◆部活動体験
その日の放課後、僕と琴音は軽音部の部室の前に来ていた。星川さんはというと少し遅れてくるそうだ。この学校は少し特殊で入学式の日から部活動体験があり道具を持ってきていれば実際にやってみることができるそうだ。だから朝持ってきたギターを背中に背負って今、星川さんを待っているわけだ。僕の他にもグローブを持った人やラケットを持った人などさまざまな人とすれ違った。こうやってみると改めてこの高校の生徒になったなと実感できた。いろいろと考えを巡らせていると琴音が口を開いた。
「部活動体験楽しみだね。どうやらさっきのバンドがさっきと違う曲を演奏してくれるらしいよ。」
「そうなんだ。てっきり話を聞いた後に少し楽器を触ってみるみたいなものかと思ってた。」
横を見ると少し琴音が微笑んでいた。やっぱり横顔も美しいと改めて感じた。
「あっ。神楽さんに白瀬さん。お待たせしました。えっと……まだ始まっていないのでしょうか?」
星川さんが、不思議そうに首を傾げながら僕たちの元へ駆け寄ってくる。
「うんあと数分くらいで始まるらしいよ。さっき蓮にも言ったけれどさっきのバンドが演奏してくれるらしいよ。」
軽く雑談していると「どうぞ前の方から入ってください。」と片桐部長から言われた。その片桐部長を見た周りの女子たち数名が阿鼻叫喚としていた。あれだけイケメンだったら女子たちが阿鼻叫喚としている理由もわかる。僕たち三人は片桐部長の後を追って部室へと入る。
部室では舞台のようなものが用意されていてドラムとキーボードそれにアンプが置かれていた。入り口の方を見るとぞろぞろと新入生たちが入ってくる。瞬く間に部室の中は新入生でいっぱいになった。そこで片桐部長が舞台に上がった。
「みなさん。部活動体験に来てくださってありがとうございます。これから俺たちが演奏する曲はMrs. GREEN APPLEさんの『青と夏』です。」
最初に鳴ったのは、澄んだギターの単音だった。
アンプを通して放たれたその音は、軽音部の部室に満ちた空気を一瞬で塗り替える。片桐部長がイントロをリードで弾き始めた、その一音目が、まるで夏の空に走る一筋の光みたいに、僕の意識を強く引き寄せた。少しだけ歪みを抑えた音色は輪郭がはっきりしていて、それでいてどこか柔らかく、耳に残る余韻を伴って広がっていく。
天井近くに設置されたライトが、ゆっくりと色を変える。最初は涼しげな青。深い海の底のような、静かで落ち着いた青が、部室の壁や床、楽器のボディを淡く染めていた。ギターのネックに反射する光が、片桐部長の指の動きを際立たせ、フレットの上を滑るその動きが、やけに鮮明に見える。
続いて、ドラムが入る。
軽く、でも確かな一打。胸の奥に直接響くような低音が、ギターの旋律を土台から支え始める。大柄なドラマーの腕がしなやかに上下し、スティックがシンバルに触れるたび、きらりと白い光が跳ね返る。そのリズムは安定していて、揺るぎがなく、まるで「ここに乗ってこい」と言われているみたいだった。
ベースが重なると、音は一気に厚みを増す。低く、深く、でも主張しすぎない音が床を伝うように広がり、部室全体を包み込んでいく。小柄な女子の体から出ているとは思えないほど、しっかりとした存在感があって、曲全体を下から持ち上げているのがわかる。
キーボードが入った瞬間、空気がふっと明るくなった。
青だったライトに、少しだけ黄色が混ざる。真夏の昼下がりを思わせるような、あたたかい色。鍵盤から流れ出る音は、ギターやドラムの隙間を縫うように広がり、曲に透明感を与えていた。音と音の間に、光が差し込んだみたいだった。
僕は、息をするのを忘れていた。
気づけば、視線はずっと片桐部長のギターに釘付けになっている。リードフレーズを弾く指先は迷いがなく、音は一つも濁らない。その姿を見ていると、さっきまで自分が触っていたギターが、まるで別の楽器みたいに思えてくる。同じ六本の弦なのに、こんなにも世界を広げられるのかと、胸の奥がじんわり熱くなった。
ライトが少しずつ強くなり、青から白へ、白から淡いオレンジへと移り変わっていく。まるで夕方に近づく空の色みたいで、その変化に合わせて、曲も次の段階へ進んでいくのがわかる。
音が重なり、リズムが前に進むたび、僕の心も一緒に引っ張られていく。
気づけば、足先が自然とリズムを刻んでいた。頭の中では、さっきまでの不安や緊張が少しずつ薄れていき、その代わりに、どうしようもなく強い感情が浮かび上がってくる。
――ああ、これだ。
言葉にすると、それだけしか出てこない。でも、その「これだ」という感覚が、胸の中心にしっかりと根を張っていた。音に包まれながら、ライトに照らされながら、演奏する側と聴く側の境界が、ほんの少しだけ曖昧になる。
僕はただ、その場に立ち尽くしながら、目の前で鳴っている音を、光を、空気を、全部逃さないように受け止めていた。
曲が進むにつれて、部室の空気はさらに熱を帯びていった。
ドラムのリズムが一段階前に出て、スネアの音がはっきりと輪郭を持ち始める。一定だった鼓動に、少しだけ跳ねるような勢いが加わり、胸の奥が自然と高鳴った。ベースはそれに寄り添うように音数を増やし、低音が床から立ち上って、僕の足元をしっかりと支えてくる。
ライトが、はっきりと夏の色に変わった。
青は残しつつも、そこに強い白と、きらめくような黄色が重なる。汗ばんだアンプの金属部分が光を反射し、ケーブルの影が床に細長く伸びる。狭い部室のはずなのに、音と光が重なったその空間は、どこまでも広く感じられた。
片桐部長のギターが、再び前に出る。
イントロのときよりも少し強く、少しだけ荒さを含んだ音。ピックが弦を弾くたび、乾いたアタック音が耳に届き、その直後に広がる音の波が、胸の内側を揺らした。楽しそうでもあり、真剣でもある。その両方が混じった表情が、ライトに照らされて一瞬だけ見える。
その姿を見て、僕は無意識に指を握りしめていた。
自分がギターを弾くときの感覚が、頭の中に蘇る。指先が少し痛くなること。コードがうまく鳴らなくて、何度も弾き直した夜のこと。それでも、音がきれいに鳴った瞬間の、あの小さな達成感。
今、目の前で鳴っている音は、その先にある世界だ。
キーボードの音が上に重なり、空気が一気に開ける。高音が天井へと抜けていき、まるで青空に雲が流れていくみたいに、視界が明るくなる。ベースとドラムがしっかりと地面を作っているからこそ、その音は不安定にならず、堂々と前へ進んでいく。
