 (イギリスは最初から、真の相互主義、意味のある改正条項、公正な交換レートを含める用意があります。なぜならイギリスはアメリカよりも信頼できるパートナーであることを示したいからです)

 会場が——静まった。

 ハリスの顔が、変わった。

 これまでの会談の中で、ハリスは何度か感情的になった。しかしその度に、自分を制してきた。

 しかし今——ハリスの顔が、赤くなっていた。

 ゆっくりと、しかし確実に。

 「……Britain is prepared to offer that?」

 (……イギリスはそれを提示する用意があると?)

 「That is what I have heard.」

 (それが私が聞いたことです)

 「When did you hear this?」

 (いつそれを聞きましたか?)

 「Recently. I cannot reveal the source, I'm afraid.」

 (最近です。残念ながら情報源は明かせません)

 ハリスが、机の上に拳を置いた。

 「Damn it——」

 (クソッ——)

 小さな声だった。しかし——はっきりと聞こえた。

 ヒュースケンが「Harris-san!」と止めた。

 ハリスが、短く深呼吸した。感情を収めようとした。しかし——顔の赤みが消えなかった。

 幕府の担当者たちが、互いに顔を見合わせた。

 岩瀬が少し前に出た。

 「イギリスが……そのような?」

 岩瀬は、内心で驚いていた。幕府の担当者たちが——全員が「えっ?」という顔をした。

 そんな話は聞いていない。しかし——もしそれが事実なら、今日の交渉の意味が全く変わってくる。

 (本当に、そのような話があったのか?)

 「Limeys!——」

 (イギリスめーー)

 ハリスが、低く言った。

 「told Japan that?」

 (日本にそれを伝えた?)

 「As I said — I cannot verify it,」

 (わたくしのお聞きした話ではそのようなことでしたが)

 「It may be inaccurate.」

 (不正確かもしれません)

 糸子が穏やかに言った。

 「However — if there is even a possibility that Britain is preparing to approach Japan with more favorable terms——」

 (しかし——もしイギリスが日本により有利な条件でアプローチする準備をしているという可能性があるなら——)

 「Mr. Harris, this would affect the calculations on both sides of this negotiation.」

 (ハリス殿、これはこの交渉の双方の計算に影響を与えるでしょう)

 御簾の向こうで——糸子は、静かに座っていた。

 一切動じていなかった。


二 ハリスの爆発と崩壊

 ハリスが——机を叩いた。

 小さく。しかし確実に。

 「Damn it——」

 低い声だった。しかし、その言葉が会場に響いた。

 「Harris-san!」

 (ハリス氏)

 ヒュースケンが、即座にハリスの腕に手を置いた。

 「Compose yourself.」

 (落ち着いてください)

 ハリスが、少し深呼吸した。

 しかし——顔の赤みは消えなかった。

 糸子は一切動じないでいた。

 声も、姿勢も、気配も——何も変わっていなかった。

 (不動——この姫様は誰もその場から動かせない…)

 土方が壁際から見ていた。

 ハリスの爆発を見た。そして——その爆発に、微塵も揺れなかった御簾の向こうの少女を見た。

 (酷すぎる……)

 土方は内心で思った。

 (あの外見で、あの気品で——なんという腹黒さだ)

 ハリスが感情を収めようとした。

 深呼吸を一回した。書類に目を落とした。

 しかし——その手が、少し震えていた。

 これほどまでに動揺したハリスを、ヒュースケンは見たことがなかった。下田での孤独な年月、幕府との果てしない引き延ばし交渉——それらを通じて、ハリスは常に感情を制してきた。

「Britain's involvement——」

 (イギリスの関与は——)

 「Mr. Harris.」

 (ハリス氏)

 糸子が静かに言った。

 「I understand your reaction. This is unexpected information.」

 (あなたの反応は理解します。これは予期しない情報です)


 「Miss Konoe.」

 ハリスが、低い声で言った。

 「I will ask you directly. Is this Britain information accurate?」

 (率直にお聞きします。このイギリスの情報は正確ですか?)

 「As I said — I cannot fully verify its accuracy. It is information I received.」

 (申し上げたように——その正確さを完全には確認できません。私が受け取った情報です)

 「From whom?」

 (誰から?)

