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幕末に転生したら近衛家の姫でした。まず屋根を直します  作者: 1009


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第十話「老中の影と、広橋の決断」

田辺屋への返答文を使いに持たせて送り出した翌朝、近衛家に来客があった。

 広橋権中納言だった。

 前回と違うのは、使いを先に寄越さなかったことだ。事前の知らせなく、直接訪ねてきた。

 お梅が糸子に知らせに来た時、その顔が少し緊張していた。

「姫様、広橋様がお見えで。父上様にお通しするよう申し上げましたら……『糸子殿に直接お話しいたしたい』とおっしゃっていて」

 糸子は帳面から顔を上げた。

 父上ではなく、糸子に直接。

 それは前回とは全く異なる来訪の形だ。前回は父上への正式な申し入れという体裁だった。今回は糸子個人への話ということになる。

 この違いは大きい。

「父上にはお伝えしましたか」

「はい。父上様は、姫様のご判断に任せると」

「では通して頂戴。父上にも同席していただけるよう、お伝えして」

 お梅が少し躊躇した。

「姫様に直接、とおっしゃっているのですが」

「父上が同席することに広橋様が異を唱えるようであれば、その時に判断します。まずはお通しして」


 座敷に入ってきた広橋権中納言の顔は、前回とは確かに違った。

 前回は牽制の意思があった。しかし今回は、その色がない。

 代わりにあるのは、何か切迫したものだ。

 父上が同席していることを見て、権中納言は少し間を置いた。しかし異を唱えることなく、頭を下げた。

「近衛様、急な訪問を失礼いたしまする」

「いいえ、よくいらっしゃいました」

 父上が穏やかに答えた。

 権中納言が座った。

 今回、広橋実光の姿はない。権中納言一人だ。

 糸子は権中納言を見た。

 言葉を待つ。

 急かさない。相手が切り出すまで待つ。

 権中納言がしばらく手元を見てから、顔を上げた。

「糸子殿、少々……近衛様のお耳に入れておくべきことがございまして」

 父上への言葉だが、糸子への言葉でもある。糸子を主体として認めた言い方だ。

「田辺屋の件でございますか」

「はい。……昨日、田辺屋から近衛家への文書が届いたことは、すでにご存じのことと思います」

「存じております。先ほど返答をお送りしました」

 権中納言が少し目を細めた。

「すでに返答を」

「はい」

「……どのような内容で」

「御所御用達の称号が正式に下されたことを前面に出して、近衛家の商売は御所への臣下の務めであることを改めてお伝えしました。組合との調整については、特に触れておりません」

 権中納言がしばらく黙った。

 糸子は権中納言の表情を読んだ。

 安堵、ではない。しかし最悪の状況ではないという判断が浮かんでいる。

「糸子殿、あの文書に連名した商家の中に……少し込み入った事情を持っているところがございます」

「込み入った事情、とは」

 権中納言が少し間を置いた。

「幕府の老中の一人が、近衛家の動きを面白くないと思っている可能性がありまする」

 座敷の空気が変わった。

 父上の顔色が変わった。

 糸子は表情を動かさなかった。しかし内心では、素早く考えを回した。

 老中。

 幕府の政治の中心にいる人間だ。田辺屋が組合として動いてきたことの背景に、老中の意向がある可能性。

 これは想定より一段大きな話だ。

「どの老中様でございますか」

「名前は……今の段階では申し上げられません。確証がないままお名前を出すことは、お互いにとって良くないことになりますので」

「では、なぜそのようなことを今日お伝えくださるのですか」

 権中納言がじっと糸子を見た。

「……前回ここに来た時、わたくしは近衛家の商売への異議申し立てのつもりで来ました。しかしあの後、よく考えました。近衛家がなさっていることは、御所への臣下の務めから始まったことです。それを問題視するのは……本来おかしいのではと…」