僕の隣で、誰かが小さく息を呑む気配がした。
視線を向けると、同じ体験に来ていた新入生が、目を輝かせたまま演奏を見つめている。言葉は交わしていないけれど、その表情だけで、今この瞬間を共有していることが伝わってきた。
音が積み重なり、勢いが増していくにつれ、僕の心の奥にあった迷いは、いつの間にか形を失っていた。ただ、胸の中心に残っているのは、強くて、真っ直ぐな衝動だけだ。
――この音の中にいたい。
聴いているだけなのに、まるで自分もその一部になったみたいな感覚。ライトの熱、アンプの振動、空気の震え。そのすべてが、僕の中に流れ込んでくる。
曲は、さらに高いところへ向かっていく。
その予感を、身体が先に理解していた。胸の奥が、期待でいっぱいに膨らむ。次に来る音を待ちながら、僕は目を逸らさず、ただ真正面からその演奏を受け止め続けていた。
やがて、全員の音が一度、大きくうねる。
ドラムが力強くシンバルを叩き、空気が弾けるように震えた。その合図を待っていたかのように、ベースが低く、しかし確かな音で前へ踏み出す。部室の床がわずかに振動し、その揺れが靴底を通して身体に伝わってきた。
ライトが切り替わる。
深い青が一瞬だけ引き、代わりに白い光が強く差し込む。影がくっきりと浮かび上がり、演奏する先輩たちの動きが、まるでスローモーションのように目に焼きつく。汗に濡れた額、弦を押さえる指の力、スティックを振り下ろす腕の筋張り――その一つひとつが、音と同じくらい雄弁だった。
片桐部長は、ほんの少し身体を前に倒し、ギターを構え直す。
次の展開を引っ張る役目を、迷いなく引き受けているように見えた。リードの音はさらに張りを増し、弦を滑る指先が、迷いなく次のフレーズへ向かっていく。速さだけじゃない。音の一つひとつに、確かな意思が宿っている。
それを聴いた瞬間、僕の胸がぎゅっと締めつけられた。
上手いとか、かっこいいとか、そんな言葉では足りない。ただ、「そこに立っている」という事実そのものが、強烈だった。自分の音を信じて、仲間の音を信じて、全身で鳴らしている。その姿が、まぶしくて仕方がない。
キーボードの旋律が重なり、空気が一気に夏の色を帯びる。
音が上へ、前へ、勢いよく駆け抜けていく。閉じられた部室のはずなのに、視界の向こうに、青い空と強い日差しが広がる錯覚を覚えた。風の匂いまで感じられる気がして、僕は思わず息を吸い込む。
その瞬間、気づいた。
僕はもう、ただの見学者じゃない。
演奏を聴いているはずなのに、心のどこかで一緒に走っている。次の音を予想し、次の展開を待ち構え、胸の内側で同じリズムを刻んでいる。音楽が、完全に僕を連れて行ってしまっていた。
ラスサビに向かう気配が、はっきりと伝わってくる。
ドラムが一拍一拍を強く刻み、ベースがそれを支える。全員の呼吸がぴたりと合い、音が一つの塊になる。その中心で、片桐部長のギターが、光を集めるように鳴り響く。
ライトは、青と白が混ざり合い、まぶしいほどの輝きになる。
その光の中で、先輩たちは笑っていた。
必死で、真剣で、それでもどこか楽しそうで。音楽をやること自体が、心から好きなんだと、言葉にしなくても伝わってくる表情だった。
僕は、ただ立ち尽くしたまま、その光景を胸に刻みつける。
この放課後、この部室、この音。
きっと、忘れない。
演奏は最高潮へと向かい、音の波が一気に押し寄せる。その中で、僕の中に静かに、でも確かに芽生えた感情があった。
――ここに、来たい。
終わりに近づく音を聴きながら、僕はまだ知らない自分の未来を、初めてはっきりと思い描いていた。
最後の音が、空気の中でほどけるように消えていく。
ドラムの余韻が壁に当たって返り、ベースの低音が床下に沈み、ギターの高い響きだけが、しばらく部室の天井に残っていた。ライトはゆっくりと白に戻り、さっきまで青と白に染まっていた世界が、現実の色を取り戻していく。
一瞬の静寂。
その次の瞬間、誰かが息を吐き、誰かが小さく声を漏らし、そして拍手が起こった。最初は遠慮がちだったそれは、すぐに熱を帯び、部室いっぱいに広がっていく。壁際に立っていた見学の生徒たちが、我に返ったように手を叩き、歓声まじりの声を上げた。
「……すご……」
自分の声が、やけに掠れて聞こえた。
喉が渇いているのに、何も飲んでいないみたいだった。胸の奥が熱くて、心臓の鼓動だけがやけに大きい。拍手をしながら、僕はまだ、ほんの数秒前まで鳴っていた音の残像を追っていた。
片桐部長は、ギターのネックから手を離し、軽く息を整える。さっきまで張り詰めていた表情が、ふっと緩み、仲間たちの方を見て小さく頷いた。その仕草だけで、全員が同じ時間を走り切ったのだとわかる。
ドラムの先輩がスティックを膝に置き、肩を大きく回す。大柄な体に浮かぶ汗が、ライトを受けて光っていた。ベースの小柄な先輩は、楽器を抱えたまま一息つき、キーボードの先輩は鍵盤の上で指を軽く揺らしながら、余韻を確かめるように目を閉じている。
音が止んでも、空気はまだ熱を帯びていた。
僕は、その中に立ったまま、しばらく動けずにいた。頭の中が空っぽなのに、胸の内側だけが騒がしい。言葉にしようとすると、どれも薄っぺらく感じてしまって、結局、何も言えない。
「……やっぱり、いいな」
隣で、紗夜が小さく呟いた。
いつもより少しだけ高い声で、でも確かに胸を打つ響きだった。僕はそちらを見て、ゆっくり頷く。言葉を交わさなくても、同じものを見て、同じものを感じているのだと、自然にわかった。
片桐部長が一歩前に出て、見学者の方へ向き直る。
「いつもこんな感じでやってます。この後も是非来てください。」
短い言葉だったけれど、押しつけがましさはなかった。さっきまで音を鳴らしていた人と同じとは思えないほど、穏やかな声。それが逆に、胸に残る。
僕は、無意識のうちに自分の手を見ていた。
まだ何も弾けない手。ステージに立ったこともない手。それでも、さっきの音を、確かに受け取った手だった。指先が、ほんの少しだけ熱を帯びている気がする。
部室の窓の外では、夕方の光が校舎の壁を染め始めていた。オレンジに傾いた日差しが、機材の影を長く伸ばし、さっきまでの青い光景とはまるで違う顔を見せている。
でも、不思議と、切り替わった感じはしなかった。
青い夏の続きを、そのまま胸の中に抱えたまま、時間だけが少し進んだような感覚だった。
僕は深く息を吸い込み、ゆっくりと吐く。
この部室で鳴っていた音は、もう止んでいる。それでも、胸の奥では、まだ鳴り続けていた。
