第五話「情報という名の商い」
善次郎が京都に戻ってきたのは、それから半月ほど後のことだった。
父親の善兵衛が京都の出店に立ち寄るのに合わせて連れてこられた形で、善次郎だけが近衛家に残り、父親は出店に向かった。前回と同じ段取りだ。
しかし今回の善次郎は、前回とは少し様子が違った。
座敷に入ってきた瞬間から、何かを早く伝えたそうな気配がある。目が落ち着かない。手に持っている風呂敷の結び目を、何度も確かめている。
糸子は善次郎が座るのを待ってから言った。
「何か持ってきましたか」
「はい」
善次郎が風呂敷を解いた。
出てきたのは、品物ではなかった。
一枚の書き付けだった。
糸子はそれを受け取って、広げた。
細かい字で、びっしりと何かが書いてある。
「これは善次郎が書きましたか」
「はい。江戸で聞いたことを、忘れないうちに書き留めました」
「全部読みます。少し待って頂戴」
糸子は書き付けを丁寧に読み始めた。
読み進めるにつれ、糸子の眉が微かに動いた。
内容は、善次郎が松屋の江戸本店で客と接した時に聞いた話だった。大名の奥方様方、旗本の奥向きの方々、富裕な町人の女将……様々な立場の人間が、善次郎に話しかけてきたことが丁寧に書き留めてある。
その内容が、糸子の予想を外れていた。
品物の話が、ほとんどない。
代わりに書き留めてあるのは、別の種類の「欲しいもの」の話だった。
糸子は書き付けを読み終えて、少しの間黙った。
それから善次郎を見た。
「江戸の大名の奥方様方が一番欲しがっておられたのは、物ではありませんでしたか」
善次郎が大きく頷いた。
「はい、姫君様。その通りでございます。最初は驚きました。うちは呉服商でございますから、着物や帯の話が出ると思っていたのでございますが……お客様方が話したかったのは、全然別のことで」
「どのような話ですか」
「どこの藩が今どう動いているか。幕府がどのようなことを考えているか。御所がどのような様子か。諸国で何が起きているか……そういう話を、みなさまが知りたがっておられました」
ちょうどその時、村岡が近衛家にやってきた。
今日は帳面確認の日ではなかったが、糸子が事前に「善次郎が江戸から戻る日に来て頂戴」と伝えておいた。
村岡が座敷に入ってきて、善次郎の持ってきた書き付けを糸子が手にしているのを見た。
「姫君様、善次郎殿がお戻りで」
「ちょうどよかった。村岡にも聞いてほしいことがあります。座って頂戴」
村岡が座った。
糸子は書き付けを村岡に渡した。
村岡が読み始めた。
読み進めながら、村岡の表情が少しずつ変わっていった。
読み終えた後、村岡が静かに言った。
「……これは、情報でございますね」
「そうです」
「品物より、ずっと高く売れるものでございます」
糸子は頷いた。
善次郎が二人を見比べた。
「姫君様、村岡様、何かお気づきになったのでございますか。わたしはただ、お客様が話されていたことを書き留めただけで……何がそんなに」
糸子は善次郎を見た。
「善次郎、江戸で聞いた話の中で、一番多く出てきた話題は何でしたか」
「……御所のことでございます。御所が今どのような様子か、御門様がどのようなお考えをお持ちか、公家の方々がどのように動いておられるか……そういうことを、特に大名の奥方様方が知りたがっておられました」
「なぜだと思いますか」
善次郎が考えた。
「江戸と京都は遠うございます。御所のことは、なかなか正確な話が伝わってこないのだと思います。噂は来るのでございますが、本当のことかどうか分からない。正確な話が聞けるなら、お金を出しても知りたいと仰っている方もおられました」
「具体的にはどなたが」
善次郎が少し躊躇した。
「それは……お名前を申し上げてよいものかどうか」
「ここで聞いたことは外に出しません。話して」
善次郎が頷いた。
「加賀藩の御用を務めているお方が、特に熱心でございました。加賀様は百万石の大藩でございますから、京都の動きには敏感でいらっしゃるようで。それから彦根藩の奥向きに出入りしているお方も……」
