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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計350万PV/80万UU突破‼ 幕末経済戦記】  作者: 1009


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第百十六話「長崎暗闘編―クモの巣と光への渇望、友を引き留める夜(後編)」【改訂版】

一

 翌朝。


 長崎・油屋町の朝は、ねっとりと肌にまとわりつくような湿り気を帯びていた。油問屋「大浦屋」の重厚な表門をくぐれば、そこには街の喧騒とは一線を画す、ひやりとした静寂が横たわっている。

 通りに面した格子窓からは、控えめながらも力強い光が差し込み、磨き上げられた黒光りする床を斑に照らしていた。


 店先には、九州各地から運び込まれた菜種油の香油樽が整然と並び、特有の濃密な香りが立ち込めている。だが、今のこの店を支配しているのは、油の匂いだけではない。

 奥の蔵から漂ってくるのは、若草を蒸したような、清々しくも鋭い香り――輸出を待つ「嬉野茶」の芳香だ。


 龍馬は奥座敷で、大浦慶に全ての状況を説明した。


 奉行所の臨検の予告。グラバーの動き。そして、長次郎が二重スパイとして動くことになった経緯。

 慶は煙管を持ったまま、龍馬の話を聞いた。

 全て聞き終えた時、慶は、煙管をぽんと叩いた。

「……なるほどね。グラバーが、奉行所の動きを利用して、天朝物産を潰そうとしちゅうわけか」


「そうじゃ。奉行所が摘発に動けば、松田屋の為替経路も、小曽根殿の庇護も、全部止まる。その隙に、グラバーが長崎の武器流通を独占する」

「ふん」

 慶が、立ち上がった。

 その目に、ギラリとした光があった。


「グラバーね」

「大浦さん——」

「長崎の女ばナメたら大怪我するばい!」

 慶は、断言した。

「茶の出荷ば止むっ。九州一円の茶葉ば、全部押さえるたい。うちが仕入れ先の農家も仲買人も、残らず押さえとっとやけん、グラバーが欲しがっとる茶が一俵も出んごとするとは、うちには造作なかことばい」


「けんど――大浦さんも損したき」

「一時的な損こくより、長崎の覇権の方が大事ばい。グラバーはイギリス本国と茶の先物契約ば結んどるでしょうが。その納品が遅れたら——」

「契約に背いたき罰金を取られて、グラバーの金繰りが回らんなる」

「そがんことたい」

 慶は、満足そうに煙管を吹かした。


「坂本さん、うちに任せとき。その間に——」

「小曽根殿に動いてもらわんといかん」

「そい。奉行所の目の、どこに向くごとするか——ね」


 その夕方、小曽根乾堂が、龍馬の話を聞いて静かに頷いた。

「奉行所の御用改めの矛先を、プロイセンのスネル兄弟の倉庫へ——ですか」

「乾堂殿なら、できると思うきに」

「……楢林殿の協力があれば、可能です」

 乾堂は、考えながら言った。


「スネル兄弟は、幕府にあだなす尊攘派の藩へ、ひそかに武器を流しています。その証拠を、奉行所の目に、さり気なく触れさせれば——役人は、まず目立つ方を叩く。わたくしたちではなく、スネル兄弟を…です」

「頼まれてくれんろうか」

「無論です」

 乾堂は静かに、しかし確固として言った。

「この会所の印を刻んだのは、このような時のためです」


 大浦慶が動き始めたのは、その日の午後だった。

 油屋の帳場から、次々と飛脚が出ていった。九州各地の仕入れ先への連絡。茶農家への指示。仲買人への命令。

 慶の指示は、シンプルだった。

「明日から一週間、一俵も出荷しない」

 それだけ。


 九州一円の茶葉の流通が、大浦慶の一声で、止まる。それが可能なのは、慶がこの十年以上かけて、仕入れ先の農家から出荷の仲買人まで、すべてを自分の信頼関係で網羅しているからだ。