「しかし今日いらっしゃったのは、そういうお話ではないようでございます」

「はい。倅が……実光がここに来ていることは知っています」

 糸子は少し間を置いた。

「知っておられましたか」

「実光は隠すのが上手くないのです」

 権中納言が少しだけ表情を緩めた。しかしすぐに戻った。

「倅が近衛家に来て何をしているかは、詳しくは聞いていません。ただ……実光が動いているということは、近衛家のなさっていることに正当性があると、実光が判断したということです。実光の判断は、信用しています」

「……それが、今日いらっしゃった理由でございますか」

「一つには」権中納言は答えた。「もう一つは……老中が動いているとすれば、近衛家だけでは対処できない可能性があります。それをお伝えしておくことが、必要かと思いまして」

 父上が静かに言った。

「広橋様、それは……近衛家への忠告として、お伝えいただいているということでしょうか」

「はい。前回の訪問とは逆の立場で参りました」

 父上がしばらく黙った。

 糸子は権中納言を見た。

「広橋様、幕府の老中が関わっているとすれば、その方はなぜ近衛家の動きを問題視なさっているのでしょうか」

「それが……少し複雑でございまして」

「お聞かせいただけますか」

 権中納言がゆっくりと言った。

「近衛家の商売そのものを問題視しているわけではないかもしれません。御所が独自に情報を集め始め、独自の商いを通じて力を蓄えていることへの……警戒だと思います」

「御所への警戒、でございますか」

「幕府は長年、御所の動きを把握し、御所が独自に動かないよう管理してきました。御所御用達の称号が近衛家に下されたことは、幕府にとっては御所が独自に判断を下したことになります。その判断の背景に何があるのかを、幕府は知りたいと思っているはずです」

 糸子は少しの間、黙って考えた。

 幕府が警戒しているのは、近衛家の商売ではなく、御門様の動きだ。

 御門様が近衛家を通じて何かをしようとしているのではないかという、幕府の警戒心。

 それは……糸子が考えていた以上に核心に近い問題だ。

「広橋様、一つ聞かせてください」

「はい」

「幕府の老中がこの問題に動いているとすれば、どのような形で動いてくると思われますか」

 権中納言が少し考えた。

「直接的に近衛家に何かを求めてくることは……まず考えにくい。朝廷の五摂家筆頭に正面から圧力をかけることは、幕府にとっても御所との関係上、慎重にならざるを得ません」

「では間接的に」

「御用商人組合を通じた経済的な圧力。あるいは……朝廷内部の別の公家を通じた働きかけ。幕府に近い公家は何家かございますので」

「幕府に近い公家を通じた働きかけ、ですか」

「はい。それが最も幕府らしいやり方です。直接動かずに、間接的に」

 糸子は頷いた。

 これは前世の知識とも合っている。幕府は朝廷に対して、直接介入するのではなく、朝廷内部の幕府寄りの人間を通じて影響力を行使することを得意としていた。

「広橋様、その幕府に近い公家というのは、どのような御家でしょうか」

「……それは、お答えが難しい」

「分かりました。それ以上は聞きません」

 権中納言が少し安堵した顔をした。

「しかし」糸子は続けた。「もし今後、そのような御家から近衛家に何か接触があった場合、広橋様に相談させていただけますか」

「……それは構いません」

「ありがとうございます」


 広橋権中納言が帰った後、父上がため息をついた。

「糸子、これは……老中が動いているとなると、話が大きくなりすぎないか」

「大きいですね」

「どうするつもりだ」

「今日すぐに動く必要はないと思います。まず田辺屋からの返答を待ちます。同時に、幕府がどの公家を通じて動くか、少し状況を見ます」

「見ているだけでいいのか」

「見ながら準備します」

「何の準備だ」

「御門様への次の報告の準備です」

 父上が糸子を見た。

「御門様を……この問題に巻き込むのか」

「巻き込むのではありません。御門様はすでにこの問題の中心におられます。幕府が警戒しているのは、御門様の動きだからです。ならば御門様に、正確な状況をお伝えする必要があります」

