転移
雪の匂いも、鉄の匂いも、血の匂いも、何一つしない。
ただ、草の仄かに甘い香りと、暖かな土の匂いだけ。
体を起こそうとして、初めて気づく。
具足を身に着けていない。
重い鉄の感触が消えている。
代わりに、薄い麻の着物のようなものが体を包んでいる。
幸い、周囲を手でまさぐると、太刀は身体のそばに横たわっていた。
太刀を拾い上げながら、撃たれたはずの右肩にも手をやるが、痛みはない。
銃創すらなく、傷はもともと無かったかのように完全に塞がっている。
腕も、足も、ただ普通に、温かく動く。
「…俺は、死んだのか?」
声に出してみる。
自分の声が、妙に澄んで聞こえる。
死後の世界などというものは、考えたこともない。
もともと、神仏にすがるような人間ではなかった。
だが、いま眼前に広がるこの光景は……今まで経験した数多の血生臭い戦場と比べると、あまりにも穏やかだった。
馬廻りの者たちも、秀吉の軍勢も—
周囲には誰もいない。
ただ、成政一人が太刀を携え、そこに立ちすくんでいる。
何をするでもなく、案山子のように過ごし、四半時も経った時だろうか。
突如、黒雲が渦を巻き、雷鳴のような低いうなり声が響く。
そして———落ちてきた。
どすん、という鈍い音が響くとともに、地面が震え、土煙が舞い上がる。
牛一頭分はあろうかという、黒く鈍く光る大蜘蛛。
分厚い胴体から生える八本の脚は太い槍のように鋭く、腹部には赤い紋様が脈打ち、口器からは粘つく毒液が滴り落ちて、草花を溶かしている。
言葉は通じようはずもないが、大蜘蛛の赤い目から明確な殺意が成政へ向けられる。
成政は、舌打ちをしつつ即座に手にしていた刀を抜き、鞘を放り投げる。
「これも幻術の続きだというのか!?」
大蜘蛛は一瞬で距離を詰め、鋭い脚を振り下ろす。
成政は紙一重で横に飛び、地面に残った脚の跡が深く抉れているのを見るや、再び苦々しげに舌を鳴らした。
「鉄砲があれば…」
詮無いことを口にしつつ、足元の小石を拾う。
独り言ちている間に、大蜘蛛は糸を吐き、彼の足元を絡め取らんとする。
具足を身に着けていないせいか、普段よりもずいぶんと身軽に感じる。
粘糸を全て躱すと、跳躍し、大蜘蛛の胴体に取りついた。
蜘蛛の首に向け、刃を突き立てる———が、固い甲殻に阻まれる。
「ぐっ……」
蜘蛛が暴れ、成政を振り落とそうとする。
態勢を崩しながらも、投げつけたつぶてが大蜘蛛の赤い目のひとつに当たる。
一瞬、動きが止まった。
その隙に成政は地面に転がり、大蜘蛛の脚の付け根を狙って斬り付ける。
関節が裂け、黒い体液が噴き出す。
大蜘蛛の脚のバランスが崩れ、巨体がよろめく。
「もらった!」
息を整え、地面を蹴って一気に大蜘蛛の懐に入り込む。
刀を逆手に持ち替え、腹部の柔らかい部分へ渾身の一撃を叩き込んだ。
轟音を立て、大蜘蛛が地面に倒れこむ。
———だが、大蜘蛛は死んでいなかった。
腹部に深く抉られた傷口から、黒い体液が大量に噴き出し、巨体が地面に崩れ落ちた瞬間——
成政は一瞬だけ、勝利の余韻に浸る隙を見せた。
だが、次の刹那。
倒れたはずの蜘蛛の腹部が、異様な音を立てて膨張し始めた。
裂けた傷口から、赤黒い光が漏れ出し、まるで内側から何かが這い出そうとしているかのように脈打つ。
「…!」
成政が刀を構えなおした瞬間、大蜘蛛の腹が爆ぜた。
無数の細い脚と牙を持つ「子蜘蛛」たちが、黒い噴水のように噴き出し、成政を取り囲む。
親蜘蛛は死んだのではなく、肉体を再生し始めたのだ。
肉が蠢き、急速に傷口が塞がっていく。
毒液が混じった体液が地面に落ちるたび、草花は枯れ、土が黒く染まる。
成政は後退し、子蜘蛛の群れを薙ぎ払う。
刀が閃く度に子蜘蛛は両断され、緑色の体液をまき散らす。
だが、数が多すぎる。
数匹が成政の腕に、脚に絡みつき、鋭い牙を突き立てようとする。
成政は振り払うも、左腕に鋭い痛みが走る。
噛まれた——
親蜘蛛の肉体はほぼ再生し、ゆっくりと立ち上がる。
八つの複眼が赤く輝き、成政を睨む。
先ほどより明らかに凶暴さを増した気配。
腹部の傷跡は塞がり、新たに生えた剛毛が針のように逆立つ。
「クソッ……!」
成政は歯を食いしばり、毒で痺れ始めた左腕を無理やり動かす。
子蜘蛛の群れを蹴散らし、親蜘蛛へと突進する。
だが、今度は蜘蛛の方が一枚上手だった。
巨大な前脚が鎌のように振り下ろされると、何とか躱す。
地面が深く抉られ、成政の身体が軽く浮く。
その隙に、後ろから別の脚が横薙ぎに成政を襲う。
骨が軋み、身体が横に吹き飛ばされる。
地面を転がりながらも、何とか体勢を立て直す。
血が口から滑り、視界が僅かに揺れる。
大蜘蛛はゆっくりと成政に近づく。
今度は急がない。
獲物が弱っているのを確信しているかのように、じわじわと距離を詰めてくる。
口器から滴る毒液が、地面に落ちるたびに小さな穴を開ける。
成政は膝をつきながらも、何とか身体を支える。
息が荒い。
毒が全身に回りつつあり、全身が熱く、重い。
「……まだ、じゃ」
低く呟き、ゆっくりと立ち上がる。
左腕はほどんど動かないが、太刀を持つ右腕は微塵も揺らいでいない。
戦国を駆け抜けた猛将の目は、なおも鋭く燃える。
大蜘蛛が、突如速度を上げ、最後の突進を仕掛ける。
八本の脚が一斉に地面を蹴り、巨体が跳躍する。
その瞬間———
成政は毒に侵された体を無理やり蜘蛛の懐へ滑りこませた。
逆手に持った刀を、再生しきっていない腹部の傷跡に、再度、渾身の力で叩き込み、捻じ込み、抉り込んだ。
大蜘蛛の断末魔が、空を切り裂く。
巨体が崩れ落ち、子蜘蛛も一斉に霧散した。
成政も、大の字になり地面へ倒れ込む。
全身に血と毒が滴り、視界が暗くなる。
薄れゆく意識の中、蹄音が近くなり、何者かが成政へ声を掛ける。
「成政殿、相変わらず無茶をするのう」
その言葉が、成政に届いたかは定かでない。