「グラバーはね」

 慶が、龍馬に言った。

「イギリス本国と、茶の先物契約を結んどる。秋までに、何万斤(きん)を納めるっちゅう、厳しか期限つきの契約たい。その納品が止まったら——」

「違約金が発生するがやき」

「そい。しかも莫大な額ばい。グラバーの金の回りが、一気に止まってしもうっ」

「完璧じゃ」

「当然たい。うちが長崎のお茶ば仕切って三十年ばい。こがん時のために、この場所ばずーっと守ってきたっとやなかね」

 慶は、煙管を一口吸った。


「ところで坂本さん、長次郎さんのことは——」

「大丈夫やき」

「そい、本当ね?」

「……大丈夫にしてみせるぜよ」

 慶は、龍馬の顔を見た。何かを察したように、それ以上聞かなかった。


「分かった。うちは茶の方ば押さえる。長次郎さんのことは、坂本さんに任せっけん」

「まっこと、ありとうございます、大浦さん」


 小曽根乾堂の計算も、見事だった。

 乾堂は、楢林栄左衛門との連携で、スネル兄弟の倉庫に関する情報を、奉行所の目付の耳に「うっかり」届くようにした。


 スネル兄弟が、幕府にあだなす藩へ武器を流している――その証拠が、奉行所推奨の書式で整えられた書類として、検問の網に、ひっそりと掛かるように仕組まれた。

「奉行所というのはね」

 乾堂が龍馬に言った。

「書式が正しければ、まず中身より形式を信じる。そして——より目立つ不審者を先に叩く本能がある」

「スネル兄弟の方が、目立つ不審者になる…と」


「はい。プロイセンの商人が幕府の敵側に武器を流しているという情報は、奉行所の役人にとっては、大いに報告書の実績になる。うちへの御用改めより、スネル兄弟への摘発の方が——『手柄』になりますから」

「うまいきに、乾堂殿」

「商売も情報戦も、仕組みは同じです」

 乾堂は、静かに笑った。


「誰かが得をする方向に、物事は自然に流れるのです」


二

 夜。

 長崎港の闇に、小さな伝馬船が、音を立てずに動いていた。

 船を操るのは、沢村惣之丞だった。


 二十一歳の惣之丞は、荒事の現場では長次郎より確かに頼りになる。波の読み方、舟の操船技術——惣之丞には天性の船乗りの勘があった。

「静かに」

 惣之丞が、低く言った。船の中に小野寺と、二人の屈強な男(大浦慶が手配した荷役夫)が乗っている。

 高田の指示した航路を、惣之丞は頭の中で辿っていた。


 中島川沿いの奉行所の検問を避け、大浦湾から長崎港の奥へ。潮汐の干潮のタイミングで、グラバーの倉庫の裏手に接岸できる。高田は、潮汐の周期を三日で計算しきっていた。

 接岸した。

 音を立てないように、荷役夫たちが素早く動いた。


 グラバーの倉庫の裏扉——長次郎が、今日一日かけて鍵の場所と番人の交代時間を調べ上げていた。番人の交代の空白の時間が、わずかに十分間。

 扉が開いた。


 小野寺が、ランタンを最小限の明かりにして中に入った。

 帳簿の棚を、素早く探した。

「あった…」

 二冊の帳簿。


 一冊は、表の帳簿。本国への報告用。

 もう一冊は——諸藩にふっかけている詐欺レートの帳簿。

 小野寺は、両方を抱えた。


「持ち出しは一冊だと、長次郎殿から聞きましたが——」

「原本が消えれば、すぐに気づかれる。写しを作る時間は?」

「……ありません」

「なら——」

 惣之丞が言った。

「両方持ち出す。グラバーに気づかれたら、そこからが勝負じゃ」


 しかし、小野寺が首を振った。

「駄目です。原本が消えれば明日の商談前にグラバーが気づき、商館を完全封鎖して犯人探しを始めます。交渉の席にすら着けなくなる!」


「なら、今ここで書き写す!」


 小野寺は懐から予備の矢立と薄紙を取り出すと、ランタンの極小の明かりの下、取り憑かれたような速さで二冊の帳簿の『差分相場』が記された重要ページを書き写し始めた。

 惣之丞が外の見張りの動向を睨み、冷や汗を流しながら秒数を数える。


 制限時間残りは、一息つく間――。

 

 小野寺は写し終えた紙を懐に押し込み、原本を寸分狂わぬ位置へと棚に戻した。


 そして……船が、静かに離れていった。


三

 グラバーから「明日、商談をしたい」と申し入れが来たのは、その翌日のことだった。

 大浦慶の茶の出荷停止が、じわりと効き始めている。本国との先物契約の納期が迫り、足元の資金繰りが軋み出した——それを察したグラバーが、自ら動いてきたのだ。


 だが、それだけではない。

 長次郎が、前夜のうちに、グラバー商会へ「文」を一通、届けさせていた。

 ——英国行きの船に、乗ります。手土産も、用意いたします。

 その短い一行を読んだとき、グラバーがどんな笑みを浮かべたか。長次郎には、手に取るように分かった。あの男は今ごろ、勝利を確信して、上等な葡萄酒でも開けているに違いない。

