立山
白い吐息が、甲冑の面頬の隙間からゆっくりと漏れる。
隣にいる男の声は低く、雪に吸い込まれるように響く。
「殿、まことに立山を越えるおつもりか?」
殿と呼ばれたこの男――佐々成政は、ゆっくりと首を動かし、相手を見る。
甲冑は古びて、ところどころ雪に覆われている。兜の下から覗く目は、忠義と不安が混じった色をしていた。供回りは数えるほどしかいない。 皆、凍てついた風に肩を縮め、槍や刀の柄を握りしめている。
牡丹雪がまた、一片、成政の鼻先をかすめて落ちる。
…立山。
越中から信濃へ抜ける、誰も通らぬ冬の道。ザラ峠、針ノ木峠。雪は人を呑み、風は骨まで凍らせる。
指の感覚がないのは、すでに凍傷の始まりか。それとも、ただの恐怖か。
成政は息を吸い、吐き出す。白い霧が広がる。
「…越えねばならぬ」
声は掠れていた。だが、言葉は続けた。
「聞けば、信雄様と家康公は秀吉めと和睦の構えという。浜松へ至り、これを翻意させるには、この立山を越えるほかないのだ」
男は目を伏せ、雪を踏む音を一つ立てた。
「…されど、殿。この立山は、容易く人を殺します。すでに二名――。残るはわずか。もしここで引き返せば――」
「引き返せば、越中は落ちる。民は飢え、俺の首は秀吉の前に転がる。それでよいのか?」
沈黙。
問答の間も、白魔は静かに降り積もる。
成政も、雪に足を取られ、転倒する。
体を起こそうとするが、よろめく。
甲冑の重さが、今は鉛のようだ。膝をつき、雪に手をつく。冷たさが骨まで刺さる。
…まだ、動ける。
「進め」
やおら立ち上がり、雪を払う。
「いまは、遮二無二進むのだ。家康公に会うまでは、死ぬわけにはいかぬ」
供の男は一瞬、目を瞑った。そして、ゆっくりと頷く。
「…はっ」
他の者たちも、無言で槍を握り直す。
また、雪の勢いが強くなる中、再び歩き出した。
一歩ごとに、少しずつ、しかし確実に体力が奪われてゆく。
歩を進めていくと、ふと、硝煙の匂いが鼻をかすめる。
顔を上げると、ここにいるはずがない男の姿を成政の瞳が映す。
馬鹿な。
馬上から、派手な甲冑を着込んだ小柄な男が、薄ら笑いを浮かべながら甲高い声でこちらに言葉を投げかけてくる。
「成政殿、相変わらず無茶をするのう」
その声は、雪の白さに溶け込むが如く、嘲るように響いた。
目の前に広がるのは、一面の銀幕を突き破るように並ぶ、無数の影。
甲冑の鈍い光、槍の穂先が雪を刺す音、馬のいななきさえ雪に飲み込まれそうになる。
雄に百倍、いや、それ以上の軍勢。
そしてその中央に、猿のような顔立ちの男――羽柴秀吉。
なぜここに?
立山の雪原の真ん中で、なぜ秀吉の軍が?
俺は幻術を見せられているのか?
成政は言葉も出せず、考えが逡巡するが、答えは出るはずもない。
周りの家臣たちが、槍を構え、息を呑む。
指の感覚がないまま、俺はゆっくり刀の柄に手をやる。
成政の体が、震えていた。怒りか、恐怖か、それとも両方か。
秀吉が馬を進め、一歩近づく。
白い息を吐きながら、にやりと笑う。
「成政殿よ。立山を越えて家康に泣きつくとは、相変わらず一本気じゃのう。
だがのう、儂はもうお前の動きをすべて読んどるわい。
浜松へ向かおうとしているのも……そして今、ここで会うのもな」
声が雪に反響する。
周りの兵たちが、じりじりと包囲を狭めてくる。
秀吉が続ける。
「儂はな、成政殿。お主のような男が好きじゃ。
信長公の旧恩を忘れぬ、一途な男……。
だからこそ、儂は自ら迎えに来たのじゃ。
ここで降伏せい。
さすれば、命だけは助けてやる。
越中はもう、お主のものではないがのう」
家臣の一人が、成政の袖を掴む。
「殿……!
