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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します  作者: 1009


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第十一話「御所の水面下と、村岡の決断」

村岡が近衛家に来たのは、夕暮れ時だった。

 いつもは帳面確認の日か、糸子が呼んだ時に来る。今日はどちらでもない。

 お梅が糸子に知らせに来た時、「村岡様のお顔が少し違います」と付け加えた。

 普段のお梅は余計なことを言わない。だからその一言が、糸子には十分な警告になった。

 座敷に入ってきた村岡は、確かにいつもと少し違った。

 感情を表に出さないのが村岡の常だ。御所で長年培われた習慣なのだろう、喜びも怒りも滅多に表情に出ない。しかし今日は、その表情の奥に何か動いているものがあった。

「姫君様、少しよろしゅうございますか」

「どうぞ。座って頂戴な」

 村岡が座った。

 少しの間、黙っていた。

 糸子は待った。

「……少し、驚くことが分かりました」

 村岡が「驚く」という言葉を使うのは珍しい。

「田辺屋と御所の装束担当商家の関係を調べていました。姫君様からお願いされた件でございます」

「はい」

「調べているうちに……商売上の繋がりとは別のことが見えてきました」

「別のこと、とは」

「御所の中に……田辺屋と直接やり取りをしている女官がいます。商売の話ではなく、御所の内部のことを外に伝えている可能性があります」

 糸子は村岡を見た。

 御所の内側からの情報漏洩。

 田辺屋が御所御用達の称号の動きを事前に把握できた理由が、これで説明できる。

「その女官とはどのような立場の方ですか」

「それが……わたくしの上の方でございます。直接仕える女官長の一人で」

「さとは知っていますか」

 村岡が少し間を置いた。

「……それが、さとの様子も少し、変だと思っていて」

「変とは」

「さとは御所の台所方の女官長でございます。台所方で最も信頼できる方で、姫君様との関係もさとを通じて始まりました。その方が……最近、わたくしが田辺屋について調べ始めてから、少しわたくしを避けているような気がしています」

 糸子は少しの間、黙って考えた。

 さとが村岡を避けている。

 これには二つの可能性がある。

 一つは、さと自身が田辺屋との関係に何か関わっていて、それを村岡に気づかれることを恐れている。

 もう一つは、さとが田辺屋との関係を知っていて、しかしそれを村岡に話すべきか迷っている。

 どちらかによって、対応が全く変わる。

「村岡、さとのことをどのくらい信頼していますか」

「……以前は、御所で最も信頼できる方だと思っていました」

「以前は、という言い方をしましたね」

「はい。今は……分からなくなっております」

 村岡の声に、珍しく迷いがあった。

 糸子は村岡の顔をよく見た。

 動揺している。

 村岡が動揺することは、これまでほとんどなかった。論理的に考え、静かに行動する人間だ。その村岡が動揺しているということは、今日の情報がそれだけ村岡にとって大きなことだということだ。

「村岡、少し詳しく話してもらえますか。田辺屋とその女官の関係について、何を、どのようにして知りましたか」

 村岡が静かに話し始めた。


 村岡が田辺屋の調査を始めたのは、糸子に頼まれた翌日からだった。

 御所の装束担当商家と田辺屋の関係を探るにあたって、村岡はまず御所に出入りしている商家の帳面を確認することにした。台所方の帳面は村岡が定期的に確認しているが、装束を扱う部署の帳面は見る機会が少なかった。

 そこで装束担当部署の若い女官に、帳面の確認を手伝う名目で近づいた。

 帳面を見ていて、奇妙なことに気づいた。

 装束の仕立てを担当している商家の名前と、実際に納品された品の記録に、微妙な齟齬があった。品の数が合わない。金額が合わない。それ自体は大きな問題ではないかもしれないが、定期的にそのような齟齬が起きていることが気になった。