糸子は内心で眉を上げた。
彦根藩。
井伊家だ。
前世の知識が、その名前に反応した。
井伊直弼。安政の大獄を主導し、桜田門外の変で暗殺される幕末の重要人物だ。今はまだその時代ではないが、彦根藩が御所の動向に関心を持っているという事実は、頭に入れておく必要がある。
「他にはどのような話題が出ましたか」
「南蛮の国々についての話も多うございました。異国船がたびたび日本の近海に現れているという話は江戸でも広まっておりまして、それが実際にどれほどの脅威なのか、幕府はどのように対処しようとしているのかを知りたいとおっしゃる方が多かったです」
「幕府の内部事情についての話は」
「それが一番難しゅうございました。幕府のことを知りたいのに、幕府に近い方々はその話をなさらない。むしろ幕府から遠い、外様の大藩の奥向きに出入りされているお方々が、幕府の動きを一番気にしておられるようで」
糸子は少しの間、黙って考えた。
村岡が静かに言った。
「姫君様、情報を商いにするということでございますか」
「そのことを考えています」
「しかし情報の商いは……難しゅうございます。間違った情報を売れば信用を失う。正しい情報でも、誰に売るかを誤れば問題になる」
「その通りです。だから慎重にやらなければなりません」
善次郎が少し不安そうな顔をした。
「姫君様、情報の商いとは、具体的にどのようなことでございますか。わたしにはまだよく分からなくて」
糸子は善次郎を見た。
「善次郎が江戸で聞いてきた話、覚えていますか。大名の奥方様方が御所の動きを知りたがっていた、という話」
「はい」
「なぜ御所の動きが知りたいのでしょう」
「それは……御所は天子様のおられる場所でございますから、何か大事なことが決まる場所であるからではないでしょうか」
「その通りです。そして御所に最も近い家の一つが、近衛家です」
善次郎がゆっくりと頷いた。
「つまり……近衛様は、他の誰よりも御所の動きを知っておられる」
「そうです。そしてその情報を求めている人たちがいる。ただし情報をそのまま売るわけにはいかない。御所の内情を売り物にするなど、あってはならないことです」
「では……どうなさるのでございますか」
「売るのは情報ではなく、つながりです」
善次郎と村岡が、同時に糸子を見た。
「御所に近い近衛家とのつながりを持つことで、大名家の方々は安心感を得られます。何かあった時に、信頼できる筋から正確な話が聞けるかもしれないという安心感。それが価値になります」
「つながりを、でございますか」
「品物の商いと同じです。品物を売る時、わたくしたちは品物だけを売っているわけではない。近衛家のお墨付きという信頼を一緒に売っています。情報も同じで、情報そのものを売るのではなく、信頼できるつながりを売る」
村岡が少し考えてから言った。
「姫君様、そのつながりを持つことで、相手から何を得るのでございますか。お金でございますか」
「お金のこともあります。しかしそれ以上に、相手の情報を得られます」
「相手の情報を」
「大名家の奥向きが御所の動きを知りたがっているということは、大名家の考え方や動きを、こちらが知ることができるということでもあります。つながりとは、一方通行ではない。双方向に情報が流れる経路です」
村岡が静かに頷いた。
「情報の網、でございますね」
「そう言ってもいいかもしれません」
糸子は少し間を置いてから、二人を見た。
「ただし、これは今すぐ始めることではありません」
「なぜでございますか」糸子が急に慎重になったことに、善次郎が驚いた顔をした。
「近衛家の商売はまだ始まったばかりです。御所御用達の称号もまだ得ていない。その段階で、情報のつながりを売るなど、早すぎます。器が整っていないうちに、大きな水を入れようとすると、こぼれます」
「器が整う、というのは」
「御所御用達の称号を得て、京都と大坂と江戸の三つの場所に確かな取引の実績ができて、近衛家の商売が信頼に値するものだと広く認められてから、初めてその話ができます」