 「I cannot reveal that.」

 (それは明かせません)

 ハリスが、少し机に身を乗り出した。

「If Great Britain were truly prepared to proffer such terms—why has she not yet approached Japan? Your nation has been present in Asia for many years. Granted, you have been occupied with the affairs of the Qing Empire—yet, had you truly desired Japan, you surely would have taken action by now.」

(もしイギリスが本当にそれらの条件を提示する用意があるなら——なぜイギリスはすでに日本にアプローチしていないのですか? イギリスはアジアに何年もいます。清で忙しかったのは確かですが——もし本当に日本を望んでいたなら、動いていたはずです)

 「That is a fair point.」

 (それは公正なご指摘です)

 糸子が認めた。

 「Great Britain is currently engaged in the Arrow War within the Qing Empire. This has, for the time being, constrained our capacity to involve ourselves with Japan. However, the conflict in the Qing Empire will not endure forever. When Britain’s attention inevitably shifts—」

 (イギリスは清でのアロー戦争に従事しています。それが日本との関与能力を制限しています。しかしアロー戦争は永続しません。イギリスの関心が転換するとき——)

 「Then Britain will come to Japan.」

 (イギリスは日本に来るでしょう)

 ハリスが、少し黙った。

 その沈黙の中で——何かが動いた。

「The Arrow War... It is true that Great Britain is currently occupied with the Qing Empire. Yet, once that conflict reaches its end—」

 (アロー戦争。確かにイギリスは清に手を取られている。しかし、それが終われば——)

 ハリスは、この点については嘘をつかれていないと感じていた。イギリスがアロー戦争で忙しいこと、それが終われば日本に向かってくるだろうという予測——これは現実に即した分析だった。

 「Harris-san.」

 (ハリス氏)

 ヒュースケンが小声で英語で言った。

 「Even if the specific Britain information is uncertain — the underlying reality is not. Britain will eventually come to Japan. If we don't conclude this treaty now, on terms that are at least somewhat balanced, another power will step in.」

 (特定のイギリス情報が不確かだとしても——基礎となる現実は変わりません。イギリスはいずれ日本に来るでしょう。もし私たちが今、少なくともある程度バランスの取れた条件でこの条約を締結しないなら、別の列強が入ってきます)

 ハリスが——目を閉じた。

 数秒の沈黙があった。

 そしてハリスが目を開いた時、その顔は変わっていた。


 決断した顔だった。


三 条約の最終確認——糸子の要求が通る

 ハリスが、最終的に体制を立て直した。

 「Very well.」

 (承知いたしました)

 ハリスが言った。

 「Let me confirm what we have agreed to discuss further.」

 (さらに議論することに合意した内容を確認しましょう)

 ハリスが、書類を取り出した。

 「Let us finalize the language.」

 (文言を最終確認しましょう) 

 それからの交渉は、急速に進んだ。

 将来の改正条項の文言が確認された。

 「This treaty shall be subject to review by mutual agreement, upon request by either party, when circumstances have materially changed. Any revision shall require the consent of both parties.」

 (本条約は、状況が実質的に変化した場合、いずれかの当事者の要請により、相互の合意を得て見直されるものとする。いかなる改正も双方の同意を要するものとする)

 「Agreed.」

 (同意します)

 金銀比率の調整条項が確認された。

 「Gold and silver exchange shall be conducted at a rate reflecting prevailing international market rates. Significant deviations shall be addressed through mutual consultation and adjustment.」

 (金銀交換は現行の国際市場レートを反映したレートで行われるものとする。著しい逸脱は相互協議と調整によって対処される)

 「Agreed.」

 (合意します)

 相互の代表駐在権が確認された。

 「Both parties acknowledge the right of the other party to station consular representatives within the other country's territory, in accordance with the principle of reciprocity.」

 (双方は、相互主義の原則に従い、相手国の領土内に領事代表を駐在させる権利を相互に認める)

 「Agreed.」

 (合意します)