「しかし御門様に幕府の動きをお伝えすることは……」

「御門様が知る権利のある話です。御所に関わることを、御門様が知らないままでいることのほうが、問題です」

 父上がしばらく黙った。

「……分かった。ただし御門様にお伝えする前に、一度わたしにも内容を確認させてくれ」

「もちろんでございます」


 その夜、糸子はお梅を通じて実光に短い文を送った。

 内容は一行だった。

「お父上がいらっしゃいました。詳しくはお会いした時に」

 返事は翌朝に来た。

 実光の文字で、こう書いてあった。

「父が参りましたか。明日伺います」


 実光が来たのは翌日の午後だった。

 今回は父親と来たわけではなく、一人で来た。

 座敷に入った実光の顔に、少し複雑なものがあった。

「父が来たと伺いましたが…」

「はい。昨日。少し大切なことをお伝えいただきました」

「田辺屋の件でしょうか」

「それ以上のことです。老中が関わっているかもしれないという話を」

 実光の顔が変わった。

「老中が……」

「実光様はご存じでいらっしゃいましたか」

「……父から詳しく聞いたことはありません。ただ、田辺屋の文書に組合として連名されていることに、少し驚いていました。あれだけの組織を動かすには、後ろにそれなりの力が必要だと思っていましたが」

「実光様の推測では、どの老中様だと思われますか」

 実光が少し間を置いた。

「推測しか申し上げられません。しかし……近衛家の商売が御所と直接繋がりを持つことを最も警戒するとすれば、幕府と朝廷の関係を管理している立場の方になります」

「それはどのような立場ですか」

「京都所司代を管轄している老中か、あるいは朝廷との交渉を担当している老中です」

 糸子は頭の中で考えた。

 幕末の老中の名前が、前世の知識に浮かんだ。

 しかし今の時点でどの老中が動いているかは、まだ確定できない。広橋権中納言も名前を出さなかった。

「実光様、一つお聞きしてよろしゅうございますか」

「はい」

「実光様は、有職故実の知識を持っておられます。幕府が朝廷に対して介入できる範囲と、できない範囲について、どのようにお考えですか」

 実光が少し考えた。

「幕府が朝廷に対して直接命令を下すことは、建前上はできません。あくまで朝廷と幕府は別の権威として存在しています。しかし現実には、禁中並公家諸法度という法度があり、朝廷の行動に一定の制限が設けられています」

「禁中並公家諸法度……それは今も有効ですか」

「有効です。それによれば、朝廷は学問と礼を本分とし、政治的な判断は幕府に委ねるという原則があります」

「近衛家の商売は、その法度に抵触しますか」

 実光がしばらく考えた。

「……厳密に解釈すれば、公家が商いを行うことは法度の精神から外れると言えなくもない。しかし御所への臣下の務めとしての活動は、法度の範囲内とも解釈できます。解釈によって変わります」

「解釈を決めるのは誰ですか」

「最終的には……幕府です。しかし御所の判断も無視できません。御所御用達の称号が下されたことは、御所が近衛家の活動を認めたという御所側の解釈です。幕府がそれと異なる解釈を示した場合、朝廷と幕府の解釈が対立することになります」

「それは幕府にとっても、やりにくい状況ですね」

「はい。だから直接的には動きにくい。間接的な手段を取ってくる可能性が高い」

 糸子は頷いた。

「実光様、今後この問題が大きくなった場合、法度の解釈について正式な見解をまとめていただけますか。近衛家の活動が法度の範囲内であるという根拠を、有職故実と法度の条文に基づいて」

「……それは、幕府への反論の根拠として使うということでしょうか」

「使う必要が出た時のための準備です。今すぐ使うわけではありません」

「分かりました。準備しておきます」

 実光が少し間を置いてから言った。

「姫君様、父がここに来た理由は……父なりに、近衛家を守ろうとしたからだと思います」

「分かっていおります」

「前回は異議申し立てに来て、今回は情報を持ってきました。父は一貫しているようで、実は揺れています。近衛家を完全に敵視しているわけでも、完全に支持しているわけでもない」

