第三部 四十年目の定刻
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翌日。僕は、約束の14時30分より少し早く奥日山のバス停に着いた。
昨日の不気味な空気はどこへやら、空は突き抜けるような青だ。僕は昨日の「植木突っ込み事件」を思い出して顔を赤らめながら、希叶さんを待っていた。
しかし、約束の時間を15分過ぎても、彼女は現れなかった。
連絡先を交換していなかったことに今更気づき、僕は焦りを感じ始める。ふと、昨日の彼女の怯えた顔が脳裏をよぎった。
「もしかして、昨日気にしてた駅に、忘れ物でも取りに行ったんじゃ……」
嫌な予感がして、僕は森の中の廃駅へと走り出した。元陸上部の意地を見せ、息を切らして奥日山駅に辿り着く。
そこで僕が見たのは、昨日と同じ――いや、昨日よりもずっと「濃い」異様な光景だった。
雲一つない快晴のはずなのに、駅の周りだけが灰色に沈んでいる。そして、待合室のベンチには、希叶さんが凍りついたように座っていた。
「希叶さん!」
僕が叫ぶと、彼女はゆっくりと振り向いた。その顔は真っ青だった。
「翼くん……見て。時計が……」
指差す先、40年間「三時二十五分」で止まっていた壁時計の針が、カタ、カタと、不自然な音を立てて動き出していた。
それと同時に、地響きのような音が森の奥から聞こえてくる。
ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。
「くる……。来ないはずの列車が、くるよ」
希叶さんの声と重なるように、ホームに冷たい風が吹き抜けた。線路の先から、錆びついたはずのディーゼル車が、霧を切り裂いて音もなく滑り込んできたのだ。それは40年前に廃止された、あの日山線の「最終列車」の姿だった。
列車のドアが静かに開く。中には誰も乗っていない。ただ、冷たい冷気が溢れ出している。
希叶さんの体が、吸い寄せられるように立ち上がった。彼女の瞳は虚ろで、まるで何かに呼ばれているようだった。
「だめだ、希叶さん! 行っちゃいけない!」
僕は反射的に彼女の手を掴んだ。昨日の帰り道よりも、ずっと冷たい手。
その瞬間、僕の頭の中に映像が流れ込んできた。40年前、この駅を最後に去った人々の未練、止まってしまった時間、置き去りにされた寂しさ。この駅は、独りぼっちの誰かを連れて行こうとしている。
「……翼くん、私、やっぱりどこにも居場所なんてなかったのかも」
希叶さんが弱々しく笑う。
「そんなことない! 僕がいる! 昨日、友達になったじゃないか!」
僕は彼女の手を離さず、思い切り自分の方へ引き寄せた。
「ここは廃駅だけど、僕たちが会えば、そこはただの駅じゃない。僕たちの居場所なんだ! 帰ろう、希叶さん。明日の予習、また教えてもらうんだから!」
僕の必死の叫びに、希叶さんの瞳に光が戻った。
彼女が僕の手を強く握り返した瞬間、耳を震わせるような汽笛が鳴り響いた。
眩い光に包まれ、僕は思わず目を閉じる。
……次に目を開けたとき、そこにはいつもの静かな森の廃駅があった。
列車も、霧も、消えていた。
壁の時計を見ると、針は「三時二十五分」で再び止まっている。
「……あ、れ?」
希叶さんが呆然と辺りを見回す。その頬には、血色が戻っていた。
「……怖かった」
彼女はそう呟くと、僕のシャツの裾をぎゅっと掴んで泣き出した。僕は彼女が落ち着くまで、その背中をぎこちなくさすり続けた。
それから一週間後。
僕たちは、あの廃駅に行くのをやめた。
代わりに、町の小さな図書館のテラス席が二人の定位置になった。
「翼くん、またボケッとしてる。そこ、公式が逆だよ」
「あ、本当だ。……ねえ、希叶さん。あの駅の時計、もう動いてないよね?」
希叶さんは少しだけ考えて、優しく微笑んだ。
「うん。きっと、あの日、私たちの時間はあそこから卒業したんだよ」
窓の外には、初夏の陽光が溢れている。
止まったままの時計がある場所ではなく、一秒ずつ刻まれていく今の中を、僕たちは一緒に歩き始めていた。
(完)
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