 そして——「永久和親」の原則の確認。

 「The first article of the Treaty of Peace and Amity between Japan and the United States — 'There shall be a perfect, permanent, and universal peace and a sincere and cordial amity between the United States of America on the one part, and the Empire of Japan on the other part' — this remains the foundation of all subsequent agreements.」

 (日本とアメリカ合衆国の間の和親条約の第一条——「アメリカ合衆国と日本の間には、完全で永続的かつ普遍的な平和と、誠実で真心からの友好がある」——これがすべての後続協定の基盤であり続けます)

 「Agreed.」

 (合意します)

 岩瀬が、記録係に目配せした。全ての合意事項が書き留められていた。

 幕府担当者の顔に——驚きと、興奮と、何か新しいものへの予感が混ざっていた。

 (これは——これまでとは違う条約だ)

 岩瀬は思った。

 (条約の中に「出口」が入った。将来、改正できる「扉」が入った。これは史実のままの条約とは違う)

 岩瀬がハリスに向いた。

 「本日はありがとうございました」

 森山通詞がオランダ語に訳した。

 「Dank u voor uw aanwezigheid vandaag.」

 (本日はご来席いただきありがとうございました)

 ヒュースケンが英語に訳した。

 ハリスが立ち上がった。

「Before I leave——」

(退席する前に——)


 ハリスが御簾に向かって言った。

 「May I ask one question?」

 (一つ質問してもよいですか?)

 「Please.」

 「You have demonstrated knowledge of international law, economic data, diplomatic history. Where did you learn all of this?」

 (あなたは国際法、経済データ、外交史の知識を示しました。これらすべてをどこで学んだのですか?)

  御簾の向こうで、糸子は少し考えた。

  そして——穏やかに答えた。

 「Books, Mr. Harris. I have read many books.」

 (書物です、ハリス殿。私は多くの書物を読んできました)

  「……I see.」

  (……そうですか)

  「And I have had excellent teachers.」

 (そして、優れた師を持ちました)

  ハリスが、少し頷いた。


四 会談終了——ハリスの退場

 会談が、終わった。

 岩瀬が形式的な締めの言葉を述べた。森山通詞が訳した。ヒュースケンが英語にした。

 ハリスが立ち上がった。礼をした。

 それは——今日の会談の最初の礼とは、違う礼だった。

 入ってきた時のハリスは、自信があった。長年の交渉経験と、アメリカという国の力を背後に持った自信が、その礼ににじんでいた。

 しかし——今の礼は、違った。

 何かを認めた礼だった。言葉では認めていない。しかし——礼の深さに、それが出ていた。

 ヒュースケンも礼をした。

 幕府側の担当者たちが礼をした。

 実光が礼をした。村田蔵六が深く頭を下げた。

 ハリスが退場しようとした時——もう一度だけ、御簾の方を見た。

 その目に、何かがあった。

 怒りではなかった。屈辱でもなかった。

 ——驚きだった。

 純粋な、驚きだった。

 十二歳の公家の姫君が、ここまでやってのけたことへの。

 ヒュースケンが最後に御簾の方向を一度だけ見た。その目に——敬意に似た何かがあった。

 通訳として、あれほどの言語と論理を扱える人間を、ヒュースケンはほとんど見たことがなかった。英語の精度。議論の構造。間の使い方。そして——三ヶ国語を同時に理解しながら、誤訳を一つ一つチェックしていたであろうその集中力。

 「Miss Konoe.」

 (近衛氏)

 ヒュースケンが、小声で言った。

 「It was an honor.」

 (このような機会をいただき、光栄でした)

 御簾の向こうから、糸子の声がした。

 「Thank you for coming, Mr. Heusken. I hope we will speak again.」

 (ヒュースケン氏、お越しいただきありがとうございました。またお話しできるのを楽しみにしています)