(餌に、食いついたな……グラバーさんよ)


 翌日の午後、グラバー商会の書斎で、龍馬と長次郎が、グラバーと向かい合った。

 果たして——グラバーは、これ以上ないほど上機嫌だった。

「Welcome, Chojiro. So, you have made the wiser choice.」

(よく来た、長次郎。賢い方を選んだようだな)

 その声には、獲物をすでに手中に収めた者の、隠しようのない余裕が滲んでいる。長次郎はあえて、おどおどと視線を泳がせ、いかにも後ろめたげに、懐の綴じ物を握りしめてみせた。

「……Yes. As promised, I have brought it. The inner ledger of the Kaisho.」

(……はい。お約束の品を。会所の、内側の帳面でございます)

 長次郎は、一冊の帳面を、そろそろと机の上に滑らせた。

 むろん——精巧に拵えた、偽物である。一晩で、小野寺と二人がかりで仕上げた、嘘の数字の山だ。

 グラバーが、満足げに頬を緩め、それへ手を伸ばす。


 その、瞬間だった。

 長次郎の指が、すっと、その帳面を押さえた。

「……ばってん、グラバーさん。その前に、ひとつだけ」

 長次郎の声から、先ほどまでの怯えが、嘘のように消えていた。

「商人どうし、対等の取引と参りましょう。わしが手の内を見せるんじゃ。あんたも、ひとつ、本当のことを聞かせてくれんですろうか」

 グラバーの眉が、わずかに動く。

「……What do you mean?」

(……何の話だ)

「あんたが薩摩や諸藩に売っちょる、武器の決済相場のことぜよ」

 長次郎は、もう英語の助けを借りなかった。土佐弁の混じった長崎弁で、まっすぐに切り込んだ。

「メキシコドルから一分銀への換算——あれが、上海の本相場と、ずいぶんかけ離れちょる。ご存じなかった、とは……まさか、言わせんですよ」


 グラバーの顔から、笑みが、すうっと引いた。

「……What are you trying to say?」

(……何が言いたい)

「これを、ご覧くだされ」

 長次郎は、もう一通——懐の奥に隠していた本物の一枚を、嘘の帳面の上に、ぴしゃりと重ねた。

 小野寺が、命がけで盗み写した、二重帳簿の差分表である。

「本国のジャーディン・マセソンに送っちょる『正しい帳簿』と、諸藩にふっかけちょる『詐欺の帳簿』。その差額が——これじゃ」

 長次郎は、数字を、一つずつ、低く読み上げた。

 読み上げるたびに、グラバーの青い目が、すっ、すっ、と細くなっていく。


「……Where did you get that.」

(……それを、どこで手に入れた)

 声が、別人のように低くなっていた。

 長次郎は、答えない。代わりに、にっと笑ってみせた。お美代がよく見せていた、あの伏し目がちの娘とはまるで違う——獲物を追い詰めた狩人の笑みだ。

「グラバーさん。あんたは、お美代を金で買うたように、わしのことも、買うたつもりじゃったろう。饅頭屋の倅が、世界に焦がれて、ほいほい懐に転がり込んできた、とな」

「……」

「じゃが、よう考えてみてくだされ。あんたが、わしに『会所を見せろ』と囁いたあの日から——わしは、ずっと、あんたを見ちょったがじゃ。あんたの本棚を。机の上を。あんたが、どの帳面を、どの引き出しに仕舞うか。番人が、いつ持ち場を空けるか」

 グラバーの喉がごくりと動いた。

「篭絡したつもりが——篭絡されちょったのは、あんたの方ぜよ、グラバーさん」


 書斎が、しんと静まり返った。

 龍馬はその一部始終を、壁にもたれて静かに見ていた。口を挟む必要は、微塵もなかった。この勝負は、最初から最後まで、長次郎ひとりのものだ。

(ようやった、長次郎。——おまんは、もう誰の駒でもないきに)


 やがてグラバーが、低く絞り出すように言った。

「……What is it you want.」

(……望みは、何だ)

 そこでようやく、龍馬が壁から背を起こした。土佐弁でゆっくりと言う。長次郎がそれを英語に変えていく。

「わしらは、おまんを破滅させに来たんじゃない」

"We did not come to ruin you, Mr. Glover."

