◆新たな一歩
春風に舞う桜の花びらを浴びながら、校門をくぐる。朝の光が校庭に差し込み、淡いピンク色に染まった地面を僕たちの足音が軽く踏みしめる。右隣を歩く星川紗夜は制服のスカートの裾をそっと押さえ、視線を前に向けている。
「人が多いですね……」
小さな吐息が混じるその声音には、緊張と不安が半分ずつ混じっていた。
「うん……でも、楽しみだね」
僕は少し笑みを浮かべながら答える。
視線を上げると、校舎の窓ガラスが朝日を反射してきらめいていた。どこか冷たさを残す春の空気と、華やかに揺れる桜。その対比が妙に心をざわつかせる。新しい学校生活への期待と、慣れない環境への不安がせめぎ合い、心臓の鼓動が少し速くなるのを感じた。
体育館の入り口に差し掛かると、人の流れに押されるように中へ進む。扉を抜けた瞬間、独特のひんやりとした空気に包まれた。ワックスがけされた床の匂い、整然と並んだ椅子の光景、天井の鉄骨に吊るされた照明。そこに集まる新入生や保護者のざわめきが重なり、体育館全体が大きな渦のように響いていた。
席に腰を下ろすと、緊張感がさらに強くなる。僕の耳は周囲の音を敏感に拾い、制服の擦れる音、後ろで誰かが小さく咳をする音、紙をめくる音までがやけに鮮明に聞こえる。呼吸を整えようと胸に手を置いてみても、心臓の早鐘はそう簡単には落ち着いてくれなかった。
やがてブザーが鳴り、ざわめきがすっと収まる。壇上に校長先生が上がり、ゆったりとした口調で式辞を述べ始める。内容は「学びの大切さ」や「挑戦する心」といった普遍的なものだったが、不思議と耳に残った。体育館に響く声は重みを帯び、まるでこれからの日々を約束するかのようだった。
続いて、新入生代表の挨拶があると告げられる。名前を聞いた瞬間、僕の背筋は思わず伸びた。
――神楽琴音。
舞台に現れた彼女は、落ち着いた足取りで壇上に進むと、マイクの前に立った。真新しい制服に身を包んだその姿は凛と輝いていて、会場の空気が一瞬で引き締まった気がした。
「本日は、このように盛大な入学式を開いていただき、誠にありがとうございます――」
澄んだ声が体育館に響き渡る。滑らかな言葉運び、視線の配り方、そして堂々とした佇まい。僕はただ呆然とその姿を見つめていた。
朝、一緒に登校した時とは別人のようだった。なぜか一段と大人びて見えて少しドキッとした。
視界の端で、星川さんが小さく囁く。
「すごい……全然緊張してないみたい」
「……ああ、本当だ」
僕は無意識に返事をしながら、目を逸らせなかった。
琴音の言葉は一つひとつが真っ直ぐで、まだ何者でもない僕たち新入生に未来を描かせる力を持っていた。まるで自分たちを導く光のようで、僕らの心を鷲掴みにした。
拍手が鳴り響き、彼女は舞台を降りていく。その背中を見送りながら、僕の胸の奥には強い余韻が残った。
再び来賓の挨拶が続き、体育館の時間はゆったりと流れていった。舞台横の窓からは柔らかな陽光が差し込み、桜の花びらがひらりと舞い込んで床に落ちる。僕はそれをぼんやりと眺めながら、式の進行よりも、自分の心のざわめきに耳を傾けていた。
やがて校歌斉唱の時間となり、先輩たちの声が一斉に重なった。澄んだ歌声が天井に反響し、体育館全体を包み込む。僕たち新入生は歌詞カードを見つめるだけで声を出さなかったが、その響きに胸を打たれる。
「綺麗な歌ですね……」
星川さんが小さく呟く。
「うん……」
僕も同じように小さく返事をし、響き渡る旋律に耳を澄ませた。
式が終わり、体育館の扉が大きく開かれる。待っていたように春の風が吹き込み、閉ざされた空気を一気に吹き払った。桜の花びらが渦を巻きながら舞い込み、制服の肩やスカートにひらりと落ちる。
「わあ……」
星川さんが目を輝かせる。その横顔を見て、僕の口元にも自然と笑みが浮かんだ。
外に出ると、校庭はざわめきと笑い声に満ちていた。写真を撮る家族、再会を喜ぶ旧友、緊張で言葉少なに立ち尽くす者。光と音と色が溢れるその風景の中で、僕は大きく息を吸い込んだ。
――ここから始まる。三年間の物語が。
肩に落ちた桜の花びらをそっと指でつまみ、空に向けて放った。それは風に乗って高く舞い上がり、青空へと溶けていった。




