表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します【累計150万PV/30万UU突破!100万文字の幕末経済戦記】  作者: 1009


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

106/121

第百五話「二つの経路と帰国者たちの自負」

 粉雪が、降っている。


 江戸の空というのは、京とは違う質の灰色をしている。

 糸子がここへ来て数年近くが経つが、いまだにその違いを言葉で説明できない。


 京の空は、どれほど曇っていても底に薄い金色が滲んでいる。御所の瓦の色がそうさせるのか、あるいは千年という時間が空気そのものを染めているのか。


 しかし江戸の空は違う。鉛を薄く溶かしたような、均質で、意志のない灰色だ。

 その空から落ちてくる雪は、大粒で水っぽく、地に触れる前に消えかかっている。


 文久元年、三月上旬(旧暦)

 一橋上屋敷の奥御殿では、松割木がおこっていた。火鉢は今日に限って三つ。


 普段は糸子の机の傍に一つあればそれで足りるのだが、今日は客間として使う予定の座敷にも運ばせてある。


 小さな部屋に三つの火鉢というのは、いささかやり過ぎではないかと葵が言ったが、糸子は却下した。

 寒い中を来る客に、薄ら寒い部屋を提供するわけにはいかない。特に、今日の客は。


「姫様、そろそろお時間でございます」

 葵が襖の外から声をかける。


 糸子は文机の上の帳面を閉じ、墨を綺麗に拭いた筆を硯箱の中に収めた。


 帳面には、ここ数か月の情報が細かい字で書き連ねてある。 

 遠方からの報告、天朝物産会所を通じた動向、そして先月から断片的に入り始めた「帰国者」についての情報。


 万延元年の六月に横浜港を出発した遣米使節団が、ようやく戻ってきた。


 史実では四月に帰るはずだったのが、この世界線では、全体の行動が四か月ほど遅れた。

 そうなった理由の細かな経緯は、糸子には重要ではない。重要なのは、彼らが帰ってきたという事実だ。


 彼らが、帰ってきた。

 あの「二人」が。


 糸子はゆっくりと立ち上がり、着物の裾を手早く整えた。萌黄色の表着に、白い綿入れを重ねてある。火鉢があるとはいえ、今日の寒さはいつもより刺さるような気がした。

 足袋の上から板張りの廊下を踏むと、その冷たさが足の裏から膝の裏まで上がってくる。


(来る。ようやく、来るわね)

 思いながら、廊下を歩く。


 前世の記憶の中に、この二人はいる。一万円札の顔と、横須賀の礎石。

 しかし今、糸子が会おうとしているのは「幕末を代表する偉人」ではない。


 二十代半ばの、まだ粗削りな若者と、三十代前半の、焦燥を刃のように研ぎ澄ました壮年の男だ。

 彼らの一生は、まだこれから先にある。


 問題は、彼らをどう動かすかではない。

 どう信じてもらうかだ。


 糸子は廊下の角を曲がり、二重になった障子の前で立ち止まった。

 向こうから、火鉢の匂いに混じって、かすかに墨と紙の匂いがする。

 そして、もう一つ。


(……お酒?)

 糸子は少し眉を上げた。昼間から、少し飲んできているらしい。

(信じられない!、これでも今までいろんな人に会って来たけど…お酒の匂いを漂わせてきた人物なんて、一人もいなかったわよ)

(社会常識が無さすぎる。ひょっとしたらアメリカ行って…少し調子に乗って、勘違いしているのかしら?)

 