村岡が頷いた。
「順番、でございますね」
「そうです。焦ると崩れます」
善次郎が少し悔しそうな顔をした。
「では今回江戸で聞いてきた話は、まだ使えないということでございますか」
「今すぐ使うわけにはいかない。しかし無駄ではありません」
「どういうことでございましょうか」
「今分かったことは、江戸の大名家の奥向きが情報を求めているということです。その需要があると知っていれば、こちらがその需要に応えられる器を整える目標が明確になります。何のために御所御用達の称号を得るか、何のために江戸に販路を広げるか、その先にある目標が見えました」
善次郎の顔が変わった。
「……なるほど。江戸での話は、地図の一部でございますね。まだ行けない場所だけど、そこが地図に載った」
「上手い言い方ですね」
善次郎が少し照れた。
「父がよく、商売は地図と同じだと申します。行ったことのない場所でも、地図に載っていれば道を考えられる。地図に載っていなければ、道を考えることもできない」
「松屋さんは良い商人ですね」
「でもわたしには、まだその地図が小さゅうございます」
「今日、少し広がりました」
善次郎が顔を上げた。
「そうでございますね」
村岡が静かに言った。
「善次郎、よく聞いてこられました。わたくしでは、あのような話は引き出せなかったと思います」
「村岡様でも、でございますか」
「わたくしは御所の中におりますから、外の方々がどのようなことを話したがっているかを、直に聞く機会がございません。善次郎殿は商売の現場で自然にそれができる。そこは、わたくしには真似できないことでございます」
善次郎が村岡をじっと見た。
「村岡様がそのようなことを仰ってくださるとは思いませんでした」
「なぜでございますか」
「なんとなく……村岡様は、わたしのことをあまり評価しておられないのかと思っておりました。算術も村岡様のほうが速いし、帳面の読み方も」
「算術と帳面の読み方は、わたくしが得意なだけでございます。善次郎が得意なことは、別のところにある。それだけのことでございます」
善次郎がしばらく村岡を見ていた。
それから、頭を下げた。
「村岡様、今後ともよろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
糸子は二人のやり取りを見ながら、帳面に目を落とした。
ここに居る三人が、それぞれに違う強みを持っている。
村岡は数字と御所の内側の感覚を持っている。善次郎は商売の現場と江戸の空気感を持っている。そして糸子は全体の地図と、前世の知識を持っている。
この三つが揃えば、単純な商売を超えたことができる。
少し間を置いてから、糸子は話を変えた。
「善次郎、江戸で他に気づいたことはありますか。書き付け以外で」
善次郎が少し考えた。
「……一つ、気になったことがございます」
「聞かせて頂戴」
「松屋の江戸本店に、南蛮の品を持ち込んで売ろうとしている方がおりました。長崎から来たお方で、オランダ商館を通じて手に入れた品だとおっしゃっていました」
「どのような品でしたか」
「ガラスの器と、時計と、それから……布でございます。南蛮の布は、なんとも不思議な模様でして。わたしには何の模様か分からなかったのでございますが、珍しいということで、かなり高値がついておりました」
糸子は少し考えた。
南蛮の品が長崎から江戸に入ってきている。それ自体は当然のことだ。オランダ商館との貿易は幕府が管理しているが、その品が国内を流通することは普通に行われている。
「その方の名前は分かりますか」
「分からなかったのでございますが……父の番頭さんが知っているかもしれません」
「今度確かめてきてください。急がなくて構いません」
「分かりました」
村岡が言った。
「姫君様、南蛮の品に関心をお持ちでございますか」
「持っています。理由は二つあります」
「聞かせていただけますか」
「一つは、今後外国との直接の商いを考える時、どのような品が日本に入ってきているかを知っておく必要があるからです。もう一つは……」