 ヒュースケンが——わずかに微笑んだ。

 その目を御簾から離した。

 それからハリスの後を追って、退場した。

 会場の扉が閉まった。

 静かになった。


五 「おほほほほーーー」

 扉が閉まって、しばらくした後。

 会場から、アメリカ側が完全に退出した。

 部屋に残ったのは、日本側の全員だった。

 しばらくの沈黙があった。

 その沈黙を破ったのは、岩瀬だった。

「……近衛様」

 岩瀬が御簾に向かって言った。

「本日は、大変なお役目、誠にありがとうございました」

「いいえ、皆様のおかげでございます」

 御簾の向こうから、糸子の声がした。穏やかだった。

「……あの、一点、お聞きしてもよろしいですか」

 岩瀬が少し前に出た。その顔に、複雑なものが浮かんでいた。

「なんでしょう」

「イギリスが日本に対してそのようなことを申していたとのことでしたが——初めてお聞きしました」

 岩瀬が、穏やかに、しかし直接に聞いた。

「イギリスが日本に対して、そのような条件を提示する用意があると——本当にそのような話がございましたので?」

「幕府はそのような連絡を受けておりません。いつ、どの経路で、近衛様はそのような話をお聞きになったのでしょうか」

 部屋の空気が、少し変わった。

 幕府の担当者全員が、御簾を見た。

 御簾の向こうで——糸子が、一拍置いた。

「わたくしのお聞きした(強調)お話ではそのようなことでしたが——」

 糸子が、穏やかに言った。

「もしかしたら間違っているかもしれませんわね」

 そして——

「おほほほほほほほほーーーーーーーーー」

 笑い声が、御簾の向こうから来た。

 高い、品の良い笑い声だった。しかし——その笑いの中に、何か別のものが混ざっていた。

 岩瀬が固まった。

 幕府担当者たちが固まった。

 実光が、少し視線を下げた。

 村田蔵六が——わずかに微笑んだ。この師は、弟子の全てを理解していた。

 壁際に控えていた土方が、その「おほほほほ」を聞いた。

 土方の顔が、少し引きつった。

 しばらく何も言えなかった。

 それから、近藤のそばに来て、小声で言った。

「絶対に姫様の嘘だ」

「……」

「面の皮が厚いなんてもんじゃないぞ……」


六 土方の最終観察——伝説の幕

 壁際の土方と近藤の間で、静かな会話があった。

「どう見た」

 近藤が聞いた。

「……刀で人を斬るのと、言葉で人を潰すのと」

 土方が言った。

「どちらが恐ろしいか、分かったような気がする」

「どちらだ」

「言葉だ」

 土方が静かに断言した。

「刀で斬れば、相手に傷が残る。そして相手は刀を持った自分を恐れる。しかし——言葉で潰されると、相手は自分が何に負けたかを理解できない。しかもその後も、どこで何が証拠として使われるかが分からない」

「ハリスは、今頃何を考えているだろう」

「本国への報告が、書けない」

 土方が静かに言った。

「交渉は進展したと書ける。しかし得られた内容を正直に書けば、交渉能力を問われる。十二歳の公家の姫に主導権を握られたと書けば——外交官として終わりだ」

「それから——イギリスの話」

「あれは嘘だ。確実に」

「なぜ分かる」

「あの話を聞いた時、岩瀬殿も知らなかった。幕府が知らないことを、朝廷の使者が知っているとしたら——あれほど重要な話が、朝廷から幕府への正式な連絡なしに動いているはずがない」