 話を数日前に戻す。


 村田がやってきたのは、夕暮れどきのことだった。

 彼はときに前触れなく来る。使いを寄越すこともなく、気づけばやってくる。

 今日も同じで、糸子が帳面と格闘しているときに、葵が「村田様がお見えです」と告げた。


「お上りいただいて」

 と糸子がそう言うと…間もなく、村田はすでに部屋の中に入ってきていた。


 背の高い男だ。肉付きは薄く、しかし骨格の頑丈さが着物の上からでも見える。四角く張った顎と、遠くを見るような癖のある目。

 蘭学者らしい実直さと、武士らしい切れ味が同居した顔つきは、糸子がこの時代で出会った中で、数少ない「話が通じる相手」の顔だ。


「福沢を口説いてきました」

 挨拶もなく、村田はそれだけ言った。


 糸子は筆を置き、向き直った。

「どうでした?」


「あの男は動かしやすい。知的好奇心が強すぎて、それが弱点になっております」

 村田は座る前に言い切る。糸子は苦笑した。


「座ってくださいませ、村田殿」

「失礼致します、姫様」

 村田は座った。

 彼は茶を出されても、いつも一口しか飲まない。


「どうやってお誘いなさったんですか?」

「姫様が世界の真実を聞きたがっている…と言ってやったったらあっさりと」


 あまりにも単純な言葉に、糸子はもう一度笑いそうになった。

「それだけで?」


「福沢という男はですね」

 村田は少し低く唸るように言った。

「自分が知っていることを人に話したくて堪らないたちなんです。 特に、自分だけが知っていることを。

 それが公家の姫君ともなれば、格好の相手だと思ったはずです。

 『メリケンの広さを知らない世間知らずの姫様に、俺が世界を教えてやろう』という心持ちで来るでしょうな」


 糸子は少し考えた。

「その姫が、世界を知っていたら…どうお思いになるのでございましょうか?」


 村田の眼がわずかに細くなった。

「そうなれば、話が変わりましょう。福沢も本物の同志に飢えております。ただの追従者ではなく、真正面から対話できる相手を」

「……なるほど」


「あの男は適塾で一番の変わり者でした。緒方先生も、あいつには一目置いておられた。

 書物を読む速さと、それを自分の言葉に変換する能力が、常人の者じゃない」


 村田殿が「常人じゃない」と言うときは、本当にそうなのだと糸子は経験で知っていた。

 彼は滅多に人を褒めない。

「村田殿からのお墨付きなら、信頼できまする」


「わたしは褒めておりません。ただ事実を言っているだけですよ」

「同じことでござりまする」

 村田は黙った。それが彼なりの肯定だ、と糸子はすでに知っている。


「小栗殿のほうはどうなっておりましょうか?」

 村田が続けた。


 糸子は少し表情を引き締めた。

「堀田様を通じて打診していまする。少し時間がかかっているのは、小栗殿が公務で動きを封じられているから。

 ただ……聞いた話では、幕閣への建議が悉く却下されて、相当に鬱屈されているようで」


「あの男なら、そうなるでしょうな」

「村田殿は知っているんでありましょうか、小栗殿を…」

「顔を合わせたことはあります。眼の強い男でした。

 ああいう眼をした人間は、燃やし続けるか、焼け落ちるかのどちらかです。両極端で中間がない」


 糸子は窓の外の薄暗い空を見た。

 粉雪が、障子の向こうで舞い始めていた。


「来てくれるといいのですが……」

「あの男は来ます」

 村田は断言した。


「鬱屈した者は、扉が一つ開くと走り込んでくる。ただの公家の姫様では開かない扉も、『自分の策を理解している者がいる』と知れば、話が違ってしましょう」


「横須賀に、製鉄所を建てるべきです」


 万延元年の遣米使節団として地球を一周し、帰国してからわずか三日後。小栗忠順が江戸城の評定所で放ったその一言は、居並ぶ幕閣たちの頭上に冷や水を浴びせるに十分だった。

その場に同席していたある幕臣が、後に述懐している。

「小栗の用意した資料の分量は、尋常ではなかった。

 まるで数ヶ月前から準備していたかのように、数字が、紙の上に恐ろしいほどの緻密さで整然と並んでいた」


 そこには、彼がその目で見てきたワシントン海軍工廠の全容が、冷徹な計算のもとに再現されていた。

 敷地面積から年間の鉄鋼生産量の推計、必要となる日本人技術者や職人の数。


 それだけではない。フランスから招聘すべき技師の月給や、必要となる近代的な工作機械の輸入費用、さらには建設候補地としての「横須賀」の地政学的・地質学的な優位性に至るまで、およそ当時の日本人にとっては未知の領域に属する具体策が、完璧なロジックで網羅されていたのだ。