この数、勝てませぬ……!
どうか、ご降伏を……」
花弁雪が、成政たちを取り囲むかの如く、激しく舞い始めた。
視界が白く霞む。
成政が喉から声を絞り出す。
「……降伏など、できぬ。
秀吉に頭を下げるなど、死んだ方がましだ」
息を吸い、吐き出す。
白い霧が、秀吉の猿面にかかり、その表情は読めない。
成政の、刀の柄を握る指に力がこもる。
爪が皮膚に食い込み、血が滲む。
「……秀吉」
声は掠れていたが、咆哮が秀吉に飛ぶ。
「俺は、まだ死なぬ。
この雪を踏みしめ、家康公に会うまでは……いや、たとえ会えなくとも、
お前に屈する気はない」
秀吉の目が、細くなる。
「ほう……。
ならば、儂も容赦せぬぞ」
軍勢が、一斉に動き出す。
雪を踏む音は、具足の音に瞬時に掻き消された。
戦いの音が、雪原を震わせ始める。
腹の底から、煮えたぎるような熱が一気に頭頂まで駆け上がる。
信長公への忠義、織田家の誇り、そして何より――この猿面の男に対する、骨の髄までの拒絶。
「死しても貴様なぞに膝を屈する訳にはいかん!
者ども、かかれ!」
声が雪原に響き渡る。
掠れていたはずの喉から、意外なほど力強く、鋭く迸った。
家臣たちが、一瞬、息を呑む。
だが、次の瞬間――
「はっ!!」
甲冑の擦れる音、雪を蹴る音、槍を構え直す音が、一斉に爆ぜる。
わずか十数名、二十名にも満たぬ小勢が、百倍、いやそれ以上の秀吉軍に向かって雪を蹴散らして突進する。
白い世界が、次第に血と鉄の色に染まり始める。
秀吉は馬上で、にやりと笑ったまま動かない。
周囲の武将たちが、馬を駆けさせ、鉄砲隊が雪に膝をつき、火縄に火を移す。
「…ふん。成政よ。
相変わらず、短気じゃのう」
その言葉が、風に乗って届く。
成政は、刀を抜き放つ。
指の感覚はまだない。
しかし、握った柄の冷たさは、骨まで伝わってくる。
体が勝手に動く。先頭を切って雪を蹴る。
「さらさら」と鳴っていた雪が、今は「ざざっ」と砕け散る。
家臣の一人が、成政の横を駆け抜け、
「殿! 殿をお守りせよ!!」
叫びながら、秀吉軍の先鋒に飛びかかる。
鉄砲の音が、雪煙と共に響く。
誰かが倒れる。
誰かが血を吐く。
しかし、止まらない。
成政は叫ぶ。
「秀吉!!
貴様に、俺の首はやらん!!
この雪の中で、俺は死ぬとしても――お前に屈せん!!」
秀吉軍の陣が、波のように揺らぐ。
成政たちの突撃は、無謀だが、予想外だった。
包囲の輪が、一瞬、乱れる。
成政の体が、雪を蹴って跳ぶ。
刀が、弧を描く。
だが――
鉄砲の煙が、視界を覆う。
熱いものが、肩を貫く。
痛みは、遅れて来る。
成政の膝が、雪に沈む。
家臣の叫び声。
「殿!!」
主君を案じる声かと思われたが、そうではない。
一瞬の出来事だった。
雪の塊が、山頂から音もなく、しかし猛烈な勢いで崩れ落ちてくる。
まるで天が怒ったかのように、白い怒涛が成政たちを呑み込もうとする。
雪原が、轟音とともに揺れた。
天が割れるような雪崩の咆哮。
成政の体が、雪に呑み込まれる。
視界が白く、黒く、回転する。
息が詰まる。
冷たさが、全身を刺す。
……終わりか。
最後に浮かんだのは、秀吉の嘲る笑み。
意識が、途切れる。
やがて、温い陽射しが差し込み、目を開く。
雪はなかった。
青い空。
あまりにも澄み切った、深い青。
雲一つなく、ただ果てしなく広がっている。
視線を下ろすと、濃い緑の平原がどこまでも続いている。
風が草をそよがせ、遠くで小さな花が白く揺れていた。