 村岡はさらに調べた。

 その齟齬が起きている時期と、田辺屋が御所に関わっていた時期が、部分的に重なっていた。

 そしてある日、村岡は偶然を装って、その装束担当商家の使いが来る時間帯に御所の通用口の近くにいた。

 使いが来て、品物を届けた。

 そしてその使いが帰る直前に、御所の女官の一人と短い立ち話をしていた。

 その女官が、村岡の上の女官長だった。

「話の内容は聞こえませんでした。しかし様子を見ていると……商売の話ではないことは分かりました。使いの者が何か小さなものを渡していました。文書のようなものでした」

「その文書が外から来たものか、中から出ていくものかは分かりますか」

「……使いの者から、女官長に渡っていました。だから外から来たものだと思います」

「外から女官長に文書が渡った」

「はい。それを受け取った女官長は、周囲を確認してから懐に入れました」

 糸子は少しの間、黙って考えた。

 外から御所の女官に文書が渡っている。

 それが何を意味するかは、内容が分からない段階では断言できない。しかし装束担当商家が田辺屋と繋がっていて、その商家の使いが御所の女官に文書を渡しているとすれば、田辺屋が御所の内側に情報を送り込んでいる経路と見ることができる。

 あるいは逆に、御所の内側から情報が流れ出ている経路かもしれない。

「さとについては、何を見ましたか」

「直接見たわけではありません。ただ……わたくしが帳面の齟齬について、さとに相談しようとしたことがあります」

「どうなりましたか」

「さとは話を聞いてくれましたが……その後から、わたくしへの接し方が変わりました。避けているという感じではないかもしれません。ただ、以前より少し、距離を置かれているような」

「さとに相談した内容は、田辺屋の名前は出しましたか」

「いいえ。帳面の齟齬があるということだけ、伝えました」

「さとの反応は」

「確認してみると仰っていました。しかしその後、特に何もなく……それから少し距離を置かれるようになった気がします」


 糸子はしばらく考えた。

 状況が複雑になってきた。

 さとが田辺屋と繋がっている可能性がある。しかしそれは確認が取れていない。

 さとが村岡に距離を置いていることも、理由が分からない。田辺屋との関係を隠しているからかもしれない。しかしさとが何か問題を察知して、村岡を守るために距離を置いている可能性もある。

 糸子の中で、もう一つの可能性が浮かんだ。

 さとは近衛家と御所台所方の橋渡しをしてくれた人間だ。近衛家の台所方への支援を受け入れ、御所御用達の称号取得に繋がる判断をしてくれた。

 その人間が田辺屋と繋がっているとすれば、それは矛盾する。

 しかし人間は、一つの方向だけに向いているわけではない。

 さとが村岡を避けているのは、自分が知っていることを村岡に話すべきか迷っているからかもしれない。

「村岡、さとに直接聞いてみることはできますか」

「……直接、でございますか」

「はい。帳面の齟齬について、その後どうなったかを確認するという名目で」

「それは……できます。しかしさとが田辺屋と繋がっていた場合、わたくしが調べていることを察知されます」

「そのリスクは分かっています。しかし今の段階では、さとが敵なのか味方なのかを確認することが先です。確認できなければ、次の手が打てません」

 村岡がしばらく考えた。

「……分かりました。聞いてみます」

「一つだけ注意してください」

「はい」

「さとの返答よりも、さとの様子を見てください。言葉よりも、表情や態度に注目して。さとが何かを隠しているなら、言葉ではなく態度に出ます」

「心得ております」


 村岡が帰った後、糸子はお梅を呼んだ。

「お梅、実光様に文を送って頂戴。明日時間があればお越しいただけますかと…」

「はい。善次郎にはいかがいたしますか」

「善次郎には今日は連絡しません。この件は御所内部の話です。善次郎が関わると、田辺屋の目に触れる可能性が出てきます」

「分かりました」

 お梅が部屋を出た後、糸子は帳面を開いた。

 今日分かったこと。田辺屋と御所の装束担当商家の繋がりが確認された。その商家を通じて、御所の女官長に文書が渡っている。さとの様子が変化している。これらが全て繋がっているかどうかは、まだ不明。