「いいですか、この国が蒸気機関の時代、すなわち『工業化』の波に乗り遅れれば、あとは列強の食い物にされるのを待つだけです。

 これは単に軍艦を買う、買わないという次元の話ではない。国を支える『骨格』そのものを、我が国自身の力で鋳造せねばならんという話なのです」


 鋭い瞳で一同を見据え、小栗は一歩も引かずに言い切った。

 しかし、彼を待っていたのは、泥のように重い沈黙だった。


 火鉢の炭がパチリと爆ぜる音だけが、やけに大きく響く。

 集まった門閥の老中や若年寄たちは、互いに目配せを交わすばかりで、誰一人としてその数字の羅列を理解しようとはしなかった。


 彼らにとって、小栗の言葉はあまりにも飛躍しすぎた、異界の言語に等しかった。

やがて、長い沈黙を引き裂くように、一人の老練な幕閣がわざとらしい咳払いをした。

「……小栗よ。熱意は認めるが、夢物語も大概にせよ。

 そもそも、今そんな大博打に投じる予算の目途がどこにある。

 ただでさえ、金銀の流出や異国との交易で物価が上がり、幕府の財政は火の車なのだ。あまり異国の妄言に惑わされるな」


「妄言、ですか」

 その言葉が耳に飛び込んできた瞬間、小栗の体の奥底で、何かがカッと音を立てて焦げついた。


 彼の脳裏に、あのワシントン海軍工廠の圧倒的な光景が、強烈な色彩を伴って蘇る。

 広大な工場の床に、無数の巨大な機械が等間隔に並んでいた。どれもが同じ規格で作られ、一糸乱れぬ精度で動いていた。煤と油の混じり合った濃密な匂い、大気を物理的に揺さぶる重金属の駆動音。


 そして何より、人間の手仕事ではなく、「機械が、次の機械を作り出す」という、あの背筋の凍るような工業の自己増殖。


 あの日、工廠の床の隅に、一本のネジが落ちているのを見つけた。

 何気なく拾い上げ、親指と人差し指でつまんで、メリケンの陽光にかざしてみた。螺旋の刻みが、ルーペで見ても寸分の狂いもなく、冷徹に、そして美しく刻まれていた。


 これだ、と小栗は思った。


 今の日本に決定的に欠けているのは、この「一本のネジ」なのだ。

 こういう精度で、こういう均質さで、職人の勘や体調に頼ることなく、何千個、何万個も同じものを寸分違わず作り出すシステム。

 それこそが、軍艦から紡績機までを支える、近代国家の正体なのだ。


「妄言……」

 小栗は、懐の中にずっと忍ばせていた、そのメリケン製のネジを強く握りしめた。

 冷たく、そして硬い。親指の腹に螺旋の凹凸が食い込み、かすかな痛みが走る。

 だが、その痛みが、逆に彼の沸き立ちかけた血を凪がせた。

(感情で吠えるな。計算で示せ。焦りではなく、設計で黙らせるのだ)


 ネジの冷徹な硬さが、そう彼に語りかけているようだった。

 精神論の攘夷など児戯に等しい。形ある工業力、それだけがこの国を守る盾になるのだ。


「……妄言であるか否かは」

 小栗は、視線を幕閣たちから静かに外し、ゆっくりと立ち上がった。


「私が決めることではございません。後世の歴史が、自ずと判断いたしましょう」

 それだけを言い残し、彼は一礼もせず、毅然とした足取りで評定所を退出した。


 長く冷たい江戸城の廊下を歩きながらも、懐のネジを握る手は、どうしても放せなかった。


 怒りではない、と小栗は自分に言い聞かせた。怒りは思考を鈍らせ、目を曇らせる。

 今、彼の胸を支配しているのは、もっと黒く、じりじりとした「焦燥」だった。


 時間がない。列強は一秒の休みもなく進んでいる。


 あのアメリカとて、南部と北部の軋轢で、今にも国が真っ二つに割れそうな内憂を抱えているというのに、ひとたび工場に目を向ければ、その産業力は巨大な化け物のように膨らみ続けているのだ。


