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ep. 9 迎える朝は黎明

 巨大な観音開きの扉を押し開けると、そこは外の血生臭い喧騒が嘘のように静まり返った、広大な座敷だった。

 

 部屋の中央、一段高くなった上座に、一人の青年が鎮座していた。人間離れした、透き通るような美貌。しかし、その身から立ち上る威圧感と、肌を粟立たせるような異質な気配が、彼がただ者ではないことを無言で物語っている。


 青年は手元の徳利を傾け、澄んだ清酒を御猪口に注ぐと、私の方へすっと差し出した。


「人の身で、よくここまで来たな。酒でもどうだ? 名は何という?」


 鈴を転がすような、よく通る声だった。私は短く答える。


「……東堂沙羅」

 

「沙羅、か。いい名だ。凛として、しかし強かな名だ」


 青年は御猪口を口に運び、ふっと目を伏せた。


「――だが、残念だったな。私を殺しても、貴様の両親も、あの生け贄の少女も生き返りはしない。すべてこの地の供物となった。とんだ無駄足だったな」

 

「そうか……」


 私はゆっくりと拳銃を持ち上げ、青年の眉間に照準を合わせた。


「そうでもない」


 迷いなく引き金を引く。9ミリ弾が青年の美しい額の中央を正確に撃ち抜いた。

 

 だが、それで青年が血を流して倒れることはなかった。撃たれた瞬間に空間がブレ、青年の姿がかき消える。直後、彼は朱色と白を基調とした狩衣を纏った姿へと変貌した。各所には緋色の睡蓮が、観衆のように狂い咲いている。


 青年の瞳は爬虫類のような黄色に染まり、瞳孔が縦長に裂けていた。口元からは細く二股に分かれた舌がチロチロと覗く。その手には、二匹の生きた蛇が蠢くように巻き付いた、黒漆の長杖が握られていた。


 青年――もとい蛇神は、舞を舞うような優雅で、しかし恐ろしく速い動きで長杖を振り回し、私に襲いかかってきた。

 

 私は身を沈めて刺突を回避し、懐へ潜り込もうとする。が、杖に巻き付いていた蛇がバネのように伸び、私の顔面めがけて牙を剥いた。

 

 咄嗟に仰け反って緊急回避し、床を蹴って大きく距離を取る。


 だが、蛇神の攻めは止まらない。奴の足元から、水面を這うようにして多数の半透明の蛇が湧き出し、津波のように私へ押し寄せてきた。

 

 私は後ろへ下がりながらグロックの引き金を連続で引き、迫る蛇の頭を次々と吹き飛ばす。最後の数匹を殲滅し息をついた瞬間、死角から蛇神の長杖が迫っていた。


 間一髪で杖の打撃は躱したものの、再び伸びてきた杖の蛇が、今度は私の左腕にガッチリと噛みついた。


「ぐッ……!」


 鋭い痛みが走り、牙から嫌な熱が送り込まれる感覚がした。


 私は痛みに顔を歪めながらも、噛みつく蛇の頭を左手で強引に固定し、右手で抜いたコンバットナイフを振り下ろす。蛇の首を切断して引き剥がした直後、もう一匹の蛇が私の眼前に迫った。下から上へナイフを突き立て、空中で蛇の頭を串刺しにする。


 なんとか蛇の撃破には成功したが、すでに毒が回っていた。肺に空気が入ってこないような息苦しさと、手足に鉛を詰められたような強烈な倦怠感が全身を襲う。視界がかすかに揺れた。


 蛇神はその隙を見逃さなかった。動きの鈍った私に対し、長杖による猛攻を仕掛けてくる。

 

 私はナイフと銃で必死に防ぎ、避けるが、次第に反応が遅れ始めた。肩を、太ももを、背中を、硬い杖が容赦なく打ち据える。防弾服のおかげで骨折こそ免れているが、蓄積するダメージで膝が笑い始めていた。


 ――このままじゃ、ジリ貧だ!