 次の手。村岡がさとに直接確認する。その結果を待つ。実光に有職故実の観点から御所内での情報漏洩についての法的解釈を聞く。

 糸子は筆を止めて、天井を見た。

 御所の内部で何かが起きている。それが確かだとすれば、近衛家の問題は商売の縄張り争いではなくなってきた。

 御所の情報が外に漏れているとすれば、それは御門様の動きや御所の判断が田辺屋に、そして田辺屋の背後にいる老中に筒抜けになっているということだ。

 それは糸子が想定していた以上に深刻な問題だ。


 翌日、実光が来た。

 糸子が村岡から聞いた内容を伝えると、実光の顔が真剣になった。

「御所の内部から情報が漏れているとすれば……それは有職故実の問題ではなく、御所の安全の問題でございます」

「そうでございますね」

「その女官長が故意に情報を流しているのか、利用されているのかによって、問題の深刻さが変わります」

「故意の場合と、利用されている場合で、何が違いますか」

「故意であれば、組織的な問題として御所の上層部に報告する必要があります。しかし利用されているだけであれば、田辺屋との接触を断つことで問題が解決するかもしれません」

「御所の上層部に報告するとは、具体的には誰にどのように?」

「さとより上の立場の方に。あるいは……御門様に直接」

 糸子は少し考えた。

「御門様に直接お伝えすることは、次の参内の機会にできます。しかしその前に、もう少し状況を確認したい」

「村岡殿がさとに確認した結果を待つということでしょうか」

「はい。さとの反応次第で、何をお伝えするかが変わります」

 実光が頷いた。

「有職故実の観点から、御所の女官が外部と私的なやり取りをすることへの規定はございます。公式な許可なく外部の者と文書を交わすことは、御所の規則に反します。ただし実際にはそれが厳密に守られているかどうかは、時代によって違います」