「では……」

「姫様が本物と嘘を使いこなした。どこで知った知識なのか、あるいは純粋な推測か——いずれにせよ、あれは計算された一手だ」

「恐ろしいな」

「ああ」

 土方が御簾の方を見た。

「この姫が——味方でいてくれていることは、この上ない幸いだ」

「敵に回したら——」

「考えたくもない」

 土方が断言した。

「この姫には決して逆らってはいけない。この姫の言葉は——剣よりも深く、相手の中に刺さる」

 近藤が、少し笑った。

「姫様を守ることが俺たちの役目だ。しかし——今日は、姫様の方が戦っておられた」

「ああ」

「俺たちには、その戦いは見えなかった」

「ああ」

「しかし——結果は見えた」

 土方が、もう一度御簾を見た。

「……刀で国を守る者と、言葉で国の形を変える者と——どちらも必要だ」


七 万次郎と村田の言葉

 会場から退出する時、万次郎が糸子の横に来た。

 女乗物に案内されながら、万次郎が小声で言った。

「ハリスの驚いた顔、見られましたよ」

 糸子が小さく笑った。

「あれほど驚いた顔は——久しぶりに見ました」

 万次郎が続けた。

「私がアメリカにいた時のハリスの評判は、『決して動じない男』というものでした。今日——初めて動じるところを見た」

「万次郎殿のおかげで準備ができました」

「いえ。準備したのは姫様です。私はただ材料を提供しただけです」

 村田蔵六が、少し遅れて近づいてきた。

「姫君様」

「村田殿」

「……お見事でございました」

 短い言葉だった。しかし——数年間、糸子を教えた村田の言葉だった。その重みは、誰の称賛よりも深かった。

「村田殿のお陰でございます」

「いいえ。私が教えたのは、言葉の道具だけです。今日あの場で使ったのは——姫様の頭と、心と、覚悟でした」

 村田が深く頭を下げた。

 糸子は、その頭を見た。

 目が、少し、熱くなった。


八 近藤の言葉——「勝ちましたね」

 女乗物に乗り込む前に、近藤が近づいてきた。

「姫様」

「はい」

「勝ちましたね」

 近藤が静かに言った。

「……少しだけ」

 糸子が答えた。

 近藤がわずかに笑った。

「某たちは外で守っていました。姫様は中で言葉で戦われていた」

「近藤殿と旭狼衛の皆様のおかげで、安心して戦えました」

「互いに守り合っています」

 近藤が言った。それは——かつての言葉の繰り返しだった。

 「いよいよ話は始まったばかりでございます」

 糸子が言った。

「しかし今日——条約の中に出口を作ることができた」

「出口?」

「改正条項。将来の見直しの権利。領事館設置の原則。それらが——今日の議論で、形になり始めました」

「それが——」

「後の世への贈り物です。今日のわたくしには、条約そのものを止める力はありませんでした。しかし——将来の人たちが、より対等な関係を作れるための扉を、少し開けることができたかもしれない」

 近藤が、糸子を見た。

 十二歳の少女の顔で——遠くを見ていた。

「それで十分でございますか?」

「十分かどうかは、百年後の人たちが判断します」

 糸子が言った。

「今日わたくしにできることは——全部やった。それだけです」


九 最後の瞬間

 女乗物に乗り込んだ。

 旭狼衛の面々が周囲を固めた。近藤が号令をかけた。

「これより出発致す!」

 女乗物が上がった。

 糸子は、駕籠の中で目を閉じた。

 今日の会談が、頭の中を流れた。

 一言一言が。一つ一つの間が。ハリスの顔が。ヒュースケンの目が。岩瀬の頷きが。幕府の記録係が書き留めていた手が。

 (条約を止めることはできなかった)

 糸子は静かに思った。

 (しかし——条約の中に出口を作ることができた)

 (その出口は、後の世への贈り物だ)

 女乗物が、春の江戸の街を進んでいった。

 梅の花が散り始めていた。桜の季節が近づいていた。

 この時代の春が、糸子の周りに流れていた。

 転生してから、十二年…

 この国の百年先を、考え続けてきた。

 その考えが——今日、少しだけ、形になった。

 駕籠の外で、近藤が歩いていた。土方が歩いていた。旭狼衛の面々が、春の江戸の道を進んでいた。

 この日の交渉が、ハリスという人物の江戸での日々に、長い影を落とすことになる——

 糸子はそれを、まだ知らなかった。

 しかし——知っていたとしても、同じことをしただろう。

 相互主義。対等な関係。この国の百年先。

 その三つを、忘れなかったから。


 その夜、一橋藩上屋敷の奥御殿で、糸子は帳面を開いた。

 今日の対話を記録した。

 「相互主義の論理は通じた。ロシアの先例を使ったことで、ハリスが自分の言葉で反論できない状況を作れた」

 「アヘン禁止条項の明文化に合意させた」

 「金銀比率の将来的な見直し条項に合意させた」

 「領事裁判権の将来的な見直し条項に合意させた」

 「日本のアメリカへの領事設置——これは想定以上の成果だ」

 「そして——」

 糸子は少し考えてから書いた。

 「イギリスカードについて。これは嘘だ。正直に言えば、転生前の知識で…史実のイギリスとアメリカの関係、両国の動きや考えを知っていた。だからイギリスがすぐに動く用意がある、日本にとってより有利な条約条件という嘘を混ぜて、さも確認した事実のように話した。正確には『わたくしのお聞きした話(強調)』という表現を使って、この話自体を曖昧なものにしたけれど——」