――ここから、始まる気がした。
はっきりした形はない。ただ、確かな予感だけが、静かに、しかし強く、僕の中に根を下ろし始めていた。
その後、先輩たちは大急ぎで片付けをしていた。数人の先輩たちが新入生の元へ駆け寄ってきた。
「みなさん。何か質問ある人はいませんか。」
ある男子生徒が手を挙げて言った。
「はい。これから楽器を触ったりできるのでしょうか?」
その男子生徒はいかにも陽キャって感じだった。
「この片付けが終わったら先輩たちと一緒に教えてもらったりしながら軽く練習したりできますよ。」
その先輩が笑顔で答える。その後さまざま質問があった。十五分ほどの質問タイムが終わりいよいよ楽器体験だと告げられた。
「じゃあ、次は体験です」
片桐部長の声は、ライブのときとは違って穏やかだった。その一言で、部室の空気が少しだけ柔らぐ。緊張が解けたというより、どう振る舞えばいいかわからない戸惑いが、別の形に変わったような感覚だった。
壁際には、楽器が整然と並んでいる。ドラムセットはライトを受けて金属部分が鈍く光り、キーボードは鍵盤の白さがやけに目立つ。ベースとギターはスタンドに立てかけられ、それぞれが「触れられるのを待っている」みたいに見えた。
僕は、足元に置いた自分のギターケースに視線を落とす。家を出るとき、正直なところ、持ってくるかどうか迷った。でも今は、その判断が間違っていなかったと、はっきり思えた。
「自分の持ってきてる人は、それ使ってもいいよ」
その言葉に背中を押され、僕はケースを開ける。中から現れたギターは、部室のライトを反射して、少しだけ頼もしく見えた。何度も触ってきたはずなのに、この場所で見ると、別の楽器みたいに感じる。
アンプの前に立つと、部室の空気がまた少し変わった気がした。天井に取り付けられた小さなライトが、さっきよりも近く感じる。白と青が混じった光が機材に反射して、金属部分を鈍く光らせていた。スイッチが入ったままのアンプからは、かすかなノイズが漏れていて、その音だけで胸の奥がざわつく。
「じゃあ、順番に触ってみようか」
片桐部長の声を合図に、体験が本格的に始まる。僕は自分のギターケースを床に下ろし、ファスナーを開いた。慣れたはずの動作なのに、指先が少しだけぎこちない。ケースの中からギターを取り出すと、部室の光を受けてボディの木目が浮かび上がった。
シールドを差し込む瞬間、カチリとした感触が指に伝わる。それだけで、心拍が一段階上がるのが分かった。家で練習するときとは違う。ここでは、音が部屋を満たし、誰かの耳に届く。
「最初は軽く鳴らしてみて。大きく出さなくていい」
そう言われて、僕はゆっくりと弦に指を置いた。ネックの感触はいつもと同じなのに、指先にかかる重みが違う気がする。ピックで弦を弾くと、アンプを通した音が、思った以上に前へ出た。
部室の壁に当たって返ってくる音が、僕の耳を包む。少し濁っている。でも、確かに音だ。自分が出した音が、ここに存在している。
隣では、星川さんがベースを構えていた。ギターよりも大きなボディを少し不安そうに抱えながら、低音弦に指をかける。
「重い……ですね」
小さくそう言ってから、恐る恐る弦を弾く。ドン、と空気を押すような音が鳴り、床の方まで震えが伝わってきた。
「……すごい」
思わず漏れたその声に、先輩が笑う。
「それがベース。音で支える感じ、わかる?」
星川さんはもう一度弦を弾き、さっきよりも少しだけ強く音を出した。低音が部室の隅まで広がり、さっき僕が出したギターの音と、頭の中で重なった。
ドラムセットの方では、別の新入生がスティックを握っている。叩くたびに、スネアの乾いた音が弾け、シンバルがきらりと揺れた。リズムは安定していないのに、不思議と嫌な感じはしなかった。
琴音は、少し離れた場所からその様子を見ている。前に出ることはないけれど、音が鳴るたびに目線が動く。ギター、ベース、ドラム、それぞれの音を、ちゃんと追っているのが分かった。
「じゃあ、簡単なの合わせてみようか」
片桐部長がそう言って、カウントを取る。軽く鳴らすだけのはずなのに、その「せーの」という声で、全身が一気に緊張した。
僕はコードを押さえ、星川さんは低音を刻む。ドラムが遅れ気味に入って、それでも音は止まらなかった。噛み合っているとは言えない。でも、バラバラでもない。
自分の音が、誰かの音と重なっていく。その感覚に、胸の奥がじんわりと熱くなる。失敗しているはずなのに、嫌じゃなかった。
「今の、悪くないよ」
部長のその一言で、肩の力が抜けた。星川さんも、少しだけ表情を緩めている。
演奏を止めると、部室に残った音が、ゆっくりと消えていく。アンプの余韻、シンバルの揺れ、その全部が静かに溶けていった。
僕はギターを抱えたまま、深く息を吐く。指先は少し痛くて、でもその痛みが、ちゃんと弾いた証みたいに思えた。
この部室で鳴らした音は、まだ未完成で、不格好だ。それでも、確かに「一緒に音を出した」という感覚だけは、はっきりと胸に残っていた。
余韻が完全に消える前に、部室の空気がまたゆっくりと動き出す。誰かが椅子を引く音、アンプのボリュームを少し絞るノブの回転音、その一つ一つがやけに大きく聞こえた。さっきまで鳴っていた音が、まだ耳の奥に残っているせいかもしれない。
「一回休憩しよっか」
片桐部長の言葉に、部室の緊張がふっと緩む。僕はギターをストラップから外し、慎重に立てかけた。ボディに残る振動が、掌にかすかに伝わってくる気がして、無意識に指先を見つめる。
星川さんもベースを下ろし、肩を軽く回していた。
「指……ちょっと痺れますね」
「最初はそんなもんだよ」
先輩が笑いながら答える。そのやり取りを聞きながら、僕は自分の指先にも同じような感覚があることに気づいた。痛みというより、熱に近い。何かをちゃんと使ったあとの、確かな感触だった。
部室の照明は少し落とされ、さっきよりも柔らかい光に変わっている。青と白が混ざったライトが、壁に貼られたライブ写真やポスターを淡く照らし出していた。そこに写る先輩たちの表情は、どれも楽しそうで、今の僕には少し遠い世界のもののようにも見える。
「もう一回、やってみる?」
不意にそう聞かれて、胸が跳ねた。返事をする前に、喉が一瞬詰まる。
「……はい」
気づいたら、そう答えていた。星川さんも、小さく頷いている。