「おまんと一緒に、この国の『新しい売り買いの仕組み』を作りに来たがじゃ」

"We came to build a new system of commerce for this country—together with you."


 長次郎が、グラバーのデスクの洋書を、指さした。あの、知識への扉を開いた、一冊だ。

「あんたの本から、わしは多くを学んだ。じゃき、分かるがじゃ。グラバーさん——あんたは本当は、ただ武器を売り捌くだけの男じゃなか。この国が、本物の近代国家に変わっていく、その様を、いちばん近くで見たいと願うちょる。違いますか」

 グラバーは長次郎の目を、長いこと見ていた。

 やがて——その口元が皮肉っぽく歪んだ。

「...You people are insane.」

(……お前たちは狂っている)

 それから深い深い溜息とともに、笑みが浮かんだ。

「But—by joining your web, I can crush the Prussians. The Snell brothers can only sell to the Shogunate, after all.」

(だが——お前たちのクモの巣に乗れば、プロイセンを潰せる。どのみちスネル兄弟は、幕府にしか売れんのだからな)

「それはわしらが引き受けるき。おまんは品物の質と量を保証してくれたらええ」

"We'll handle that. All we ask is that you guarantee quality and supply."


 グラバーは一語一語を噛み締めるように、しばらく黙考した。

 そしてゆっくりと立ち上がった。

「...Fair enough.」

(……よかろう)

「Tencho Bussan... go ahead, then. Entangle me in your web.」

(天朝物産……いいだろう。お前たちのクモの巣に、この私を絡め取ってみせるがいい)


 龍馬と長次郎が引き上げ、書斎の扉が閉じられる。

 その音を聞き届けてから、グラバーはしばらく微動だにしなかった。

 窓の外では長崎の港が、夕日に赤く焼けている。停泊する己の商船の影が、血の色の海に長く伸びていた。


 ——と。

 次の瞬間、グラバーの拳が、机を真上から叩き割らんばかりに、叩きつけられた。

「Damn it……!! Damn them all……!!」

(くそっ……!! あいつら、揃いも揃って……!!)

 机上の葡萄酒の杯が倒れ、深紅の液体が、商談の書類を、じわりと汚していく。だが、グラバーはそれを拭おうともしなかった。

 握りしめた拳が、わなわなと震えている。

 篭絡には、絶対の自信があった。人の弱みを嗅ぎ当て、そこへ甘い毒を一滴落とす——その手管で、彼はこの東洋の地を、這い上がってきたのだ。あの女中も、そうやって落とした。そして今度こそ、あの聡明な饅頭屋の倅を、確実に手中に収めたはずだった。


 なのに——二度。

 二度とも、自分の最も得意な手で、逆しまに、絡め取られた。

「That girl... and that man, too... Right from the start... they were all...!」

(あの娘も……あの男も……最初から、ぜんぶ……っ)

 屈辱が、煮えた鉛のように、腹の底を焼く。スコットランドの寒村から、たった一人、海を渡ってここまで来た。詐欺師も、海賊も、腐れ役人も、ことごとく智慧と度胸で踏み越えてきた。その自分が、極東の小さな港町で、得体の知れぬ子供じみた連中に、二度までも、出し抜かれた——。

 グラバーは、しばらく荒い息をついていた。

 倒れた杯から滴る酒が、床に、ぽたり、ぽたりと、音を立てる。

 その音を、数えるうちに——

 不思議と、頭の芯が、すうっと冷えていった。


 やがて、グラバーは、こぼれた酒を、指先で静かにすくい取った。そして、その赤い雫を、じっと見つめながら、低く、独りごちた。

「...Well, no matter.」

(……まあ、いいさ)

 唇の端がゆっくりと、酷薄に吊り上がっていく。

「Enjoy your sweet taste of victory while you can. —But, mark my words.」

(今はその勝利の美酒に、せいぜい酔いしれているといい。——だが、覚えておけ)

 グラバーは、汚れた商談の書類を、くしゃりと握り潰した。

「I lost the first. I will even let you have the second. But—there will not be a third. Do not think this is the end...!!」

(一度は不覚を取った。二度目もくれてやろう。だが——さすがに三度目はない。このままで済ますものか……!!)

 血の色に染まる窓の外、異国船の灯がまたたく長崎の港を、グラバーの青い目が、刃のように睨み据える。

「In the end, victory shall be mine. —You filthy barbarians...!!」

(最後に勝つのは、この私だ。——バーバリアンズどもめ……!!)