 長杖が私の脇腹を強打した瞬間、私はあえて後退せず、その杖を左脇にガッチリと挟み込んで掴み取った。

 

 驚愕に目を見開く蛇神の懐へ強引に踏み込み、右手のグロックを奴の胸板に押し当てる。


「死ねッ!」


 至近距離から、残弾のすべてを浴びせる。

 

 連続する破裂音。蛇神が苦悶の悲鳴を上げ、杖を手放して大きく後退した。


 だが、それは終わりの合図ではなく、本当の悪夢の始まりだった。

 

 蛇神の整った顔が、メリメリと音を立てて裂けた。中から巨大な蛇の顎が現れ、首筋から全身にかけておぞましい鱗が広がり始める。

 

 色白の肌がどす黒く腐り落ち、睡蓮の茎が太い触手のように肉体へ絡みつく。狩衣の上半身が破れ去ると、筋骨隆々の異形の肉体が露わになった。腕がボキボキと関節を外し、増殖し、計六本に増え上がる。下半身は完全に大蛇の胴体へと変貌し、ズルリと床を這う。

 

 腐った睡蓮から新たな毒々しい花が芽吹き、その花びらの中では、苦悶の表情を浮かべた無数の人の頭が蠢いていた。

 

 神々しかった声は消え失せ、何重にも重なった狞猛な雄叫びが空間を震わせた。

 

 その叫びと呼応するように、周囲の景色が一変する。

 

 美しかった朱色の社は大きく崩れ落ち、天井が剥がれ落ちて雨水が降り注ぐ。朱色の柱は朽ちて苔むし、床の大部分が沈み、澱んだ泥水が足元を浸した。ここが奴の本当の「世界」なのだ。


 私は咄嗟にグロックのマガジンを替えようとしたが、大蛇の尾がムチのようにしなり、私の右手を強打した。

 

「痛ッ!」

 

 手から銃が弾き飛ばされ、濁水の中へ没する。

 

 武器を失った隙を突き、蛇神の六本の腕が怒涛の連続攻撃を繰り出してきた。私は両腕をクロスして必死にガードするが、人間離れした巨腕の乱打にどんどん押し込まれる。防弾繊維越しでも、骨が軋み、腕の感覚が麻痺していく。


 そして、渾身の一撃が私のガードを真正面から粉砕した。

 

 体勢が崩れたところへ、太い蛇の尾が私の胴体に巻き付き、ギリギリと締め上げる。


「カハッ……!」


 肋骨が折れんばかりの圧力。私は朦朧とする意識の中で逆手持ちのナイフを振り上げ、自分を巻き込む尾の肉に深々と突き立てた。

 

 尾がたわみ、拘束が緩んだ隙に床へ転げ落ちる。

 

 肺に酸素を送り込もうと激しく咳き込んでいると、今度は蛇神の身体から伸びた睡蓮の人の頭が無数に押し寄せ、私の腕や足、肩にガブリと齧り付いた。


「ああっ! クソッ、離れろ!」


 一つ引き剥がしても、すぐに別の頭が齧り付いてくる。無限に湧き出る亡者たちに身動きを封じられた。

 

 そこへ、蛇神の巨大な拳が容赦なく振り下ろされた。


 私の腹部に、渾身の正拳突きがめり込んだ。

 

 噛みついていた頭が一斉に弾け飛び、私の身体は砲弾のように大きく吹き飛ばされた。一瞬、完全に意識が飛ぶ。

 

 宙を舞う私の足に、太い茎が絡みついた。蛇神は私を空中で振り回し、朽ちた柱や瓦礫に何度も叩きつけた後、澱んだ水辺へと力任せに投げ捨てた。


 濁った水を跳ね上げ、私はうつ伏せに倒れ込んだ。全身の骨が砕けたように痛い。指一本動かすことすら億劫だった。冷たい泥水が、顔の半分を浸している。


 ――ここまで、か。


 満身創痍。すべてを諦めそうになった、そのときだった。 意識の底から、あの声が響いた。


『なんだ? もう終わりか?』


 ゆっくりと顔を上げると、勝利を確信した蛇神が、私にトドメを刺すべく悠然と這い寄ってくるところだった。


『夜明けまで、あと何分だ』


 その言葉に、私はガタガタと震える腕を無理やり動かし、泥まみれの腕時計に目を落とした。


「二分……いや、三分あるかも」

 