 日本が一年足踏みをすれば、世界との差は三年分広がる。


 このままでは、本当に手遅れになる。

(わかってくれる者が、この国に一人でもいるのか)


 黒塗りの門をくぐり、江戸の青い空を見上げた小栗の脳裏に、かつて勝海舟が語っていた「ある噂」がふと浮かんだ。


 ――京の都に、こちらの動きをすべて見透かしたかのような、妙に耳の早い公家の姫君がいる。


 その言葉を思い出した瞬間、小栗の手の中のネジが、ほんの少しだけ、熱を持ったような気がした。


 廊下の先、薄暗い角を曲がったところで、使いが一人、待ち構えていた。

「小栗様、少々よろしいでしょうか」

 堀田家からの使者だった。


 密書を受け取ったのは、それからさらに二日後のことだ。

 一橋にいる近衛家の姫君が、小栗の「工業化の策」に関心を持っているという。

 小栗は最初、笑った。声に出さない笑いだったが、唇の端が僅かに動いた。

(公家に何がわかるのだ?)


 近衛家といえば…五摂家の筆頭だ。

 摂政関白の家。


 政治ではなく儀礼を、実務ではなく格式を生業にしてきた家柄だ。

 その家の姫君が製鉄所に関心を持つ、とはどういうことか?。


 しかし、密書を読み進めるうちに、小栗の笑いは少し違う形に変わっていった。

「……近衛の姫は、勝とも繋がっているのか」


 書かれていることが本当ならば、この姫は、ただの公家の飾りではない。

 水面下で、独自の情報網を持ち、複数の知識人に接触している。

(なぜだ?)


 幕府でも朝廷でも、そのどちらでもない場所から、この国を変えようとしている者がいるとでも言うのか。


 小栗はもう一度、ネジを握った。

(試してみる価値は、あるかもしれない)


 福沢諭吉が一橋上屋敷の重厚な総門をくぐったのは、約束の刻限よりもいくぶん早い時刻だった。


 文久元年、うっすらと粉雪が舞う江戸の冬。


 二十六歳の福沢の体躯は、五尺七寸(約百七十三センチ)とこの時代の男にしては頭一つ、いや肩一つ抜けて大きい。

 適塾時代から培った頑健な骨組みに、どっしりとした筋肉が乗っている。


 着古した普段着の着流しに、小慣れた羽織を無造作に引っ掛けただけの姿は、およそ天下の五摂家筆頭・近衛家の姫君にまみえる格好ではなかったが、彼自身はそんな門閥の礼法などどこ吹く風だった。


 ただ、その無頓着な羽織の下、懐のあたりが不自然に丸く膨らんでいる。

 懐に本を抱えていたからだ。

『ウェブスター辞書』、それから『増訂華英通語』。

 アメリカから持ち帰った二冊を、彼はほとんど肌身離さず持ち歩いていた。

 この国に新しい「英語の時代」を告げる、福沢にとっての最高の実弾であり、己の誇りそのものだった。


「――お通しせよとの仰せにございます。お足元にお気をつけて」

 門番たちは福沢のただならぬ体躯と、隠しきれない怜悧な眼光に気圧されたのか、至極丁重に奥へと招き入れた。


 案内役の中間が、摺り足で長い廊下を先導する。

 福沢は高下駄を鳴らしたい衝動を抑えながら、ぐるりと上屋敷の佇まいを見回した。


 さすがは御三卿の一橋徳川家、手入れの行き届いた庭の木々、黒光りするほどに磨き上げられた廊下の杉板、どれをとっても並みの直参旗本の屋敷とは一線を画する「格」がある。


 だが、福沢の胸に湧き上がったのは、感嘆ではなく、薄暗い哀愁に似た冷めた心地だった。


(……やはり、小ぢんまりとしているな)

 脳裏をよぎるのは、つい数ヶ月前まで目にしていた、海の向こうの光景だ。

 ワシントンのホワイトハウス、広大な敷地に堂々とそびえ立つ石造りの大建築、そして大気を震わせる巨大な蒸気船。


 それらに比べれば、日本の最高峰を誇る建築でさえ、精巧に作られた木と紙の箱庭のように思えてしまう。

 西洋を見てしまった者が抱える、この奇妙な疎外感と不遜な視線。


 福沢自身、我ながら嫌な変化だと自嘲気味に息を吐きながら、案内された控室の襖を開けた。

 そして、その男の姿を認めた瞬間、福沢の思考は一瞬で撥ね回った。

(小栗殿だ)