四

 その夜、龍馬は長崎港を見下ろす丘に立っていた。夏の夜の港は、昼間とは別の顔を持っていた。


 停泊する蒸気船の灯りが、水面に揺れている。居留地の洋館から、かすかな音楽が聞こえてくる。潮風が、丘を吹き上げてくる。


 龍馬は、その景色を見ながら、糸子に言われた言葉を思い出していた。

(「その火口を塞ぐための足場を、坂本、あなたの足で固めてきなさい」)


 物産(大浦)。 

 金融(松田)。

 政治(小曽根)。

 語学(通詞・長次郎)。

 そして最大の武器商人(グラバー)。


 ばらばらだった五本の糸が、いま一つの網へと織り上がった。長崎の裏に天朝物産会所が手元で引く、姿なき『兵器差配』の蜘蛛の巣が、張り巡らされたのだ。

「ひとまずは——完成したきに」


 だが、その胸の片隅には、消えぬ熾火(おきび)のような予感があった。あのグラバーという男が、たった一度の敗けで…おとなしく手綱を握らせ続けるとは——到底、思えなかったのだ。

(……勝ったとは思うちゅうわけやない。ただ…こっちが一歩、先んじただけぜよ。あの男は必ず、牙を研ぎ直してきいや)


「坂本殿」

 後ろから、高田の声がした。

「報告書の作成が終わりました。仕立飛脚の手配も」

「ありがとう」

「……お疲れ様でした」

 高田が、静かに言った。

 その高田が「お疲れ様」と言うのは、珍しかった。


 龍馬は、振り返って、高田を見た。

「高田殿も、よく動いてくれたきに」

「私は地図を見ていただけです。実際に動いたのは、みなさんでした」

「そんなことはない。おまんの潮汐の計算がなければ、夜の物流は成功しなかった」

 高田は、何も言わなかった。

 しかし、その目が、わずかに和らいでいた。


 翌朝、龍馬は仕立飛脚への書状を書いた。


------------------------------------------------------------------------------

 姫様、

 長崎に糸子様の描かれた通りの網を張り終えました。

 物産、金融、政治、情報、武器——全部、一本の糸で繋がりました。

 グラバーを檻に閉じ込めました。

 長次郎も大丈夫です。


 坂本龍馬

------------------------------------------------------------------------------


 書き終えて、龍馬は少し止まった。

「長次郎も大丈夫です」——その一行を、もう一度読んだ。


 糸子への報告というより、誰かへの誓いのような一行だった。


五

 一橋上屋敷の糸子の部屋に、仕立飛脚が届いたのは、それから十数日後だった。


 夏の終わりの江戸の空は、高く青かった。


 糸子は、封書を開いた。

 龍馬の、荒っぽい文字を読んだ。

 読み終えて、しばらく目を閉じた。

「……よくやってくれた」

 糸子は、低く言った。

「よくやってくれたね、龍馬。長次郎…」


 葵が、傍らに控えていた。

「姫君様、お喜びですか」

「うれしい、というより——」

 糸子は、窓の外の空を見た。

(前世の歴史では、近藤長次郎は密航しようとして、自害させられた)

「変わったの。長次郎は、この道を選んだ。わたくしの書状が効いた…と思いたい」

 葵が、複雑な顔をした。


「姫君様は……最初から、長次郎殿が異国に行こうとすることを、分かっておられたのですか?」

「可能性として、考えておりました。だから——先回りして書状を準備したのでございます。そして坂本に出しました」

「それは——」

 葵が言葉を選んだ。


「残酷なことでもありますね。姫君様の手のひらの上で、運命を変えさせられた長次郎殿にとっては」

「そうかもしれませんね」

 糸子は、静かに言った。


「でも——ひょっとしたら彼は本来の歴史では違う選択をしていたかもしれない。『密航しようとして死ぬ』かもしれなかった。今回はわたくしの手引きによるもので、彼がまっさらな心で選んだ道とは違ったかもしれない。なれど、わたくしは——長次郎に、この先も自分の人生を選んで、歩んでほしかった」

