水たまりを踏んだあの日
コンテスト向けに書きました。
その町は、静かだった。
音がないわけではない。
は走り、時計は鳴り、大人の声もしていた。
けれど、子どもの声だけが、ひどく少なかった。
子どもは、毎朝同じ道を歩く。
白い線を踏まないように、歩幅をそろえて。
遅れるといけないから、立ち止まらない。
「ちゃんと前を見て」
「今は遊ぶ時間じゃない」
言われる前から、分かっている。
分かっているから、聞き返さない。
学校では、正しく座ることが大切だった。
背筋を伸ばして、机に向かって、答えを書く。
早く終わった子は、次のページへ進む。
窓の外に何があっても、関係ない。
授業が終わると、すぐに帰る。
公園はあるけれど、使われていない。
遊具はきれいなままで、少しさみしそうだった。
家に帰ると、机の上には決められたものだけがある。
ノート、鉛筆、時間。
「終わったら次ね」
「無駄なことはしなくていい」
無駄が何なのか、子どもにはよく分からない。ただ、やりたいことは、いつもそこに入っていた。
ときどき、胸の奥がむずむずする。
理由はない。
言葉にもならない。
外に出ると、町はいつも同じ色をしていた。
明るいのに、どこか重い。
大人たちは忙しそうで、遠くを見ている。
夢や希望から、目をそらすように。
子どもたちは、それを見て育った。
感情を大きくしないように。
期待しすぎないように。
でも、心の奥で、小さなものが集まっていく。
走りたい気持ち。
笑いたい気持ち。
何かを好きだと言いたい気持ち。
それらはまだ、形を持たない。
ただ、静かに、確かに、町の中にたまっていった。
ある日、子どもたちは、少しだけ立ち止まった。
理由はなかった。
約束も、合図もない。
ただ、その日は、胸のむずむずがいつもより大きかった。
学校の帰り道、公園の前で、ひとりの子どもが足を止める。
つられて、もうひとり。
気がつくと、何人も集まっていた。
誰かが言ったわけじゃない。
でも、走り出した。
白い線を踏んだ。
靴が砂を蹴った。
ブランコがきしんで、すべり台が鳴った。
笑ってもいいのか、少し不安だった。
それでも、体は止まらなかった。
そのとき、ぽつりと音がした。
雨だった。
けれど、いつもの雨と違った。
服に当たると、冷たくない。
地面に落ちると、小さく光った。
子どもが手のひらを広げる。
きらきらが、そこに残る。
消えずに、やさしく光る。
雨は、町じゅうに降った。
屋根にも、道にも、閉じた窓にも。
大人たちは、最初、戸惑った。
仕事の手を止めて、外を見る。
理由を探して、名前をつけようとする。
でも、分からない。
ただ、胸の奥が、少しあたたかくなった。
昔のことを、思い出す。
走った日。
夢中になった時間。
うまくいかなかったけれど、確かに前を向いていた自分。
子どもたちは、雨の中で遊び続けた。
光る水たまりを踏んで、笑った。
理由のない楽しさを、思い出すように。
大人たちは、それを見ていた。
止める言葉が、出てこなかった。
そのとき、胸の奥で、何かがほどけた。
夢や希望は、叶えるためだけのものじゃない。
そこへ向かって走っていた時間そのものが、
心に、確かに残っていたのだと。
雨は、やがて止んだ。
空は、何事もなかったように澄んでいる。
でも、町は違った。
道は少し明るく、
声は少し増え、
子どもたちは、立ち止まっても叱られなくなった。
公園の遊具は、きしみながら使われている。
机の上には、余白が残った。
町は、きらきらしていた。
それは光ではなく、
「してもいい」と、何度も思い出せる気持ちだった。
自分のしたいことをしていい。
夢を見てもいい。
その町は、忘れていたものをもう一度思い出した。