 板間の端、冷えた空気の中に、小栗忠順が座っていた。

 いや、それは「座っている」という生ぬるい状態ではなかった。

 直心陰流の免許皆伝を持つ小栗の姿勢は、まるで抜けば一閃、相手の喉元を貫くために極限まで絞られた弓のようだった。


 膝の上に無駄なく揃えられた両手、微塵の隙もない顎の引き方。

 そして、冷徹なまでに澄んだ鋭く大きな瞳が、静かに動いて福沢の巨躯を射すように捉えた。


「……これはまた、妙な組み合わせになりましたな」

 福沢はわざとらしく肩をすくめ、豪快に笑ってみせた。沈黙に支配されていた室内に、彼のよく通る声が響く。


 しかし、数え年で三十五歳になる幕府の俊英・小栗は、眉一つ動かさなかった。


「福沢殿か」

「はい、福沢諭吉でございます。と言っても、使節団でご一緒しましたから、お顔はご存知で」

「知っている」

 言葉の短さは、そのままこの男の意志の硬度を表しているようだった。

 福沢は少し間を置き、小栗の斜め向かいへと腰を下ろした。


 二人の間に、再び張り詰めた沈黙が落ちる。部屋の中央には、小さな火鉢が一つ。

 熾った炭の微かな爆ぜる音だけが、薄い壁一枚を隔てて外で舞う粉雪の冷気とせめぎ合っている。


 先に口を開いたのは、旺盛な好奇心とユーモアを隠そうとしない福沢だった。

「小栗様は、なぜここへ?」

「それはこちらが聞きたい」

「私は、聡明な姫君が世界の事情を聞きたがっているというので、教えに参った次第です」

 福沢は少しおどけたように言った。小栗の視線がわずかに動いた。


「……教えに?」

「ええ。メリケンという場所がいかに面白い国か、とくと講釈して差し上げようと思いまして」

「公家の姫君にか?」


「公家の姫君様に…ですとも。生まれと家柄だけで生きてきた方には、メリケンの話はさぞかし刺激的でしょう。

 天下の近衛家の姫様でも、ワシントンの大統領の孫が今どこで何をしているか、ご存知ではないでしょうからな」

 小栗は鼻を鳴らし、それ以上は何も語らなかった。


 福沢はその沈黙を、幕臣特有の公家への冷笑、あるいは己の合理主義への無言の同意と受け取った。


 二十六歳の福沢の胸中には、確固たる自負があった。

 今、この国で最も世界の本質を理解し、次の時代の道標を握っているのは、他でもない自分自身であるという、揺るぎない確信。懐に抱いた辞書が、彼の皮膚を通じて熱を帯びていく。


 一方、小栗忠順の胸の内にあったのは、福沢のような啓蒙の愉悦ではなく、五臓六腑をじりじりと焼き焦がすような「焦燥」だった。


 帰国直後、幕閣へ上申した「横須賀へのフランス式製鉄所建設」。

 それに対する、譜代・門閥たちの「予算がない」「異国の妄言に惑わされるな」という冷淡な一蹴。


 あの言葉が、今も小栗の耳の奥で呪いのように響いている。

(妄言だと……? メリケンのあの圧倒的な工業力、寸分の狂いもない機械の林を、見もせずに何が妄言か!)