「……姫君様」


「近藤長次郎。あなたは世界の広さを、英国の船で見なくていい。この日本を大きくすることで、世界があなたの足元に来る——そう信じて生きてほしい」

 糸子は、新しい紙を広げた。


 次の書状を書き始めた。

 その目に遠い先を見通す、あの光が宿っていた。


六

 糸子はその夜、一気に書状をしたためた。

 宛先は、近藤長次郎と沢村惣之丞。

 書状にはこう書かれていた。


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 近藤長次郎、沢村惣之丞殿


 よく、やってくれました。

 次の人間を送ります。

 土佐和紙の流通を完全に掌握した男です。味方であれば頼もしい存在でありますが、敵に回れば、恐ろしき毒にもなりうる男です。

 この男の扱いには注意が必要です。獰猛で策略家で、自尊心が高い。しかし——その分、動かしたときの破壊力は格別です。

 檻に入れたグラバーを手懐け、真の富を吸い上げなさい。


 その者の名前は、岩崎弥太郎。


 あなた方には久方ぶりの再会となることでしょう。長崎でお待ちなさい。


 一橋上屋敷より

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 仕立飛脚が長崎を目指して遮二無二(しゃにむに)走り始めた、ちょうど翌週のこと。


 長崎港の桟橋に、うだるような熱気を孕んだ風を切り裂いて、土佐からの船が滑り込んできた。

 歩み板をドタドタと力強い足取りで降りてきたのは、三十前後の一人の男だ。


 背は決して高くない。だが、横幅のあるずんぐりとした体躯には、まるで破裂寸前の蒸気機関のように、内に秘めたエネルギーがギチギチに詰まっていた。着ているものは煤(すす)けた質素なものだが、その顔に据えられた「目」だけが、周囲の風景から完全に浮き上がっている。


 岩崎弥太郎だ。


 ギラギラと野卑に輝く、漆黒の眼光。そこには底なしの欲望と冷徹な野心、そしてそれらをすべてコントロールする極上の知性が、渾然一体となって渦巻いていた。男がふと視線を走らせた瞬間、まわりの空気がピリッと張り詰める。


 弥太郎は大きく胸を広げ、長崎の海を睨みつけた。肺腑(はいふ)の奥底まで届くように、深く、深く息を吸い込む。

 鼻腔を突いたのは、懐かしいあの匂いだ。

「……戻ってきたぞ。長崎、おまん、ちっとも変わらんのう」


 弥太郎の低く地響きするような声が漏れた。

 かつて坂本龍馬と出会い、土佐から離れたこの地で同じ土佐者として、意気投合したのが…ここ長崎だった。いわばここは、男の原点。

 その網膜にはぎらつく夏の海原と、そこに黒い影を落として林立する異国の蒸気船のシルエットが、鮮烈に焼き付いていた。


「相変わらず、ゾクゾクするほど面白そうな街じゃき」

 弥太郎の唇が、にやりと吊り上がった。獲物を前にした猛獣そのものの、獰猛な笑みだ。


 その弥太郎のすぐ後ろから、三人の男を引き連れて、一際凛とした佇まいの男が降りてきた。

 旭狼衛の長崎出張支部を率いる隊長、速水護である。一刀流の免許皆伝でありながら西洋兵学にも明るい彼は、このうだるような暑さの中でも、驚くほど沈着冷静なオーラを纏っている。

「岩崎殿、あまり一人で先走られては困りますな」

 

 速水が苦笑まじりに声をかけると、その隣から、帳面を抱えた副隊長の神代弦一郎が眼鏡の奥の目を光らせた。

「土佐を出てから、徒歩と船で、かれこれ三週間……。暦の上では秋に入ったとはいえ、この長崎の残暑は、まるで真夏の蒸し返しです。軍資金の残高と、隊士の体力を考えれば、まずは一刻も早く宿を取るべきかと」


 大坂の蔵屋敷仕込みの算術と情報分析の天才である神代は、長崎に到着した瞬間から、すでに頭の中でこれからの活動資金の計算を始めているようだった。

「硬いこと言うなよ、神代の旦那! やっと着いたんだ、ちょっとくらい息抜きさせてくれよ〜」


 そう言って神代の肩を叩いたのは、人たらしの達人、宮川蜂介だ。すでに長崎の港を行き交う人々に目を輝かせ、誰に話しかけようかとウズウズしている。その蜂介のすぐ後ろには、まるで気配そのものを消し去ったかのように、音もなく佇む名波幽水の姿があった。無口な凄腕隠密の目は、すでに周囲の不審な動きを警戒して鋭く光っている。


