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第76話

光と闇の渦が、ようやく静まりつつあった。

崩壊した研究棟のホールには、まだ焦げた金属と魔力の匂いが漂っている。

封印陣は半ば焼き切れ、赤黒い霧は薄れていった。


ノクティリアはその中央に立っていた。

髪は黒のまま、だが頬は透けるように白く、胸元にはぽっかりと空洞が残っている。

心臓が、ない――。


「……安定してない。エネルギー波形が崩壊寸前!」

レイナが端末を操作しながら叫ぶ。

マナは前に出て、倒れかけるノクティリアを支えようとした。

「動かないで!まだ封印が……!」


だが、そのとき――。


「まぁまぁ、そんな怖い顔をなさらないで?お姉さま」


通路の向こうから、軽やかな声が響いた。

空気が揺れ、黒い外套を翻す少女が現れる。

その顔を見た瞬間、マナの表情が凍りついた。


――自分と、瓜二つ。


違うのは、髪が少し長く、瞳が紅玉のように澄んでいること。

少女は艶やかな微笑を浮かべ、ゆるやかに歩み寄ってくる。


「マナツ……!」

セリーヌが驚きの声を上げた。

少女――マナツは可憐に一礼し、楽しげに言う。


「ごきげんよう、セリーヌ様。そして――お姉さま」


「……お姉さまって呼ぶのやめなよ」

マナは顔をしかめる。

「何しに来たの?今は冗談言ってる場合じゃない」


マナツはくすりと笑った。

「まぁ、相変わらずですのね。お姉さまってば、いつも真面目でいらして」

その声にはどこか懐かしい響きがあり、同時に、底知れぬ余裕が滲んでいた。


彼女の腕には、透明なケースが抱えられている。

中で赤い光が脈打ち、ほとんど生き物のように波打っていた。


「それは……!」

レイナが息を呑む。


「ええ、“心臓”ですわ」

マナツは唇を艶やかに弧を描かせる。

「ノクティリア様の、最後の欠片。取り戻してきましたの。

お姉さまが危険な目に遭っていると聞いて……放っておけませんでしたわ」


マナは一瞬だけ眉をひそめる。

「……勝手なことを。誰の許可でエイドロンの封印庫に入ったの?」

「許可?ふふっ。お姉さま、そんなもの必要ございませんのよ。

だって、わたくし――あなたの“コピー”ですもの。アクセスコードくらいお手の物ですわ」


その無邪気な言葉に、マナの表情が揺らぐ。

マナツは軽やかに指を動かし、容器を掲げる。

紅の光が再び強く脈動し、ノクティリアの胸元を照らした。


「もう終わりにいたしましょう。――ノクティリア様、あなたの夜を取り戻して」


「ま、待てっ――!」

マナが叫ぶが、その瞬間にはもう遅かった。

紅い光が解き放たれ、ノクティリアの胸へと吸い込まれる。


まるで息を吹き返すように、ノクティリアの身体が震えた。

欠けていた鼓動が戻り、空気が震え、床の破片が宙に浮く。

その光景は、美しくも恐ろしいほど神聖だった。


「マナ、離れて!」

レイナが叫び、二人は後退する。


紅い光が収まり――静寂が訪れた。


そこに立っていたのは、完全な姿を取り戻したノクティリアだった。

黒髪が流れ、黄金の瞳がゆらりと開く。

その表情は穏やかで、どこか人間的な優しさすら宿していた。


「……これが……私」

ノクティリアは胸に手を当て、静かに呟いた。

「セリーヌ、マナ、レイナ……ありがとう。そして、マナツ」


マナツは嬉しそうに両手を合わせた。

「ふふっ、喜んでいただけて何よりですわ。

お姉さまが無茶をするから、こうして駆けつけた甲斐がありましたの」


「無茶じゃない、任務よ!」

マナが睨むが、マナツは軽く肩をすくめて笑う。

「あら、そういうところが可愛らしいんですのよ、お姉さま」


セリーヌがわずかに微笑み、空気が和らぐ。

だが、ノクティリアの表情だけが静かに曇った。


聖域の中心で、闇が目を覚ます。

ノクティリアの胸の奥から、何かがゆっくりと溶け出していた。

紅の瞳が微かに輝き、その光が空間を歪ませる。


「……けれど、まだ終わってはいないの」

掠れた声が響くたび、封印核の結晶が共鳴する。

床下に埋められた環状陣が光を帯び、かつて“夜”を縫い止めた術式が反転し始めた。

その中心に、微細な光の粒が浮かび上がる。


「見える……?」

ノクティリアが指先を掲げた。

それはまるで星の欠片のようだった。

だが近づくと、星ではなく、誰かの記憶だった。

――泣く声、祈る声、何度も夜を呼び戻そうとする、群衆の意識。


「“夜の欠片”……それは、あなたの力じゃないの?」

マナの問いに、ノクティリアはゆっくり首を振った。

「いいえ、違うの。これは――わたしに祈った人々の残響。

夜を求め、死を赦し、忘却を願った者たちの夢。

そのすべてが、わたしを形づくっていた」