 小栗は懐の中で、一本のネジを無意識に握りしめていた。

 ワシントン海軍工廠の床から拾い上げた、美しく螺旋を刻む、アメリカ製のネジ。

 冷たく硬い金属の感触が、親指の腹に食い込んでかすかな痛みを伝えてくる。


 焦りではない、これは計算だ。


 日本が一年遅れれば、列強との差は三年分広がる。

 この鬱屈とした現状を打開できるなら、たとえ公家の裏ルートであろうとも、藁をも掴む思いで一橋邸へ足を運ぶ――それが小栗の、武士としての、そして一国の骨格を担う者としての鉄の意志だった。


「……来るようですな」

 小栗の地を這うような低い声が、室内の空気をぴりりと震わせた。


 静まり返った廊下の向こうから、かすかな絹擦れの音と、迷いのない足音がこちらへ近づいてくる。


 幕末を代表する二人の偉人が、同時に背筋を正し、襖の向こうへと視線を向けた。


 葵が襖を開けた。

「お二人を、お通しいたします」

 と言った。その言葉は、どこか淡々としていて、しかし礼儀正しい。


 二人は立ち上がり、葵の案内で廊下を歩いた。奥御殿の主室へ続く廊下は、外の粉雪の音さえ届かないほど静かだった。


 板張りの廊下が、足音を吸い込むように鈍く響く。香木の甘い匂いが、少しずつ濃くなった。


 龍脳りゅうのうか、あるいは白檀か。公家らしい匂いだ…と福沢は思った。


 主室の前で葵が立ち止まり、そっと引き手に手をかけた。

 重い、低い音がして、二枚の大きな襖が開く。

 部屋は、思いのほか広かった。


 板間と畳が組み合わされた、少し珍しい作りだ。中央に三つの火鉢が等間隔に置かれ、その赤い光が部屋全体を柔らかく照らしている。

 天井が高い。普段はここを何に使っているのかと訝しむような、広さだ。


 そして、部屋の奥に。

 薄い竹で丁寧に編まれた「御簾」が、吊り下げられていた。

 上から下まで、細い竹の格子が規則正しく並んでいる。

 光を通すが、向こうの姿はぼんやりとしか見えない。御簾の色は若草色で、先が金色に染められた縁飾りがついている。


 福沢は御簾を見て、一瞬、自分が公家の屋敷に来たという実感を持った。

(なるほど、公家というのはこういうものか)

 ついつい比べてしまう。


 アメリカでは、初めて会う人間でも目を見て直接話す。握手をして名前を言う。

 生まれも身分も関係なく、その場で対等に扱われる。


 しかしここでは御簾だ。

 格式と儀礼と、目に見えない壁。


 少し微笑ましいと福沢は思った。


 小栗忠順は、御簾をひとつ見て、無言でその場に腰を下ろした。

 彼にとって、こういった武家や公家の形式は日常だ。

 膝を揃え、背筋を立て、しかし懐の中でネジを握る手は、解かれていない。


 二人は火鉢の前に並んだ。

 火の暖かさが膝の下から上がってくる。外の粉雪は、もう遠い世界のことだった。

 香木の甘い匂いと、火の熱と。


 そして、福沢の着物から微かに漏れている酒の香り。


 御簾の向こうに、人の気配がある。

 小さな気配だ。しかし揺れない。

 動揺していない。


 二人の武家と、武家以上の自負を持つ知識人が眼前に現れても、御簾の向こうの気配は、まるで水面のように静かだった。


(子ども、か)

 小栗はそう思った。十三歳だと聞いていた。


 公家の姫君。

(しかし…)

 その「静けさ」が、少し引っかかった。

 恐れからくる静けさではない。迎える側の余裕か、それとも——


 小栗と福沢は共に御簾の前で平伏する。


 御簾の隙間から透ける二人の姿を、糸子は静かに見下ろしていた。


(……それにしても、信じられない!)

 糸子は内心で、こっそりと天を仰ぎそうになった。

 

 鼻腔をくすぐる香木の香りに混じって、明らかに漂ってくるのは、ツンとした安酒の匂いだ。平伏している大柄な男——福沢諭吉の衣服から漏れ出ている。

(これから高位の人間に会おうっていうのに、お酒を引っかけてくるなんて。将来、自分が一万円札になるからって、調子に乗っているのかしら?。まぁ、本人はまだそんなこと知る由もないのでしょうけれど!)


(…それなら単なるアル中か?)