 土佐を出発した晩夏から、この猛暑の中を共に旅してきた五人。その道中は決して楽なものではなかったが、この長崎の空気を吸った瞬間、旅の疲れなど吹き飛んでいた。


「―― 相変わらずおそろしい顔して降りてくるのう、弥太郎さんよぉ!!」

 小気味いい声が、桟橋の先から飛んできた。

 見れば見知った顔が二つ、こちらへ走ってくる。近藤長次郎と沢村惣之丞だ。


 かつて龍馬を交えて、一緒にここ長崎で行動した馴染みの同志たちだった。

「おんしゃあ、長次郎に惣之丞か! 久しいのう!」

 弥太郎がガハハと笑う。


 長次郎が息を切らせながら歩み寄った。

「久しぶりやき、弥太郎殿! おんしゃら旭狼衛の皆も……! 姫様からの文で、皆が船でこっちへ帰ってくるっち聞いちゃあき、こじゃんと出迎えに来たがぜよ」

「ほう、姫様からの文か。あの方は相変わらず、手回しがえいねぇ」


 弥太郎は長次郎と惣之丞を品定めするように、じろりと眺めた。その瞳の奥のギラギラした光は、再会の喜びのなかでも決して消えない。それは理屈や学問で得た鋭さではなく、生き物としての圧倒的な「勘」の鋭さだった。


 長次郎は、その弥太郎の横顔を盗み見て、内心で舌を巻いていた。

(この男は……やっぱりバケモノやき。あの聡明な姫様が『味方であれば頼もしい存在でありますが、敵に回れば、恐ろしき毒にもなりうる男です』とまで書状に書いてあった意味が、この目を見ただけで嫌というほど分かる。それに、後ろに控える旭狼衛の四人も、ただ者やない……)


「それはそうと、よぉ」

 弥太郎は、首に巻いた手拭いで汗を拭いながら言った。

「おんしらが長崎で動きよったことは、知っちゅう。今は長崎の…天朝物産会所がどうなっちゅうか、詳しく教えてくれ。…まあ、立ち話も何やし。油屋とやらに歩きながら、じっくり話を聞かせてもらおうか。それに――」


 弥太郎は言葉を切り、もう一度、長崎の港の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 じっとりとした潮の匂い。近代化の象徴である石炭の、黒く重い煙の匂い。居留地から漂う、嗅いだこともない異国の香辛料の香り。

 そして、それらが混ざり合った、この街特有の独特な空気――。


「ええ匂いじゃ。たまらんのう……ここは、金の匂いが最高にするきに」

 その言葉には、単なる強欲な計算高さを超えた、商売という巨大なゲームそのものを愛してやまない、子供のような純粋なワクワク感が宿っていた。


「はは、頼もしいねぇ。弥太郎殿と旭狼衛の皆が来てくれたら百人力やき」

 惣之丞が嬉しそうに笑い、旅籠の方向を指差した。


 長次郎は、弥太郎や速水たちと肩を並べて、石畳の坂道を登り始めた。

 ふと、歩調を緩めた弥太郎の鋭い視線が、長次郎の脇に抱えられた小野寺の帳面――天朝物産会所の「大福帳」に注がれた。じっとりと汗ばんだ表紙の隙間から覗く、左右に整然と分かたれた数字の列。

弥太郎の片眉が、ピクリと跳ねた。

「……おい、長次郎。おまん、長崎でえらい『上等な仕分け』を扱いゆうのう。貸方(かしかた)と借方(かりかた)が、ピシャリと釣り合うちゅう。これは……複式の帳簿じゃろうが」


「なっ……!!」

 長次郎は思わず足を止め、帳面を抱え直した。自分の喉がヒリつくほど驚いているのが分かる。

「おんしゃあ、なぜこの『仕組み』を知っちゅうがぜ……!? これは異国の、それもごく限られた商人しか知らんはずの――」


「何言いゆうがじゃ、おまんは」

 弥太郎はフンと鼻で笑うと、首の手拭いでガシガシと汗を拭った。

「龍馬から聞いちゃあせんのか? 姫様が江戸に作った『商務語学所』じゃき。あそこにゃあ、わしみたいな者がぎょうさん集められて、『複式簿記』やら『経済学』やらいう、得体の知れん学問を、基礎のキからみっちり叩き込まれちゅうがぜよ。学校の手習い本にもう載っちゅう」

「わしも勉強を途中で放り出して、姫様にあっちへこっちへと、引き回されちょるがなぁ」


「学校の…手習い本に……じゃと……?」

 長次郎の背筋に、ドッと冷たい汗が流れた。

 自分が高熱に浮かされるようにして、グラバーの洋書から死に物狂いで掠め取った「世界の秘密」が、江戸では、すでに次代を担う商人たちへ組織的に教えられている。あの姫様は、一体どれほど先の世界を見て、この日本を塗り替えようとしているのか。