 少し間を置いて。

 「反省はしていない。交渉には効いたので…」

 糸子は筆を置いて、窓の外を見た。

 江戸の夜は、にぎやかだった。

 遠くから、まだ三味線の音が聞こえてきた。

 「ハリスは本国に今日の交渉をどう報告するだろう。想定外の相手に主導権を握られた。御簾の向こうの十二歳の公家の姫に。英語で、国際法で、数字で、そしてイギリスカードで」

 「本国への報告書が書けないだろうなぁ。書けば自分の交渉能力を問われちゃう…」

 「その問いが、ハリスの次の動きを縛る」

 帳面を閉じた。

 縁側の外で、近藤が夜番についていた。

 その背中に向かって、糸子は小声で言った。

 「近藤殿」

 「はい」

 「今日は、心より御礼申し上げます」

 「俺たちは何もしていません」

 「いいえ。背中を守っていてくれました。それがあったから、わたくしは前だけを向いていられました」

 近藤がしばらく黙った後、言った。

 「姫様」

 「はい」

 「今日の対話を、旭狼衛の誰かが後から見ていたとして——何を伝えますか」

 糸子は少し考えた後、答えた。

 「……刀を持たなくても、戦える。しかし刀を持つ人間が守っていてくれるから、言葉だけで戦える。その二つが揃って初めて、今日のことが成り立った」

 近藤が静かに頷いた。

 「では、これからも両方揃えます」

 「はい。よろしくお願いします」

 江戸の夜が深まった。

 遠くで鐘が鳴った。

 今日、種が蒔かれた。

 将来の改正条項という種。相互主義という種。日本の領事設置という種。そしてイギリスカードが植え付けたハリスの焦りという、少し悪い種。

 それらがいつか芽を出す。

 近衛糸子は帳面をもう一度開いて、最後に一行書いた。

 「言葉で国を守る日は、今日だけではない。これからも、ずっと続く…」


十一 ハリスの一夜——長い影

 その夜、ハリスは別室で一人、日記を書いていた。

 蝋燭の光が、机を照らしていた。

 ペンが、紙の上を動いた。

 「Today's session was... unlike anything I have experienced in Japan. A representative of the Imperial Court — a child of twelve — spoke to me in English. In perfect English. And proceeded to dismantle every argument I presented.」

 (今日のセッションは……日本で経験したどんなものとも違った。宮廷の代表者——十二歳の子供——が英語で私に話しかけた。完璧な英語で。そして私が提示したすべての議論を崩していった)

 ハリスは、ペンを止めた。

 今日の会談の一つ一つが、頭の中を流れた。

 ヴァッテルの引用。金銀比率の数字。アヘン貿易への言及。モンロー主義の逆用。御門様の権威。そして——最後のイギリスの話。

 「I cannot confirm the Britain information. But even if it was fabricated — it was masterfully deployed. The uncertainty itself became a weapon.」

 (イギリスの情報を確認することはできない。しかしそれが作られたものだったとしても——それは見事に使われた。不確実性自体が武器になった)

 ハリスが、ペンをまた動かした。

 「What do I report to Washington? That I concluded an agreement — but with revision clauses and adjustment mechanisms that I had not planned to include? That I agreed to Japan having representation in America?」

 (ワシントンに何を報告するのか? 協定を締結した——しかし計画していなかった改正条項と調整メカニズムを含めた? 日本がアメリカに代表を置くことに同意した?)