今度は、さっきよりも近くでアンプの音を感じる。ボリュームは控えめなのに、空気の振動がはっきり分かる。部長がリズムを刻むように足で軽く拍を取り、その動きにつられて、僕の呼吸も自然と整っていった。
弦に指を置く。さっきよりも、少しだけ迷いが減っている。ピックを振り下ろすと、音が前よりも素直に出た気がした。
星川さんのベースが低く響き、その下でドラムが一定のリズムを作る。完璧じゃない。でも、音がぶつからずに流れていく感覚があった。
その瞬間、胸の奥で何かが静かに揺れた。
――ああ、これだ。
言葉にすると簡単すぎるけれど、確かにそう思った。誰かと一緒に音を出すこと。その中に身を置くこと。その感覚が、体の内側にゆっくりと染み込んでくる。
ふと視線を上げると、部室の入口近くに琴音が立っていた。前に出るわけでもなく、ただ静かにこちらを見ている。目が合うと、ほんの一瞬だけ、小さく頷いた気がした。
その仕草に、なぜか背中を押されたような気がする。
演奏が終わると、今度は自然と笑いが漏れた。誰かが「今の良かった」と言い、別の誰かが「次はもっと合わせられる」と続ける。そのやり取りが、妙に心地いい。
ギターを抱えながら、僕は思う。まだ上手くもないし、胸を張れるほどの技術もない。それでも、この部室で、この音の中にいる自分は、確かに前に進んでいる。
ライトに照らされた弦が、静かに光る。その光を見つめながら、僕は次に鳴らす音のことを考えていた。
「今から発表会みたいなのをやります。誰かやってくれる人はいませんか?」
そこで手を挙げたのはさっき質問していた男子だった。ドラムでエイトビードを披露した。ぽつぽつと拍手が鳴り響く。
「次は誰がやりますか?」
その部長の言葉に僕は手を挙げていた。
「それではお願いします。」
部長が笑顔で言う。
ステージに立つと緊張してきた。
僕は一度、深く息を吸い込んだ。
肺の奥まで入り込んできた空気は、思っていたよりも冷たくて、胸の内側を静かに撫でるようだった。軽音部の部室は、夕方の校舎にしては明るく、天井近くに取り付けられた照明が、白と淡いオレンジを混ぜたような光を落としている。その光は均一ではなく、アンプの上やドラムセットの金属部分で反射し、きらりと瞬くたびに、空間に小さな動きを与えていた。
壁際には使い込まれたアンプが並び、床には無数のケーブルが絡み合うように這っている。誰かが踏み固めてきた跡の残る床板は、音を吸い込みながらも、確かにここが「鳴らす場所」だと主張しているようだった。過去のライブ写真が貼られた壁には、笑顔の先輩たちが写っていて、その視線が、今の僕を静かに見守っているようにも感じられる。
ギターを構え直すと、ストラップが肩にずしりと食い込んだ。その重みが、はっきりと現実を伝えてくる。逃げ場はない。でも、不思議と逃げたいとも思わなかった。この重さは、怖さと同時に、覚悟の重さでもあった。
指先を軽く動かすと、弦がかすかに震え、金属音が小さく空気を切る。その音に、心臓が反応するように、どくりと一度強く脈打った。
「……じゃあ、やります。あいみょんさんの『マリーゴールド』」
自分の声が、思っていたよりも低く、落ち着いて部室に広がった。喉は乾いているし、手のひらにはうっすらと汗も滲んでいる。それでも、声だけは裏切らなかった。それが少しだけ、僕を支えてくれる。
春休みの間、この曲を何度も弾いた。夕暮れの部屋で、窓の外がオレンジ色から紺色へと変わっていくのを横目に見ながら。指先が痛くなって、Fコードが濁って、何度も立ち止まりながら。それでも、最後まで通すたびに、「次はもう少しだけ良くなる」と信じて、また最初に戻った。
その積み重ねが、今、ここにある。
右手を振り下ろす直前、ほんの一瞬だけ、時間が引き延ばされたように感じた。もし音が途切れたら。もし頭が真っ白になったら。もし、誰かの期待を裏切ってしまったら。そんな考えが、胸の奥で小さな波となって広がる。
――それでも。
僕は、弦を鳴らした。
最初の音は、静かで、柔らかかった。派手に主張するわけでもなく、空間を切り裂くようでもない。ただ、そっと差し出すように鳴った音が、部室の空気に溶け込んでいく。アンプを通して膨らんだ音が、壁に当たり、天井に反射し、少し遅れて僕の耳に戻ってくる。そのわずかなズレが、今、自分がここで音を出しているのだと、強く実感させた。
左手の指を、慎重に、でも迷いすぎないように動かす。弦を押さえる感触が、指の腹にじんわりと伝わる。少し冷たい金属の感触と、押し返してくる張力。その中で生まれる微かな振動が、腕を通って胸の奥まで届く。
テンポは、あえて抑えた。焦らない。走らない。この曲は、勢いで押し切るものじゃない。練習の中で何度も感じた、あの「間」を思い出しながら、音と音の間に、ちゃんと息を通していく。
弾き進めるうちに、部室の輪郭が少しずつ曖昧になっていった。ライトの眩しさも、床に落ちる影も、はっきりとは見えなくなる。その代わり、頭の中には、別の景色が浮かんでくる。
夕焼けに染まる帰り道。風に揺れる草の音。春先の、少し湿った空気の匂い。桜の花びらが、意味もなく足元を転がっていく光景。そんな何気ない記憶が、音に引き寄せられるように、胸の奥から滲み出てくる。
指先は、まだ完璧じゃない。わずかに音が曇る瞬間もあるし、押さえきれずに逃げる弦もある。それでも、途中で止まることはなかった。怖さよりも、「このまま弾き続けたい」という気持ちの方が、確実に強くなっていた。
視線を少しだけ上げると、部員たちの姿が見えた。誰も口を挟まず、誰も余計な動きをしない。ただ、静かに耳を傾けている。その中で、ベースを抱えた星川さんが、真剣な表情で僕の左手を見つめているのに気づく。その視線に、胸の奥がじんと熱くなる。評価されているというより、「ちゃんと聴かれている」という感覚が、僕を前に進ませた。
曲の後半に差し掛かると、緊張はいつの間にか形を変えていた。張りつめた不安ではなく、集中へと変わり、指先と音だけに意識が絞られていく。ここまで来た、という安心感と、もうすぐ終わってしまうという名残惜しさが、同時に胸を満たす。
最後のコードを鳴らす瞬間、僕はほんの少しだけ力を抜いた。
音は、強すぎず、弱すぎず、部室いっぱいに広がっていく。すぐには消えず、天井や壁を巡りながら、ゆっくりと空気に溶けていく。その余韻が完全に消えるまで、僕はギターから手を離せなかった。まるで、その余韻に触れていないと、今の時間まで消えてしまいそうだったから。
一拍置いて、ぽつりと拍手が鳴る。そこから、少しずつ音が重なっていき、部室に柔らかな響きが広がった。