糸子は少し間を置いた。
「外国の品がどのような経路で日本に入ってきているかを知ることは、逆に日本の品をどのような経路で外国に出せるかを考える材料になります」
村岡が目を細めた。
「外国に、でございますか」
「まだ先の話です。しかし考えておく価値はあります」
「姫君様は、いつもずいぶん先のことまでお考えでいらっしゃるのですね」
「先を考えていないと、目の前のことしかできなくなります。目の前のことだけでは、いつかどこかで行き詰まります」
昼を過ぎた頃、お梅が昼餉を運んできた。
三人が食事をしながら、自然と話が続いた。
善次郎が箸を置いて言った。
「姫君様、一つお聞きしてよろしゅうございますか」
「何ですか」
「近衛家の御商売は、最終的にどこまで大きくなるのでございますか」
糸子は少し考えた。
「どこまで大きくするかではなく、何のために大きくするかです」
「何のために……でございますか」
「商売を大きくすることは目的ではなく、手段です。目的は別にあります」
「それは……屋根の次のことでございますか」
善次郎が笑いながら言った。一話目の「屋根を直したかった」という言葉を覚えているのだろう。
「そうです。屋根は直りました。次は……」
糸子は少し間を置いた。
どこまで話すか、考えた。
村岡と善次郎は、今は近衛家の手伝いをしてくれている。しかしまだ出会って間がない。どこまで信頼していいか、まだ測り切れていない部分がある。
しかし、あまりに曖昧なままでは、二人がこちらの意図を理解できない。
理解できなければ、動けない。
糸子は決めた。
「近衛家の商売を通じて、この国が外国に食い物にされないための備えをしたいと思っています」
善次郎が目を丸くした。
「外国に食い物に……それは、どういうことでございますか」
「南蛮の国々がこの国に近づいてきています。異国船が近海に現れているという話は、善次郎も江戸で聞いてきましたね」
「はい」
「彼らは商売のためにやってきます。しかし商売の形をした、別のことを考えている場合があります」
「別のこと……」
「唐土の清朝が、英吉利国との間で大きな争いを起こしたことは、聞いたことがありますか」
「阿片の話でございますか。父が少し話しておりました」
「その争いで、清朝は負けました。大国でありながら負けた。なぜか分かりますか」
善次郎が考えた。
「……準備が足りなかったから、でございますか」
「相手のことを知らなかったからです。相手がどれほどの力を持っているか。どのように戦うか。どのような目的を持っているか。それを知らないまま向き合ったから、負けた」
「では……姫君様は、その準備をなさりたいということでございますか」
「準備と、それから……この国が外国と向き合う時に、対等に話せる立場を作りたい。一方的に言いなりにならないための、力を持っておきたい」
村岡が静かに言った。
「その力が、商売から生まれると」
「お金がなければ何もできません。情報がなければ判断できません。人のつながりがなければ動けません。商売はその三つを同時に作る方法です」
しばらく沈黙があった。
善次郎が、ゆっくりと言った。
「……わたし、そんな大きなことを考えておられるとは思っていませんでした」
「屋根を直したいというのも本当のことです。両方本当のことです」
「両方……」
「小さなことと大きなことは、矛盾しません。屋根を直すことと、この国を守ることは、同じ方向を向いています。目の前のことを丁寧にやることが、大きなことにつながる。そうでなければ、大きなことなど言っても意味がない」
村岡が頷いた。
「姫君様のなさっていることが、少し分かってまいりました」
「少しで十分です。全部分かる必要はありません」
「なぜでございますか」
「全部分かってしまったら、わたくしの言う通りに動くだけになります。それでは意味がありません。村岡と善次郎がそれぞれの場所で自分で考えて動くから、わたくしには見えないものが見えてくるのです。今日の善次郎の書き付けのように」