 「And that the party primarily responsible for these concessions was a twelve-year-old girl behind a bamboo screen.」

 (そして、これらの譲歩に主として責任がある当事者は、竹の簾の後ろにいた十二歳の少女だった)

 ハリスが、ペンを置いた。

 蝋燭の光が、揺れた。

 「This day will cast a long shadow over my time in Japan.」

 (この日は、私の日本での日々に長い影を落とすだろう)

 ハリスが、その一文を書いた。

 そしてページを閉じた。


十二 春の江戸へ

 安政七年の春――

 江戸はまだ冬の名残を袖にとどめながらも、確かにやわらかな息を吹き返しつつあった。

 一橋藩上屋敷の奥御殿は、外界の喧騒から切り離されたように静まり返っている。長く磨き込まれた廊は、淡く差し込む陽に照らされて、まるで水面のようにほのかな光を揺らしていた。

 庭には、まだ満ちきらぬ桜が、ほころびかけた蕾をひそやかに開きはじめている。枝の先に宿る淡紅は、遠目には霞のようにも見え、風が渡るたびに、わずかな花びらが時を待ちきれずに落ちていった。


 奥御殿の一室。

 障子越しの光はやわらかく、畳の上に淡い影を描いている。室内には、香の匂いがかすかに漂い、春の湿り気を帯びた空気と溶け合っていた。

 座して庭を眺める者の姿がある。動かぬその背は、静寂と同じ重さを持ち、ただ時だけがそっと流れていく。

 遠く、鶯が一声鳴いた。まだ拙い調べであったが、その声は確かに春の訪れを告げている。

 その瞬間、風がふと強まり、庭の桜がわずかに揺れた。

 散り急ぐには早すぎる花びらが一枚、二枚と宙に舞い、やがて障子に触れて、音もなく滑り落ちる。

 その様を見つめながら、座する者は何を思うのか。

 変わりゆく世の兆しを感じているのか、それともただ、この束の間の静けさに身を委ねているのか。

 江戸の空の下では、すでに時代の歯車がきしみを上げていた。

 だがこの奥御殿においては、その響きさえも遠く、まるで別の世の出来事のようにかすんでいる。

 春は、いつも同じように訪れる。

 しかし、その春を迎える人の心は、決して同じではない。

 静けさの奥に、わずかな予感があった。それはまだ形を持たぬ、不確かな影のようなもの――

 やがて来る変化を、誰よりも早く知るかのように、庭の桜だけが、ひと足先にその身をほどきはじめていた。

 (屋根を直すことから始めた)

 糸子は思った。

 (九歳の時、屋根が雨漏りしていた近衛家から、全てが始まった)

 商売を始めた。天朝物産会所を作った。御門様の信頼を得た。英語を学んだ。旭狼衛を作った。堀田との連絡網を築いた。島津斉彬と対話した。南海路を渡って江戸に来た。刺客に襲われた。井伊が消えた。そして——今回は自分から言葉で戦った。

 全部、繋がっていた。

 「ならば参りましょうか…」

 会談の前に、御簾の内で自分に言った言葉が、頭の中に戻ってきた。

 春の江戸の空気が、窓から入ってきた。梅の香りが、かすかにあった。

 やるべきことが、まだあった。

 後継者問題は続く。条約の正式調印は別の段階だ。堀田との関係を続けながら、朝廷への報告を準備しなければならない。

 そして——ハリスという人物に、今回の交渉が長い影を落とすことになる。その影が、どのような形を取るか。それはまだ、先の話だ。

 しかし糸子は——少しだけ、目を閉じたまま笑っていた。

 小さく。

 静かに。


 「うけけけけーーーーーっ」


 ほんの少しだけ、声に出た。

 外から聞こえたかもしれない。

 誰かがその笑い声を聞いていたかもしれない。


 春の江戸の空は、高く澄んでいた。


 第五十五話 了

第五十五話「ハリスVS糸子 舌戦⑤」…もう三回くらい書き直しました。正直に言って、書いている途中から訳が分からなくなってきました。


とりあえずこれで勘弁してくださいm(*T▽T*)m オ、オユルシヲ・・・


ちなみにこのあとは…一話挟んでハリス氏は糸子のせいで大変なことになります(ノД`)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
なるほど、これが悪魔姫か
ハリスとの会談、着地成功しましたね。お疲れさまでした。 楽しめました。ありがとう。そこで、 ★を5つに格上げさせていただきました。 この後も、期待しております。
3回書き直しお疲れ様でした。 読みごたえありました。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