その音を聞いた瞬間、胸の奥に溜め込んでいたものが、音もなくほどけていくのを感じた。上手だったかどうかは分からない。完成度が高いとも言えない。それでも、最後まで弾いた。その事実が、何よりも確かなものとして、僕の中に残った。
ギターを下ろしながら、静かに息を吐く。
――ここまで来た。
そう思った瞬間、肩にかかっていた重みが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。まだ始まったばかりなのに、それでも確かに、一歩前に進めた。その実感が、じんわりと全身に広がっていった。
部室の扉が静かに開き、長身の影が差し込んだ。自然と視線がその人物に引き寄せられる。彼の存在は、部屋の空気ごと引き締めるような圧倒的な存在感を持っていた。肩幅が広く、背筋は真っ直ぐ。長く伸びた指先には無駄な力がなく、持つギターに触れるだけで空間が微かに震えるかのようだった。
「遅れてすみません。じゃあ、次は僕がやります。」
低く澄んだ声が静かに響く。その声には力みはなく、自然に部屋を支配するような柔らかさと、どこか冷静な威厳が混ざっていた。僕は思わず息を呑み、椅子に座ったまま指先の震えを感じる。目の前の彼が動くたびに、光の反射がギターの木目を滑り、微かな光の筋が弦を伝って揺れるように見えた。
「僕が弾く曲はMrs. GREEN APPLEさんの『ライラック』です。」
イントロに差し掛かると、彼の指が弦を駆ける。無茶苦茶に難しい速弾きのパート――リードギター――だ。指の動きは目で追うのがやっとで、音の粒は耳で追うのも困難な速さ。それでも、その音はただ速いだけでなく、空気の中でしっかりと輪郭を持って響く。部室の小さな空間に、音が光のように鮮やかに浮かび上がる。
まるで音の波が渦を巻くかのようだった。僕は自分のギターを抱えたまま、心の中でその一つひとつの音を追いかける。胸の奥に、言葉にできない高揚感がゆっくりと広がる。音の振動が体を通り抜け、呼吸のリズムと完全に同期する瞬間。これが――音楽が人に与える力なのか、と僕は胸の奥で思った。
光の描写もまた、演奏を際立たせていた。天井からの蛍光灯の白い光に、窓から差し込む午後の柔らかな光が混ざり合い、ギターのボディや彼の動く影に微妙なコントラストを生み出している。光と影が踊る部室の中で、音が視覚化されたかのように目の前で形を成している。指先の動きに合わせ、光が細く弦に沿って走るように見える。自分が演奏している時は気づかなかったけれど光とかも入れてくれるところに先輩たちの優しさを感じた。
僕はただ見つめるしかなかった。手元のギターからはまだ小さな余韻が残っているのに、彼が紡ぐ音の圧力にそれが霞んでしまう。頭の中で、演奏の一音一音が鮮明にリピートされる。速弾きのフレーズが終わることなく続き、部室全体がその音の渦に飲み込まれたかのようだった。心臓の鼓動が早まるのを感じる。指先が痺れるような緊張ではなく、胸が震えるような感動。息をするのも忘れるほど、僕の感覚は全て音に集中していた。
その姿を見て、琴音の横顔が目に入る。普段の静かな表情とは少し違い、瞳がわずかに輝いていた。音を聴きながら、唇を小さく開き、何か言いたげに息を飲む姿。胸がじんわりと熱くなる。僕のすぐ隣で、同じように琴音も音に心を奪われているのだと実感し、少し照れくさくも温かい気持ちが湧く。
演奏はまだイントロの最初。彼の手元は一瞬の隙もなく動き、音の流れを自在に操る。速弾きのパートが繰り返されるたび、部室の空気は揺れ、弦の振動が壁に反響して、僕の胸にまで伝わる。音が描く旋律の中で、僕は何度も息を飲み、心の奥で鼓動が高鳴るのを感じる。
部室の隅に置かれた小さな机も椅子も、彼の演奏によってまるで舞台装置の一部のように見えた。光と影、音と振動――すべてが一体となり、部室全体を生きた空間に変えている。僕の胸の中には、演奏の熱気と余韻がずっと残り、指先の感覚と一緒に消えないまま溢れていた。
イントロの緊張感から一気に、彼のギターがサビの疾走感を引き連れて部室を満たした。指先が弦を撫でるたび、音が鋭く弾け、空気を切り裂くような鋭利な振動となって僕の胸に突き刺さる。音の粒が光をまとい、蛍光灯の白い光と午後の柔らかな日差しに反射して、部室の壁に無数の光の斑点を踊らせる。
僕は思わず息を止めて見つめた。彼の動きは一瞬たりとも止まらず、速いテンポのリフを繰り返しながらも、音のひとつひとつに表情があった。左手で押さえるフレットの角度や右手のストロークの強弱によって、メロディは波のように揺れ、サビの高揚感を完璧に描き出す。
部室の空気が音で揺れる。振動が壁や床に伝わり、机や椅子も小さく震えるのを感じる。僕の胸の奥にもその振動が響き、心拍が速まる。目の前の彼の指先が、音の渦を自在に泳ぐように動くのを追うだけで、胸が高鳴り、体全体が熱を帯びてくる。
琴音の肩越しに見える彼の横顔は、集中そのものだった。眉間のわずかな皺や、口元に浮かぶ微かな緊張。光が指先の動きに沿って走るたび、影が柔らかく揺れ、彼の姿に立体感を与える。僕は無意識に息を飲み、手元のギターを抱えたままその場に釘付けになった。
音はさらに加速し、サビの旋律が部室全体を駆け抜ける。ピックに光が反射して弧を描く。
僕は胸の奥で、どう表現すればいいのか分からない感情が膨れ上がるのを感じた。言葉にできない高揚感と、尊敬の念、そして少しの憧れ。音の一粒一粒が、胸の奥の細胞まで浸透し、体が震えるほどの熱量を伝えてくる。手元のギターに触れているだけでは得られない、まるで音の洪水に身を委ねているかのような感覚だった。
サビのクライマックスに向かうにつれ、彼の演奏はさらに力強く、速く、そして鮮明になっていく。指先の動きが光の線のように見え、弦が震える音が視覚化されるかのようだった。耳だけでなく、目で、体で、心で――すべての感覚が演奏に巻き込まれる。
音が一段落する瞬間、部室には短い静寂が訪れた。僕はまだ呼吸を整えきれず、胸の鼓動が耳に響く。空気の残響の中で、彼のギターの余韻がゆっくりと溶けていく。光の筋はまだ微かに揺れ、壁や机の影が柔らかく揺らめいている。
僕の隣の琴音は、ほんのわずかに唇を開き、息をつく。僕も小さく息を吐き、胸の中の熱が徐々に落ち着くのを感じた。目の前にいる彼の存在は、演奏だけでなく、その静かな佇まいまでもが、音楽の力を何倍にも増幅させるように思えた。