善次郎が顔を上げた。
「わたしの書き付けが、役に立ちましたか」
「大いに役立ちましたよ」
「よかった……」
善次郎が少し安堵したような顔をした。
夕方になって、善次郎が帰ることになった。
帰り際に、糸子は一つ伝えた。
「善次郎、次に江戸に戻る時、もう一つ確かめてきて」
「なんでございましょう」
「江戸の本屋に、海外の事情を書いた本があるかどうか。南蛮の国々のことを書いた書物、あるいは唐土から来た世界地図のようなものがあれば、手に入れてきて」
「本屋に、そのような品が」
「あるかどうか確かめるだけで構いません。あれば値段を聞いてきて頂戴」
善次郎が頷いた。
「分かりました。探してみます」
「それから」糸子は続けた。「松屋さんの江戸本店で、これからも時々お客様の話を聞いてきてください。今回のような書き付けを、また持ってきてほしいのです」
「それは喜んでいたします。しかし……わたしの聞き方で、お役に立てているのでしょうか」
「十分です。善次郎は聞き上手です」
「そのようなことを言っていただいたのは、初めてでございます」
「父上に聞き上手だと言われたことはありませんか」
「ございません。しゃべれと言われるばかりで」
「松屋さんのやり方が間違っているわけではありません。しかし商売の場によって、しゃべることより聞くことが大事な時がある。それを善次郎は自然にできています」
善次郎が深く頭を下げた。
「ありがとうございます、姫君様」
村岡は善次郎が帰った後も、少しの間残っていた。
糸子が帳面を整理していると、村岡が静かに言った。
「姫君様、一つお聞きしてよろしゅうございますか」
「なんですか」
「姫君様が仰った、外国に食い物にされないための備えというお話……御所のどなたかにも、そのようなことをお伝えになるおつもりでいらっしゃいますか」
糸子は手を止めた。
「なぜそれを聞きますか」
「御所の中に、外国のことを心配しておられる方がいらっしゃいます。わたくしが耳にした話でございますが……御門様も、異国船のことをお気にされているとお聞きしました」
糸子は村岡を見た。
「御門様が」
「はっきりとしたことは分かりません。ただ、女官の方々が話しているのを耳にしました。御所の中の空気が、少し変わってきているようで」
糸子は少し考えた。
御門様が異国船を気にされている。
それは前世の知識とも合っている。孝明天皇は攘夷の意識が強かった。外国との接触を嫌い、開国に強く反対したことが史料に残っている。
しかしそれはまだ先の話だ。今はまだ、御所の中でその問題が表立って動いている段階ではない。
「村岡、それを聞いた時、どのように感じましたか」
村岡が少し間を置いた。
「……御所の中にいると、外の世界のことが見えにくゅうございます。姫君様がお話しくださることを聞いていると、外の世界が少しずつ見えてくる気がいたします。そのたびに、御所の中だけで考えていたことが、いかに狭いかを感じます」
「それは大事な気づきです」
「しかし御所の外に出ることは、なかなかできません。だから姫君様のお話を聞くことが、わたくしにとっての外の窓でございます」
「村岡が御所の内側を見ていて、善次郎が江戸の現場を見ている。二人から話を聞くことで、わたくしも見えていなかったものが見えてきます。窓は、わたくしにとっても同じです」
村岡がじっと糸子を見た。
「姫君様もお分かりにならないことが、おありなのでございますか」
「たくさんあります」
村岡が少し驚いた顔をした。
「姫君様のお話は、いつも確信を持っておられるように聞こえます」
「確信を持って話すことと、全部分かっていることは別のことです。分からないことがあっても、分かっていることを確信を持って話さないと、相手に伝わらない。だから確信を持って話します。しかし分からないことは、分からないと思っています」
「それは……難しゅうございます」
「慣れます」
村岡が小さく笑った。
糸子は少し驚いた。
村岡が笑ったのを、初めて見た気がした。