『なら寝てる暇は無いな。立ち上がれ』


 その瞬間。私の胸元に忍ばせていた、あの少女から託された一枚の御札が、熱を帯びて激しく光り輝いた。

 

 光は実体を持ち、私の手の中で、神々しいオーラを放つ一振りの刀へと変貌を遂げる。

 

 私はその柄を、泥に塗れた両手でしっかりと握りしめた。冷たいはずの刀身から、温かく、そして力強いパワーが奔流のように流れ込んでくる。

 

 それは、私を蘇らせた白蛇の力。目を潰された少女の悲願。この呪われた地で理不尽に命を散らしたすべての者たちの無念。そして何より――絶対に生きて帰るという、私自身の渇望だった。


 気力が肉体の限界を凌駕する。私は、ゆっくりと刀を構えて立ち上がった。

 

 その気配に怖気づいたのか、蛇神が初めて焦りの表情を見せた。奴は六本の腕のうちの一本に硬質な鱗を集中させ、岩のようになった巨大な拳で私を潰そうと振り下ろす。


 私は一歩も退かず、下から上へ、刀を一閃した。

 

 刃は抵抗を一切感じさせず、まるで豆腐を切るかのように、硬化した巨腕を肩口から斬り飛ばした。ドスンと重い腕が泥水に落ちる。


 自身の腕が呆気なく切断されたことに蛇神が絶叫し、ズルズルと無様に後ずさる。


「どうした、神様? 神ともあろう方が、腕一本ぶった切られただけで怖じ気づくのか?」


 私は冷たく言い放ち、一歩前に出る。

 

 蛇神は言葉にならない咆哮を上げ、残った五本の腕、水面から湧き出す無数の蛇、そして伸びてくる人の頭のすべてを使い、滅茶苦茶な一斉攻撃を仕掛けてきた。


 私は刀を振るい、迫る蛇を、牙を、拳を、次々と両断し、弾き落としながら真っ直ぐに肉薄する。

 

 捌ききれなかった拳が防弾服を掠め、蛇の牙が頬を切り裂いた。だが、もうそんなもので私の足は止められない。


 蛇神の巨大な胴体が目の前に迫る。

 

 私は濁水を蹴り立て、これまでのすべてを乗せて大きく跳躍した。上段に振りかぶった刀の切っ先が、空中で鋭い軌跡を描く。


 裂帛の気合いとともに振り下ろされた刃は、蛇神の頭頂部から股下までを、一切の抵抗なく一刀両断に引き裂いた。


 私が背後に着地すると同時、真っ二つに割れた蛇神の巨体が、青白い光の粒子となってボロボロと崩れ落ちていく。


「あばよ、蛇神。私は帰らせてもらうよ」


 振り返ることなく刀を払う。

 

 その直後、周囲を覆っていた水辺の幻影や朽ちた社の景色が、パツンと弾けるように消え去った。


 冷たい夜風が全身を撫でる。

 

 気がつけば私は、現実世界の、屋根も抜け落ちて朽ち果てた無人の小さな神社の境内に立っていた。空はうっすらと白み始め、夜明けの光が森の輪郭を浮き彫りにしている。


 あまりの唐突な幕切れに、今までのすべてが長い悪夢だったのではないかと一瞬疑った。

 

 だが、私の右手には微かに温もりを残す刀がしっかりと握られており、身に纏っているのは紛れもなくあの少女から貰った防弾ブレザーだ。全身に残る鈍い痛みも、これが現実であることを容赦なく証明している。


 終わったのだ。

 

 私は刀をその場に突き刺し、昇り始めた黎明の光を、ただ静かに見つめていた。

お読みいただきありがとうございます。


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