部室に満ちた熱気と余韻は、僕の中に深く刻まれた。胸の奥で「音楽って、こういうものなんだ」と、言葉にならない感動がじんわりと広がる。僕は握ったギターの弦をそっと撫でながら、次は自分もあの感覚を追いかけたい、と小さな決意を胸に刻んでいた。
最後の音が部室に消え、ギターの余韻が壁や床をゆらゆらと漂っている。しばらくの間、静寂だけが支配する空間。呼吸の音や、微かに揺れるカーテンの音さえも、大きく感じられる。僕はまだ胸の奥が熱く、手に持ったギターの重さすらほとんど感じられなかった。
彼はゆっくりと指を弦から離し、肩の力を抜く。その姿は、演奏中の強烈な熱量とは対照的に、柔らかく、余裕のあるものだった。光が部室の窓から差し込み、彼の髪や指先に反射して小さな光の輪を作る。見ているだけで、息をするのも忘れるほどの存在感だった。
「……すごかったね……」
琴音の声が、僕の耳にそっと届く。小さな声で、でも驚きと尊敬の気持ちが混じっているのが分かる。いつもは落ち着いて穏やかな彼女の声が、わずかに震えていた。僕も同じ気持ちだった。
「うん……圧倒された……」
思わず小さく返す。言葉にならない感動が、胸の奥で渦を巻いている。僕と同じ歳でこれだけの演奏ができるのか。もしかしたら片桐部長と張り合えるかもしれない。手元のギターを握る指先にも、演奏の余韻が残っているように感じる。音がまだ体内で振動しているような、そんな感覚だった。
部室の空気は、さっきまでの熱気と活気の名残でまだ少し揺れている。壁に貼られたポスター、散らかった楽譜や機材、少し埃っぽい空気までもが、演奏の熱で温められたように感じる。ライトの柔らかなオレンジ色が部室を包み、影を長く引いて、時間がゆっくりと流れているかのようだった。
「……僕も、あんなふうに弾けるようになりたいな」
心の中で、自然とそんな言葉が湧いた。指先に残るギターの感触が、僕の決意をさらに押し上げる。音楽の世界の広さと奥深さ、そして自分の未熟さを同時に思い知らされる瞬間だった。
琴音が少し視線を下げ、僕の手元のギターをじっと見つめる。その目には、優しさと静かな応援の色が混じっていた。僕は胸がぎゅっとなるのを感じる。幼馴染として、ただ隣にいてくれるだけで心強いのに、音楽に対しても一緒に感じてくれている――それが、自然に僕の背中を押してくれる。
部室の片隅では、片桐部長や星川さんも静かに演奏後の余韻に浸っているようだった。表情は緩んでいるが、演奏中の集中力の名残が感じられ、まるで空間の温度そのものが変わったかのようだ。僕はその空気に触れながら、改めて音楽の力を実感した。
部室の明かりは柔らかなオレンジと、天井の小さなスポットライトの白が混ざり合い、琴音の姿を包み込んでいた。僕は息を呑み、椅子に座ったまま彼女の前にあるキーボードを見つめる。いつもはおとなしい琴音が、今ここで演奏者として立っている——その事実だけで、胸がざわつく。
「……じゃあ、弾きます」
小さな声だ。けれど、それは決して控えめではなく、静かな強さを含んでいた。彼女が指先を鍵盤に置いた瞬間、空気が微かに張り詰める。軽く息を吸い込む音まで、僕にははっきり聞こえた。
最初の一音が放たれる。まるで春の光が差し込むように柔らかく、けれど確かな輪郭を持った音。指先はまるで鍵盤をなぞるように滑らかに動き、旋律を紡ぎ出す。僕はその動きを目で追いながら、自然と背筋を伸ばした。鍵盤の上で指が跳ねるたび、空気が微かに震え、光と音が重なり合う。部室全体が彼女の音で満たされ、まるで世界が音の周りにだけ残っているかのようだった。
イントロが流れるにつれて、彼女の動きはより正確で力強く、しかし決して雑になることはなかった。指先は鍵盤を軽やかに叩き、同時に滑らかに滑らせ、音は部室の隅々にまで広がる。オレンジ色の光が彼女の髪や制服のラインを柔らかく縁取り、鍵盤から発せられる旋律と絡み合って幻想的な空間を作り出していた。
曲が進むにつれて、サビの盛り上がりが近づく。琴音は息を整え、視線を少し遠くに置く。指先の動きはさらに速く、力強くなり、音のひとつひとつが部室全体に振動を与える。僕は自然と息を詰め、手に汗を感じた。普段のおとなしい彼女が、今ここで音楽に全身を委ね、空気を震わせている。胸の奥が熱くなる。
サビのクライマックスに差し掛かると、ライトの白が少し明るくなり、オレンジの光と混ざって部室は金色に輝いた。鍵盤の上で指が踊り、旋律は軽やかに跳ねながらも厚みを失わない。音の波が僕の心を直撃し、身体の奥まで振動が届く。僕の目には、琴音の手元の指先が鮮明に映り、音に込められた感情まで見えるようだった。
「……すごい……」
僕の口から自然と零れる。演奏の途中なのに、胸の内で感動が膨らみ、言葉にならずにはいられなかった。琴音は一瞬だけ僕に視線を向け、控えめに微笑む。けれどその目には、確かな自信と演奏に没頭する集中力が宿っていた。
曲の終盤、最後のフレーズに差し掛かると、彼女の指は流れるように鍵盤を走り、音が部室の壁に吸い込まれるように消えていく。残響がゆっくりと空気を揺らし、僕の胸の奥まで響き続ける。演奏が終わった瞬間、部室の中に静寂が戻り、僕はその余韻にしばらく動けなかった。
「……完璧だった」
思わず呟いた言葉は、小さく震えながらも真実だった。琴音はほんの少し照れたように顔を伏せ、静かに息を整える。その姿から目を離すことができず、僕はしばらく彼女の存在そのものと、鍵盤から生まれた音の残響に心を浸した。
部室のライトの色はまだ温かく、柔らかく揺れている。琴音の演奏が残した音の余韻が、僕の中で静かに燃え広がるようだった。僕もギターを持つ手に力を込め、指先にわずかな期待を乗せる。あの音のように、誰かの心に直接届く演奏が、いつか自分にもできるのだろうか——そう考えると、胸の奥に小さな熱が広がった。
琴音の演奏は、ただの音楽ではなく、言葉にできない感情や、空間全体を支配する力を持っていた。僕はその場で、音と光と彼女の存在に完全に魅了され、改めて「演奏を聴く」という体験の深さを知ったのだった。
演奏が終わり、部室に静寂が戻る。鍵盤から放たれた音の余韻が、まだ空気の中で揺れていた。僕はしばらく椅子に座ったまま、その余韻に耳を澄ませていたが、胸の奥に湧き上がる熱を抑えきれず、ようやく口を開いた。
「……琴音、すごかったよ」