「村岡、笑いますか」
「……姫君様が『慣れます』とさらりと仰るのが、おかしくて…」
「おかしいですか」
「はい。難しいことを難しいと仰らないで、慣れると仰るところが」
「難しいと言っても、難しさは変わりません。慣れると言えば、慣れる方向に動けます」
村岡がまた少し笑った。
「姫君様のそういうところ、わたくしは好きでございます」
「お梅にも同じことを言われました」
「お梅様は目が高うございます」
糸子は帳面を閉じた。
「村岡、今日もありがとう。気づいたことがあれば、いつでも知らせて頂戴」
「はい、姫君様」
村岡が立ち上がりかけて、ふと振り返った。
「姫君様、御所の中でも、姫君様のようにお考えになれる方が増えれば、何かが変わるのでしょうか」
糸子は少し考えた。
「変わります。一人が考えるより、十人が考えるほうが、見えるものが増える。見えるものが増えれば、判断が良くなります」
「では……わたくしが御所の中で、少しでもそういう方を増やすことはできますでしょうか」
「できます」
「どのようにすれば」
「村岡が今日ここで気づいたことを、御所に戻った時に、信頼できる方に少しずつ話していけばいいのです。全部一度に話す必要はない。一つずつ、ゆっくりと…」
村岡が頷いた。
「分かりました。やってみます」
村岡も帰った後、糸子は一人で帳面を開いた。
今日の収穫を書き込んでいく。
善次郎の書き付けから判明したこと。江戸の大名家奥向きが御所の動きと外国事情に強い関心を持っている。情報のつながりが価値を持つ時代が来ている。しかし今はまだ器が整っていない。御所御用達の称号取得を急ぐ。
村岡からの情報。御所の中でも外国事情への関心が高まりつつある。御門様の気持ちの方向を確認する必要がある。
次の手順。松屋善兵衛との江戸ルートの条件交渉を進める。御所御用達の称号取得の最終段階に入る。善次郎に南蛮事情の書物探しを依頼した。
筆を止めた。
窓の外は暗くなっていた。
お梅が灯を持ってきて、行灯に火を入れた。
「今日もお疲れでございましたね」
「そうでもありません」
「善次郎さんと村岡さん、それぞれ良い動きをしておりますね」
「思ったより早い。二人とも、自分で考えられる人間です」
「姫様のお眼鏡に適う方々でございます」
糸子はお茶を一口すすった。
「お梅、一つ聞いてもいいですか」
「はい」
「わたくしの商売について、近衛家の周りでどのような話が出ていますか。良い話でも悪い話でも」
お梅が少し考えた。
「良い話としては、近衛家が最近落ち着いてきたというお話がございます。屋根が直って、食事が少し良くなったことを、出入りの方々が気づいておられるようで」
「悪い話は」
「……公家の姫君が御商売などとはしたない、という声も、少しはございます。ただ大きな声ではなく、こっそりと、という程度で」
「誰がそのようなことを」
「それは申し上げにくうございますが……近衛家と同じく公家の方々の中に、少し…」
「なるほど」
糸子は帳面に一言書き加えた。
公家社会内部の反発、把握しておく。大きくなる前に手を打つ。
「お梅、その方々について、もう少し詳しく教えて頂戴。いつかご挨拶する機会を作ったほうがいいかもしれません」
「ご挨拶を……反対しておられる方々に」
「反対している人間に話を聞かないと、何が問題なのかが分かりません。知らないまま進んで後から大きな反発が来るより、早めに向き合ったほうがいいのです」
お梅が頷いた。
「承知いたしました。少し調べてみます」
糸子は行灯の灯を見つめた。
今日一日で、いくつかのことが動いた。
善次郎の書き付けが、情報という新しい商売の可能性を示した。
村岡が御所の内側からの変化を伝えてきた。
公家社会内部に、小さな反発の芽がある。
一つ一つは小さな動きだ。しかし全部が同じ方向を向いている。
この国が、何かに向かって動き始めている。
糸子はそれを感じながら、帳面を閉じた。
黒船まで、あと何年か。
まだある。
しかし確実に、近づいている。
第五話 了