マナの背筋を冷たいものが走る。

欠片とは、単なるエネルギーではなかった。

世界に染みついた、祈りそのもの――“人間の記憶の集合”だった。


レイナがタブレットを操作する。

「データ層が反応してる……これは、“人類史そのもの”が揺らいでる!」

封印核の脈動が早まる。壁の紋章がひび割れ、映像のように過去の光景が浮かび上がった。

戦場、焚書、処刑、そして――ひとりの少女が夜空に祈る姿。

その顔が、ノクティリアと重なる。


「……わたしの“始まり”。」

ノクティリアは微笑んだ。

「祈りは力になり、力は名を得て、名は夜を創った。

そして夜は――再び祈られることで、終われなくなったの」


セリーヌが叫ぶ。

「だったら、欠片を回収すればいいのね!?全部集めれば――!」

「駄目ですわ、セリーヌ様」

マナツが彼女を制した。金の瞳が微かに揺れる。

「欠片は、ただの力ではございません。思念の総体です。

それを回収するということは――“世界を再び夜に染める”ということ」


そのとき、冷たい風が吹き抜けた。

封印の中心に光の縁が開き、ひとりの少女が現れる。

銀灰の髪、淡く透ける瞳。

「……やはり、この場所が起点だったのね」

エリシア。異界の観測者。


「私はエリシア。異界の縁から来た者。

この場所に埋め込まれた“同種の封印”を確かめに来た」

彼女の声が響くたび、欠片の光が震える。

ノクティリアがその姿を見つめ、穏やかに微笑んだ。

「あなたも、夜に触れたのね」

「……ええ。

そして理解しました。あなたは滅びではなく――記憶を留めるための意志だったのだと」


空間が共鳴し、ノクティリアの身体が淡く透け始める。

封印核が再び活動を始めた。

「まだ早いわ!エネルギーが安定していない!」

レイナが叫ぶ。

だがノクティリアは静かに、両手を合わせた。


「――祈りの残響を、もう一度眠らせる。

今度こそ、誰にも触れられない場所で」


ノクティリアはセリーヌの腕の中で、ゆっくりと顔を上げた。

紅の瞳が、彼女の涙を映して揺れていた。


「……ごめんなさい。あなたを、また巻き込んでしまったね」

「いいえ、違うの……」セリーヌは首を振る。

「わたしが――あなたを“もう一度見たかった”だけ。

夜を終わらせるのが怖くて、だから封印を解いたの」


ノクティリアはしばらく黙っていた。

だがその沈黙には、責める色はなく、懐かしい優しさがあった。

「あなたは、わたしの祈りの残響――最初に“わたし”を呼んでくれた人。

だからあなたがそう願うなら、もう一度だけ、歩いてみようかと思ったの」


彼女の身体が淡く光り始める。

それは完全復活の輝きだった。

夜の帳が開き、霧が世界を包み、

研究棟の壁に刻まれた封印紋がひとつずつ崩れていく。


「……これが“夜の欠片”」レイナが息を呑む。

空間を満たす光の粒――それは無数の“記憶”の断片だった。

祈る声、嘆く声、そして誰かを想う声。


マナが呟く。

「……これが、世界の裏に眠ってた“想い”か」

ノクティリアが微笑む。

「そう。祈りの残滓、夜の心臓。

誰もが一度は願った――“終わらない夜”の夢」


封印核が脈打つ。

だがその振動はもはや暴走ではなかった。

欠片が収束し、ノクティリアとセリーヌの間に浮かび上がる。


エリシアがその様子を静かに見つめていた。

「……あなたたちは、欠片の支配を超えたのね」

ノクティリアは微笑んで頷く。

「もう封じる必要はない。ただ、“委ねる”だけでいい」


彼女はセリーヌの手を取り、そっと胸の上へ導いた。

「この夜を、あなたに預けるわ。

わたしは眠るけれど――あなたが見守る限り、夜は狂わない」


セリーヌの瞳に涙が滲む。

「ノクティリア……そんなの、ずるいよ」

「ふふ、夜はいつだって、少しずるいものよ」


その言葉とともに、ノクティリアの身体が光に包まれる。

夜の欠片がひとつ、セリーヌの胸に溶け込んだ。

彼女の髪が一瞬だけ、銀色に染まり――すぐに戻る。


「……継承、完了」

エリシアが静かに言う。

「夜の系譜は絶えない。だが今、その支配者は“人間”へと還った」


マナは息を吐いた。

「結局、封印でも消滅でもなく、“託す”ってことか」

マナツが隣で笑う。

「ええ。とても人間らしい終わり方ですわ」


セリーヌは胸の奥で脈打つ微かな光を感じながら、空を見上げた。

もう夜は暴れない。

だが、その優しい闇は確かにここに生きている。


ノクティリアの声が、風に溶けて響く。

『ありがとう、セリーヌ。――もう、ひとりじゃないわ』


そして、夜は静かに幕を閉じた。

それは封印ではなく、継承。

新たな夜の断章が、彼女の胸の中でゆっくりと息をし始めた。

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