 弥太郎は、硬直する長次郎の顔を覗き込み、ニヤリと人を食ったような不敵な笑みを浮かべた。

「……けんど、土佐和紙の流通でわしが見てきたものより、この長崎の帳面ははるかに桁が大きい。二重の相場を同時に動かしちゅう形跡がある。おまんら、これを使って長崎の異国人を数字の網でハメちゅう最中じゃな?」


「……っ!!」

 知識の出元だけでなく、現在の戦況まで一瞬で見抜かれた。長次郎は、この岩崎弥太郎という男の底知れぬ実務能力の前に、ただただ圧倒されるしかなかった。


 隣から放たれる圧倒的な熱量と、背後から感じる一筋縄ではいかない只者ではない者たちの気配に、肌がじりじりと震えるのを感じていた。

(こりゃ……面白うなってきたぜよ。龍馬に旭狼衛、それにこの弥太郎……。役者はみーんな揃うちゅう。長崎が、いや…ひょっとしたら日本が、ここからまたドカンとひっくり返るぞや!)


 文久元年、初秋。

 じりじりと照りつける夏の終わりの太陽。

 長崎の空はどこまでも高く、どこまでも青かった。


 そのとき遥か港の方から、腹に響くような蒸気船の汽笛が…ゴォォォンと力強く、新しい時代の幕開けを告げるように鳴り響いた。


 第百十六話 了

◾️白人による侮蔑や蔑視の表現の解説 (;´Д`A

幕末期、欧米の白人(西洋人)の側から日本人に対して使われた侮蔑や蔑視の表現は、特定の単一の言葉というよりも、「未開人」や「子供」として見下す心理、およびアジア人全般への蔑称の流用が主流でした。当時、白人サイドから投げかけられた主な侮蔑表現や認識は以下の通りです。


1. 文明的な優位性からくる侮蔑(未開人・異教徒扱い)

当時、欧米列強は「キリスト教文明こそが至高であり、アジアは遅れた未開の地である」という強い白人至上主義(オリエンタリズム)を持っていました。


・Heathen(ヒーゼン): 異教徒、野蛮人。キリスト教を信仰しない「不信心な野蛮モノ」という意味で、日本人を蔑む際に広く使われました。

・Barbarians(バーバリアンズ): 野蛮人。日本側が西洋人を「夷狄(野蛮人)」と呼んだのと同様に、西洋側も日本人の古い習俗や切腹、生麦事件などの攘夷行為を見て「野蛮で残虐な民族」と呼びました。

・Semi-civilized(セミ・シヴィライズド): 半開の、半分文明化した。完全な野蛮(Savage)ではないものの、西洋文明にはるかに及ばない「発展途上の劣等民族」として日本人を位置づける言葉でした。


2. 人種的・身体的特徴への蔑称(アジア人共通の蔑称)

当時は「日本人」をピンポイントで区別する言葉よりも、中国(清)などを含めた東アジア人全体を一括りにした差別用語が使われました。


・Pagan(ペイガン): 異教徒、文明化されていない者。

・Yellows(イエローズ): 黄色い連中。人種的な皮膚の色を捉え、白人より劣る存在として用いました(これが後の明治中期以降、「黄禍論(Yellow Peril)」へと発展します)。


3. 「Jap」の始まり(当時はまだ略称)

現代では強い人種差別用語である「Jap(ジャップ)」は、まさに幕末の1860年(万延元年)、日本の万延元年遣米使節団がアメリカを訪れた際に新聞などで使われ始めました。


当時のニュアンス: 1860年の段階では、単に「Japanese」を短くした新聞の見出し用の略称(ニックネーム)であり、明確な悪意や侮蔑の意味は薄かったとされています。しかし、英語圏において「単語を短縮して呼ぶ」行為の根底には、親しみだけでなく「格下の相手を簡略に呼ぶ」という無意識の軽視が含まれており、これが後に(日露戦争や第二次世界大戦を経て)明確な差別・侮蔑語へと変質していきました。


4. 精神的な子供扱い(パターナリズム)

言葉の暴力だけでなく、当時の外交官(アメリカのハリスやイギリスのオールコックなど)の記録を見ると、日本人を「嘘つきで、約束を守らない、知性の遅れた子供のような存在」と評する記述が目立ちます。「大人の白人が、分からず屋の子供(日本人)にしつけをして、国際社会のルールを教えてやる」という、傲慢な差別意識(パターナリズム)が彼らの基本スタンスでした。


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