小さな声だったけれど、部室の静けさのせいか、彼女にはしっかり届いたらしい。琴音はわずかに顔を上げ、伏せたままの瞳で僕を見つめる。その目はいつものおとなしい表情のままだけれど、どこか柔らかい光を帯びていた。
「……ありがとう」
静かで控えめな声。けれどその一言に、彼女の全身から漂う集中の熱が残っているようで、僕の胸にじんわりと伝わった。
僕は思わず前のめりになり、椅子に手を置いて呼吸を整える。指先にまだギターを握った感覚が残り、演奏した自分の余韻と、琴音の放った音の余韻が交錯する。部室の柔らかいオレンジ色のライトが、二人を優しく照らしていた。光が琴音の髪を淡く縁取り、肩や手元の鍵盤を柔らかく浮かび上がらせる。
「……本当に、完璧だった」
自然と口からこぼれた言葉。演奏の正確さや強弱のつけ方、旋律の滑らかさ——全てが聴く者の心を揺さぶるように完璧だった。琴音の指先が鍵盤の上で踊る姿が、まだ目に焼き付いている。
琴音は少し照れたように目を伏せ、肩を小さくすくめた。普段は控えめでおとなしい彼女が、演奏を通して見せる凛とした姿とのギャップに、僕の胸はまた少しざわついた。
「……蓮、聴いてくれてありがとう」
その声は優しく、でも真っ直ぐに届く。僕の心臓が一瞬跳ねた。演奏だけでなく、言葉でもこうして胸に響かせられるのか——驚きと感動が入り混じる。
僕は言葉を選びながらも、率直な気持ちを伝えた。
「うん……ほんとにすごかった。音が、直接心に届いた気がした。……あんなに完璧に弾けるんだね」
琴音は少し微笑んで、軽くうなずいた。その仕草だけで、僕には十分すぎるほど伝わるものがあった。普段の控えめな彼女が、演奏ではこんなにも力強く、空間全体を包み込む存在になる——そのことを、僕は目の当たりにしたのだ。
しばらく二人は言葉を交わさず、ただ部室の中に残る音の余韻とライトの光に身を委ねていた。僕の胸の中では、演奏で満たされた余韻がゆっくりと心の奥に沈み込んでいく。
「……僕も、もっと頑張ろう」
自然と湧き上がる決意。それは、ただギターの腕を磨くことだけでなく、琴音のように誰かの心に響く演奏ができる自分になりたい——という願いだった。
おとなしく微笑む彼女の姿は、演奏中の凛とした面影と相まって、僕の胸に深く刻まれた。僕はその瞬間、この部室での時間が、ただの練習や演奏の場ではなく、互いに心を通わせ、成長していく場になる予感を強く感じたのだった。
その後数人の演奏が終わった。星川さんは緊張しながらも最後までミスなく演奏できていた。
「二人とも凄かったよ。蓮、練習の成果出てたじゃん。星川さんもこんなに上手いなんて。びっくりしたよ。」
琴音が満面の笑みで言う。
「私なんて……緊張しててどんな感じだったか全く記憶になくて。それに神楽さんの演奏もとても素晴らしかったです。」
恐れ多い。という風に謙遜しながら星川さんは言った。
「私もキーボードなんて初めてだからあまり上手くはできなかったよ。やっぱりピアノとやってること少し違うね。」
僕と話した時と雰囲気が違って少し優越感に浸る。特別感を感じられた。
部室の扉を押し開けると、夕暮れの柔らかい光が廊下に差し込んできた。オレンジ色の光が床に長い影を落とし、演奏で熱を帯びた身体をそっと包み込む。僕はギターを背に感じながら、一歩一歩足を進める。その重みと共に、部室での時間がまだ胸の奥で温かく振動しているのを感じた。琴音はキーボードの手を優しく握り、静かに肩を揺らしながら歩いている。星川さんはベースを肩にかけたまま、柔らかな笑みを浮かべ、僕の横で穏やかな足取りを刻んでいた。
「今日の演奏、楽しかったね……」
琴音の声は小さく、でも真っ直ぐに届く。普段の落ち着いた彼女の声に比べると、微かに弾むような響きがあって、それだけで僕の胸が少し跳ねた。
「うん……本当に」
僕も自然に答える。言葉にせずとも、演奏中の興奮と集中、そして達成感がまだ身体の奥で熱を持っている。すべてが僕の身体の一部のように記憶に刻まれている。
廊下を歩くたびに、靴底が床を軽く叩く音と、肩にかけた楽器の重みが絶妙なリズムを刻む。柔らかな夕陽は壁に反射し、三人の影をゆらゆらと伸ばしては縮める。演奏中の緊張と集中が溶けた後の、静かで温かい余韻に包まれながら、僕は自然と呼吸を整えていた。
「なんかすぐに終わっちゃったね。」
琴音がふっと呟く。その目はキーボードでの演奏の興奮を思い返しているようで、普段の落ち着いた彼女とは少し違う光を帯びている。
「……うん。あっという間だった。」
僕は肩越しにギターを感じながら答える。手元の弦の振動が、まだ微かに余韻を残している。演奏中の集中と熱量が、今の僕の胸に静かに残っているのを感じながら、言葉にして伝える。琴音はその言葉に小さく頷き、優しい笑みを浮かべた。
星川さんは小さなバッグを肩にかけたまま、少し前を歩きながら振り返り、柔らかく声をかける。
「白瀬くん、今日のギター、すごく良かったよ。本当に聴き応えがあった」
その言葉に、胸の奥に小さな熱がじんわりと広がる。自分の弾いた音が、二人にちゃんと届いていた――それが嬉しくて、そして少し誇らしくもあった。僕は照れくささを胸に押し込みながら、静かに笑みを浮かべる。
校門に近づくと、春の風が頬を撫で、桜の香りが淡く混ざる。舞い散る花びらが制服や肩に触れるたび、今日の演奏の熱と、部室でのひとときの記憶が鮮やかに蘇る。僕は手で一枚の花びらを受け止め、指先でそっと揺らしてから、ふわりと空へ返した。その小さな動作に、胸の奥がすっと軽くなる感覚があった。
「そろそろ帰ろうか……」
琴音の声は再び静かで、でも温かく響く。星川さんも頷き、三人でゆったりと校門をくぐる。夕陽に照らされた校庭は、まるで金色の絨毯のように輝き、僕たちの影を長く伸ばしている。
僕は背中のギターを感じながら、演奏した音の余韻に浸りつつ、帰路へと足を進めた。琴音は隣で静かに歩き、星川さんは少し前を行きながらも、時折振り返って微笑む。三人で歩く放課後の時間は、演奏の緊張や興奮が溶けた後の、穏やかで柔らかな幸福感に満ちていた。
空は淡いオレンジから徐々に青へと移ろい、春の夕暮れが校舎を優しく包む。僕は胸の奥に残る演奏の余韻を感じながら、静かに呼吸を整えた。今日の体験が、これからの学校生活の中で、胸を支えるひとつの光になる――そう確信しながら、僕はゆっくりと帰路を歩き続けた。
「では私はこれで。また明日会いましょう。」
朝あったところあたりで星川さんはそう言って左折して行った。
その後僕たちは二人で歩みを進める。朝練習した公園のあたりで琴音がふと口を開いた。