「その規定は、今の状況に適用できますか」

「証拠が必要です。村岡殿が見た場面だけでは、文書の内容が不明なので、規則違反と断定するには足りません」

「では証拠を集める必要がありますね」

「そうなります。しかし証拠集めは慎重に。御所の内部で調査を進めることが、当事者に察知された場合、証拠が隠滅される可能性がございます」

「その点は村岡に伝えます」


 二日後、村岡から文が来た。

 短い文章だった。

「さとと話しました。詳しくは直接お伝えしたいと思います。お時間を頂戴しとうございます」

 糸子はすぐに返事を送った。

「明日の昼過ぎにお越しになって」


 翌日、村岡が来た。

 今日の村岡の顔は、前回とはまた少し違った。

 迷いが、少し整理された顔だ。

「さとと話しを致しました」

「どうでしたか」

「……さとは、知っていました」

 糸子は静かに頷いた。

「何を知っていましたか」

「田辺屋と御所の装束担当商家の繋がり。そしてその商家を通じて、御所の女官長が情報のやり取りをしていること」

「さとはいつから知っていましたか」

「半年ほど前から、気づいていたと仰っていました。しかしどうすればいいか分からず、一人で抱えていたと」

「なぜ一人で抱えていたのですか」

 村岡が少し間を置いた。

「その女官長は……さとの昔からの仲間で、長年一緒に御所に仕えてきた方でした。その方を告発することができなかったと、さとは仰っていました」

 糸子は少しの間、黙った。

 さとは知っていた。しかし告発できなかった。長年の仲間への義理が、行動を止めていた。

「さとは今、どうしたいと思っていますか」

「……姫君様にお伝えすることを、わたくしに頼みました」

「さとが直接来ることは」

「難しいと仰っていました。もし自分が近衛家に来れば、田辺屋に察知される可能性があります。さとは台所方の女官長です。その方が近衛家に来ることは目立ちます」

「分かりました。村岡を通じてお伝えくださったことは、十分です」

 糸子は続けた。

「さとに一つお伝えして頂戴。今あなたが知っていることを、近衛家は大切に扱います。そして今後、さとに不利益が及ばないよう、できる限り配慮し致しますと」

 村岡が頷いた。

「もう一つ聞かせてください。田辺屋がその女官長を通じて御所の何を知っていたと、さとは思っていますか」

「……御所の食材の調達先の変更。それから、御所御用達の称号に関する動き。そして……」

「そして」

「御門様が近衛家の姫君にお会いになったことも、外に漏れていると、さとは思っているようでした」

 糸子の胸の中で、何かが静かに怒りの形を取り始めた。

 御門様の御前での話が、外に漏れていた。

 それは御門様に対する、深刻な問題だ。

 糸子は表情を動かさなかった。しかし内心では、この問題を放置することはできないという決意が固まっていた。

「村岡、さとにもう一つ聞いてほしいことがあります」

「はい」

「その女官長は今も田辺屋との接触を続けていますか」

「さとによれば……続けていると思うと。ただし直接確認はしていないと」

「分かりました」


 村岡が帰った後、糸子は少しの間、動かずに座っていた。

 御門様の御前での話が漏れていた。

 それは田辺屋に、そして田辺屋の背後にいる老中に伝わっている可能性がある。

 御門様が近衛家の姫君と話したこと。その内容に何が含まれているか。南蛮の国々についての話。御所への情報提供の話。

 それが老中の耳に入っているとすれば、老中が近衛家の動きを警戒する理由が、より具体的になる。

 これは、商売の問題ではない。

 御門様の安全に関わる問題だ。

 糸子は帳面を開いた。

 筆を持ったが、すぐには書かなかった。

 どうするか。

 選択肢は三つある。

 一つ目。何もしない。状況が自然に収束するのを待つ。しかしその間も情報は漏れ続ける。

 二つ目。さとを通じて女官長の行動を止める。しかしそれだけでは田辺屋との経路を断つことはできない。田辺屋は別の経路を探す。

 三つ目。御門様に直接お伝えする。御所の内部に情報漏洩があることを。そして御門様のご判断を仰ぐ。

 三つ目が最も正しい選択だと、糸子は思った。

 御門様に関わることを、御門様に知らせずに処理することは、できない。それは御門様を軽んじることになる。

 しかし御門様にお伝えするには、証拠が必要だ。

 さとが知っていることが証拠になる。しかしさとを表に出すことは、さとに不利益が及ぶ可能性がある。

 それをどう回避するか。

 糸子は考えながら筆を走らせ始めた。

 御門様に報告する内容を整理する。商売の状況、田辺屋の動き、老中の可能性、そして御所内部の情報漏洩の可能性。

 全てを一度に話すのではない。段階を踏む。

 まず田辺屋と幕府の動きをお伝えする。その流れの中で、御所の内部に情報の経路がある可能性を示唆する。

 さとの名前は出さない。

 具体的な証拠は示さず、可能性として伝える。

 それで御門様に問題の存在を認識していただき、御所の内部での対応を御門様のご判断に委ねる。

 近衛家が御所の内部問題に直接介入することは、越権行為になりかねない。しかし情報をお伝えすることは、臣下の務めだ。


 その夜、糸子はもう一度村岡への文を書いた。

「さとに伝えて頂戴。今すぐ行動しなくて構いません。ただし女官長の動きを、できる範囲で把握し続けてください。近衛家から御門様にお伝えする前に、もう少し状況を確認したいと思っています。さとに無理をさせるつもりはありません。できる範囲だけで」

 文を書き終えて、糸子は行灯の灯を見た。

 この問題は、近衛家の商売から始まった。しかしもはや商売の問題ではない。

 御門様の周りに、見えない穴が開いている。その穴から何が外に漏れているか、糸子には全ては分からない。

 しかし穴があることは分かった。

 それを塞ぐことが、今の糸子にできる最も重要なことだ。

 商売よりも、御所御用達の称号よりも、江戸への販路よりも、今この問題が最優先だ。

 糸子は帳面に書いた。

 御門様への次の参内。さとを通じた状況確認の継続。実光への有職故実の法的解釈依頼の継続。田辺屋への返答待ち。善次郎への江戸での情報収集継続。

 全部が繋がっている。

 一つを解決すれば、別のものが動く。

 糸子は帳面を閉じた。

 雨漏りする屋根を直したかっただけなのに、気づけばここまで来ていた。

 しかし後悔はない。

 この国に生まれて、この時代に生きている。

 それだけで、やることは決まっている。


第十一話 了

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