「それは自然なことです」

「はい。しかしその揺れが……父がここに来てくださる理由でもあります」

 糸子は実光を見た。

「実光様、お父上との関係は大丈夫でございますか」

「……難しい質問でございますね」実光が少し笑った。「父とは意見が違います。しかし父を尊重していることは変わりません。意見が違っても、同じ方向を向いていることはあります。この国のことを心配しているという点では、父もわたしも同じですので」

「それで十分でございます」


 実光が帰った後、糸子は一人で帳面を開いた。

 今の状況を整理する。

 田辺屋への返答文は送った。返答待ち。

 老中が関わっている可能性がある。幕府は直接動かず、間接的な手段を取ってくると推測される。朝廷内の幕府寄り公家を通じた働きかけが考えられる。

 御門様への報告を準備する。状況が大きくなっている以上、御門様に現状をお伝えすることが必要だ。

 実光に法度の解釈についての文書を準備してもらう。これは切り札の一つになる。

 そして今の段階では、広橋権中納言という予想外の協力者が加わった。

 糸子は少し考えた。

 権中納言は前回、異議申し立てに来た。今回は情報を持ってきた。それは権中納言の中で何かが変わったからだ。

 何が変わったのか。

 実光が動いていることを知った。実光の判断を信用している。そして田辺屋の背後に老中がいる可能性を知り、それを近衛家に伝えることが必要だと判断した。

 権中納言は、この国の将来を心配している人間だ。変化を恐れる側にいるが、変化しないことのリスクも分かっている。

 そのバランスの中で、権中納言は動いた。

 糸子はこれを無駄にしてはいけない。

 権中納言を近衛家の敵から、少なくとも中立、できれば協力者として扱う。

 そのためには、権中納言が情報を持ってきてくれたことへの感謝を、形で示す必要がある。

 形で示す、というのは贈り物や謝礼ではない。

 権中納言が伝えてくれた情報を活かして、近衛家が適切に対処できることを示すことだ。うまくいった時に、権中納言にもその結果が分かるようにする。それが最大の謝礼になる。


 翌朝、糸子はお梅に頼んで村岡に文を送った。

 内容は短い。

「田辺屋と御所の装束担当商家の関係について、引き続き調べていただけますか。急がなくて構いません」

 返事は夕方に来た。

「少し分かりました。詳しくは次に伺う時に」

 糸子は返事を読んで帳面に書いた。

 村岡が動いている。善次郎も江戸で動いている。実光が法度の解釈を準備している。権中納言が情報を持ってきてくれた。

 四人が四つの方向から動いている。

 それぞれが見ている場所が違う。だからそれぞれから入ってくる情報が違う。

 その情報を全部集めて、全体の地図を作るのが糸子の仕事だ。

 前世の百貨店で、複数の取引先と同時に交渉しながら、全体の調達計画を立てていた時の感覚に似ている。

 しかし今は、商売だけではない。

 政治と、情報と、人のつながりと、歴史の流れが全部絡んでいる。

 糸子は帳面を閉じて、窓の外を見た。

 冬の夕暮れが、御所の方向に落ちていく。

 御門様は今頃、何をお考えだろうか。

 次に御所に上がる時、糸子は今日分かったことを全て整理してお伝えする。南蛮の国々についての情報だけでなく、幕府の動きについても。

 御門様にとって、幕府の動きは知っておくべきことだ。

 御所が独自に動き始めたことへの幕府の警戒。それを御門様がご存じないままでいることは、御門様にとっても不利益だ。

 知ることが力になる。

 それはこの時代も、前世も変わらない。

 糸子は立ち上がって、着物の裾を整えた。

 まだやることがある。

 今夜中に、御門様への報告の下書きを作る。

 田辺屋の件、老中の可能性、広橋権中納言の情報、実光の法度解釈の準備……これらを全部整理して、御門様にお伝えできる形にまとめる。

 そして次の御所への参内の機会を、さとを通じてお願いする。

 一つずつ。

 確実に。

 それだけだ。


第十話 了

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