 呆れを通り越して、もはや笑いしか出てこない…が、糸子はすんでのところで表情を引き締めた。


 酒臭い男ではあるが、その双肩に漂う自負は…本物……???。

 懐に抱えた「洋書」の重みを誇るかのように、男の背中には既存の秩序を恐れない、不敵なまでの生命力が満ち満ちている。

(…しかし、調子に乗っているのか?、または勘違いしているのか?、恐れを知らないだけなのか?。まさか、バカってことはないわよね?)


 一方で、その隣に座る小栗忠順の気配は、福沢とは対照的だった。

 張り詰めた硬質な空気。まるで、ギリギリまで引き絞られた鋼の弓のようだ。

 衣服の隙間から覗く首筋の筋肉、一糸乱れぬ座り方、そして何より、その胸の奥から発せられる、爆発寸前のマグマのような「焦燥感」。


 世界を見てきてしまったがゆえに、この国の遅れに絶望しかけている孤独が、御簾の向こうまで痛いほどに伝わってくる。

(うーん、小栗氏は逆に硬すぎるわね、なんか余裕が無さすぎる感じね…)


 糸子は胸の内で小さく微笑み、二人を値踏みするような視線を、そっと声音の奥に隠した。


「大儀である。面を上げられよ」

 御簾の向こうから、声が来た。

 子どもの声だ。


 しかし、そこには奇妙なほど落ち着きがある。高いが、柔らかく、そして、どこかに切れ味がある。

「近衛糸子と申す。今日はよう参ってくれました」


 福沢は居住まいを正した。

 思わず…だった。


 何か…その声に「正さなければならない」と思わせる何かがあった。

 おどけた気持ちが、一瞬で鎮まった。


 小栗も知らず知らずのうちに、懐のネジを握る力を、わずかに緩めていた。


(これは……)

 二人の胸に全く同じとは言えないが、似たような感触が生まれていた。

 これは、単なる形式の対面ではない。


 御簾の向こうの少女が、次の言葉を探している。それが伝わってくる。


 しかし焦っていない。急いでいない。時間をちゃんと自分のものとして使っていた。

「お二方が、アメリカを御覧ぜられたる方々と承り及び候」

「さようでございます」

福沢が答えた。


「それは、いと良うございました」

 …よかった、という言葉の使い方が妙だった。


「よかった」とは普通、何かの結果に対して言う言葉だ。

 しかし糸子の言い方は、まるで長いこと待っていた何かがようやく揃った…そういう使い方だった。


「本日は、ゆかりあることなど様々に承りたく存じます。なにとぞ——」

 一拍、間があった。


「包み隠さず、ありのままにお聞かせ願いとう存じます」

「——はっ」

 小栗が、思いがけず深く頷いていた。


 福沢は横目でそれを見た。自分も、同じように頷きかけていたことに気づき、内心で苦笑した。

(なんだ、この姫君は…)


 子供の…公家の姫君だ。世間知らずの雛人形のような。メリケンの広さを教えてやろうと思っていた相手だ。

(しかし、御簾の向こうの気配は…いったい?)


 三つの火鉢が静かに燃えている。

 粉雪が、屋根の上で、音もなく降り積もっている。

 香木の匂いが、緩やかに空気の中に溶けている。


 その全てを、静かに、しかし確実に掌の中に握り込んでいるような——

 そういう気配が、御簾の向こうにあった。


 福沢諭吉は、生まれて初めて「世界の広さを教えてやろう」と思った相手に、少し慎重になった。

 小栗忠順は、懐のネジをゆっくりと放した。


「では……」

 御簾の向こうから、糸子の声が再び来た。

「何はさておき、そのメリケンと申す国の()の面影を、承りたく存じます」


 その「今」の一字に、二人は微かに反応した。

「今」と確かに言った。


 過去のことでも、概念のことでも、感想のことでもなく——「今」を聞いた。

(この姫は、一体何を知っているのか?)


 それが小栗忠順と福沢諭吉への問いとなり、奥御殿の空気を音もなく、深く揺さぶった。


 第百五話 了

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
数百のなろう作品を読みましたが初めて感想なるものを書き込みます。 幕末と世界の激動が姫の綿密(たまに腹黒)な計画でハリスの時のように爽快な場面のカタルシスが得られ、ここまで1週間で一気に読み進めまし…
英語で話し掛けるのも面白いかも
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