「そうだ。今日蓮の家で夜ご飯だよね。」
「うん。お母さんもそう言ってた。琴音の家族が来るって。」
琴音は「間違えてなくてよかった」と安堵の息を吐き静かに目を閉じた。
そのまま少し走りくるりとこっちを振り向いて口を開きかけた。
「なに?なんか言おうとした?」
僕は琴音に聞いてみる。
「やっぱり内緒。」
「何それ。」
「なんだろうね。」
そして僕たちは顔を見合ってぷっと吹き出して笑った。高校生になって琴音との距離が縮まったような気がする。
歩道を歩く僕と琴音の間には、言葉のない穏やかな時間が流れていた。夕陽が低くなり、家並みが柔らかい影を落とす。風はまだ少し肌寒いが、桜の花びらが舞う光景がそれを忘れさせるようで、僕は肩の力を自然に抜くことができた。
「……夕方って、なんだか少し寂しいね」
琴音の声はいつも通り控えめで、でもその言葉には静かな温度があった。僕はすぐに視線を彼女の横顔に向ける。夕陽のオレンジ色が頬にほんのり映り、髪の毛の先が風に揺れる。柔らかく、けれどはっきりとした輪郭を残すその横顔に、僕の胸が少しざわついた。
「そうだね……でも、今日は楽しかったから、なんだかちょうどいい感じだ」
僕は小さく笑いながら答える。琴音は少しだけ頷き、目を地面に落とした。歩くリズムは自然とそろい、互いに気を遣わずに歩ける距離感がそこにあった。
通りを曲がるたびに、住宅街の夕暮れの匂いが混ざる。カレーなどの夜ご飯の香りや、庭先の花の香り、少し湿った土の匂い。琴音のそばを歩きながら、その匂いが彼女の存在と重なって、心地よく胸に染み入る。
「……蓮って、今日の放課後、どう思った?」
琴音はさりげなく、でも真っ直ぐに僕の方を見て問いかける。その瞳は控えめで、でも確かに僕を見つめていた。僕は少し言葉に詰まり、でもその目を見ていると正直に答えたくなる。
「うん……思った以上に楽しかったよ。音楽って、やっぱりいいなって」
言葉を口にすると、琴音の唇がわずかに動き、微かに笑みを浮かべた。その笑顔は軽やかで柔らかく、夕暮れの光の中でほのかに輝いて見える。僕は無意識にその笑顔を目で追ってしまった。
歩道の端にある小さな公園を通り過ぎると、遠くで子供たちの声がかすかに聞こえた。僕たちはしばらく黙って歩く。静かな時間の中で、心が少しずつ落ち着いていくのがわかる。会話は多くなくても、琴音の存在が僕を支えてくれるような、そんな安心感があった。
「蓮、明日も……一緒に帰れるかな」
その言葉に、僕は自然と笑顔になる。心の中で少しだけ胸が高鳴るのを感じながら、うなずいた。
「うん、もちろん」
空はさらに色を濃くして、オレンジと紺色が混ざり合ったグラデーションを作る。僕たちは歩幅をそろえ、少しずつ家に近づく。街灯がぽつりぽつりと灯り始め、影が長く伸びていく。その光と影の間を歩く時間は、ただの帰り道でありながら、僕にとって特別な瞬間の連続だった。
琴音の手が少しだけかすかに肩に触れる距離を保ちながら、僕は心の中で今日一日の出来事を整理する。学校の喧騒、部活動体験、みんなの笑顔、そして何より琴音と歩くこの時間。すべてがゆっくり胸に落ちていくようで、僕はこの感覚を忘れたくないと思った。
「……もうすぐだね」
琴音が小さくつぶやく。家の明かりが見え始め、僕たちはそれに向かって歩く。遠くで風が吹き、桜の花びらがふわりと舞う。僕はその光景を胸に刻み、琴音と歩くこの瞬間を、大切に抱えながら進んでいった。
僕たちは最後の角を曲がると、琴音の家が見えてきた。淡い夕暮れに照らされた白い壁と、玄関前の小さな植木が影を落としている。僕は少し歩を緩め、琴音もそれに合わせるように静かに歩いていた。
「またあとで。着替えてくるから七時くらいになると思う。」
琴音は声を明るくしてそうつぶやく。振り返ると、少し照れくさそうに微笑んでいる。その笑顔に、僕は思わず胸が高鳴った。今日一日を思い返すと、演奏のこと、部室の雰囲気、そしてずっと隣で歩いた琴音の存在……すべてが心をじんわり温めていた。
「今日はありがとう、琴音」
僕は自然と口をついて出た。ほんの少しだけ声が震えている気がしたけれど、琴音は優しく頷くだけだった。
「……こちらこそ、ありがとう。楽しかったね」
その声は柔らかく、でもしっかりと僕に届いた。僕はその響きに胸が押されるような気持ちになり、思わず少し笑顔になる。
玄関の前まで来ると、琴音は小さく立ち止まった。影が少し伸び、夕陽が髪の毛の先を橙色に染めている。僕は一歩踏み出して、言葉を探す。
「また、明日も……一緒に行こ?」
小さく聞いてみると、琴音の瞳が一瞬ぱっと明るくなる。
「うん、もちろん。まぁ、あとで食事会の時に約束すればいいけどね」
その答えは静かで、でも確かに僕の胸に届いた。自然に笑みがこぼれ、言葉にならない高揚感が心を満たす。
二人並んで立ち止まる時間は、ほんのわずかだったけれど、僕には特別に長く感じられた。夕暮れの空が深い紺色に変わり、街灯が柔らかく道を照らし始める。その光の中で、琴音の存在は一層静かに、でも確かに僕の側にあった。
「じゃあ……またあとでね」
琴音が微笑みを浮かべながら言う。僕はその声に合わせてうなずき、少し手を振った。琴音も小さく手を振り返す。
その手の動きの中に、言葉以上のものが詰まっている気がした。言葉では伝えきれない、今日の時間の余韻や、これからも続く日々への期待。それをそっと胸に抱きながら、僕は家へ向かう足を進めた。
帰路を歩く途中、空には淡い星が見え始めていた。夕暮れの残り香と夜の冷たさが混ざり合い、僕の胸をじんわりと満たす。今日一日、琴音と過ごした時間が、こんなにも特別に思えるなんて。
家のドアを開けると、日常の匂いや音が迎えてくれる。妹の声やテレビの音、キッチンから漂う夕飯の匂い。外の静かな空気と、家の温かい空気の差に、僕はほっと肩の力を抜いた。琴音と歩いた道の記憶を胸に、僕は自分の部屋へと向かう。
窓の外には夜の静けさと、残りの桜の花びらが風に舞っている。今日の一日が鮮やかに心に残り、明日への期待を柔らかく膨らませる。琴音との距離が少しだけ近づいたこと、それだけで心がふわりと温かくなるのを感じた。
部屋に入ってドアを閉めると、今日の記憶が静かに胸の中に沈んでいく。まだ言葉にはできない感情や、高揚感、そして少しの緊張。それらを抱えたまま、僕は窓の外をぼんやり眺めた。琴音も同じ空の下にいると思うと、胸の奥に小さな安心が広がる。




