第75話
空気が震えていた。
崩落した研究棟の中央――かつて実験が行われていたホールは、いまや儀式の舞台へと変貌していた。
床に描かれた血色の紋様、周囲を取り囲む黒鉄の封印柱。
中心で脈打つ黒い結晶は、まるで心臓のように静かに呼吸している。
その前に立つ、黒衣の魔女セリーヌは手を組み、低く囁くように詠唱を紡いでいた。
「――《リヴァリエ・ノクティリア・エグゼ・ラメント》」
血と光が交わり、黒い霧が床を這う。
結晶の内部で何かが蠢き、まるで遠い記憶を思い出すように微かな声が響いた。
「……あれは、なに……?」
通路の影に潜むレイナが囁く。
マナは息を潜めながら、その光景を見つめていた。
「儀式……誰かを呼んでる」
「ようやく……また逢えるのね、ノクティリア」
彼女の頬を一筋の涙が伝う。
そして、結晶が砕け散った。
音が消え、世界が“夜”に飲み込まれる。
重力が一瞬だけ失われ、床に浮かぶ塵すら静止した。
その中心――光と闇の狭間に、ひとりの少女が姿を現す。
腰まで届く黒髪、月光を映したような灰銀の肌。
彼女の瞳は、金に近い橙で淡く揺れていた。
「……セリーヌ?」
声はあまりに静かで、そして懐かしげだった。
セリーヌは膝をつき、震える声で微笑んだ。
「そうよ、ノクティリア……ようやく、あなたをこの夜に還せたの」
ノクティリアはきょとんと目を瞬かせた。
「ずっと……呼んでたの?あなた、泣いてる」
「千年も経ったのよ。あなたがいなくなってから……」
少女のようなノクティリアは、少しだけ首をかしげた。
「そうなんだ。……でも、私、まだ全部が揃ってない気がする」
その言葉に、セリーヌの表情がわずかに曇る。
「……心臓が、欠けているの。
あなたの力を支える最後の器官。それだけが、別の封印地にある」
ノクティリアは胸に手を当て、軽く笑った。
「なんだか、スースーすると思ったの。心臓、置き忘れちゃったみたい」
「……ごめんなさい。でも、必ず取り戻す。あなたを完全な形で――」
「待って!」
その言葉を遮ったのは、マナだった。
「そんなことしたら、この場所だけじゃなくて、世界が壊れる!」
ノクティリアが初めて、マナに視線を向ける。
その瞳は金の光を宿しながらも、どこか幼げな興味をたたえていた。
「あなた……血の匂いがする。懐かしい感じ……」
「関係ない!あたしはあんたの仲間じゃない!」
「そっか……」
ノクティリアは少し寂しそうに笑う。
「でも、血ってね、覚えてるの。心が忘れても、夜がちゃんと呼ぶの」
「やめて!」
マナが叫んだ瞬間、ノクティリアの足元から黒い霧が広がった。
結晶の欠片が空中に舞い、空間が軋む。
セリーヌが焦りの声を上げる。
「まだ安定してない!心臓がないままじゃ、あなたの存在が崩れる!」
「大丈夫、セリーヌ。ちょっと眠いだけ……」
ノクティリアがゆっくりと目を閉じると、霧が竜のように形を変え、通路の天井を突き破った。
警報が鳴り響き、エイドロンの防壁が作動する。
マナは拳を握りしめ、レイナに叫ぶ。
「止めるよ!このままじゃ全部巻き込まれる!」
「了解――行く!」
ノクティリアの瞳がふたりを見据えた。
「また誰かが、夜を終わらせようとしてるのね……」
その声は、悲しみと慈しみが入り混じったように揺れていた。
そして――
不完全な真祖と、血を拒んだ少女たちの戦いが始まった。
***
黒と紅の閃光が交錯し、崩れかけた研究棟を切り裂く。
その中で、ノクティリアの笑みだけがどこか幼く、哀しかった。
ノクティリアの黒霧が床に流れ、赤い閃光と絡み合って空間を揺らす。
その度に、壁や天井の鉄骨が軋み、崩落の危険が迫った。
マナは短く息を吐き、拳を握りしめる。
「……レイナ、反応するのはこの距離だけじゃない。触れられたら終わる!」
レイナは端末の光を頼りに結界を維持しながら、鋭い目でノクティリアを見据える。
「了解……接近戦は避ける。封印波形を安定させながら、誘導する!」
黒霧が急に蠢き、ノクティリアの足元から、まるで生きた腕のような影が伸びた。
その動きに反応し、マナは跳躍しながら黒霧を切り裂く。
「……あんた、暴れすぎ!」
不完全な真祖は少女のようにくるくると回転しながら、赤黒い光を散らす。
その目は好奇心と無邪気さを帯び、戦う相手に恐怖だけでなく、どこか幼い驚きをもたらす。
「……セリーヌ!制御は……?」
レイナの声に、儀式場に立つセリーヌが応える。
「焦らないで。まだ完全じゃない。私の結界で少しずつ安定させる……でも、触れさせないで!」
ノクティリアの笑みが揺れ、霧が再び渦を巻く。
その渦の中、赤黒い光が走り、まるで床の裂け目を引き裂くかのように伸びた。
マナが短く息を吐き、レイナの肩を掴む。
「……ここで止める。絶対、巻き込まれないように」
レイナは端末に手をかけ、結界波形を微調整する。
「よし……今なら、まだ安定範囲内。誘導できる!」
ノクティリアはくるりと回転し、赤い瞳を二人に向けた。
「……ふたりとも、遊んでるの?夜は長いのに」
その声は少女めいて、しかしどこか古の威厳を宿している。
アサギが刀身を光らせながら前に出る。
「接近させません。ここからは私が――」
だが、ノクティリアは静かに手を上げるだけで、黒霧の一部がアサギの前に流れ込み、圧をかけた。
義体のアサギは一歩後退しつつも、冷静に刀を構える。
「……まだ完全ではない……七割以下、心臓が欠けている」
その言葉に、マナとレイナは視線を交わす。
「……まだ全部じゃない……なら、制御は可能?」
レイナが端末の波形を睨む。
「ええ、今なら……でも、慎重に誘導するしかない」
赤黒い光が揺れ、床を叩く振動が増す。
ノクティリアの瞳が一瞬、セリーヌに向けられ、少女めいた声が囁いた。
「セリーヌ……覚えてる?ずっと一緒だった日々……」
セリーヌは杖を握りしめ、微笑むように頷いた。
「覚えてるわ……でも、今は安全が先。あなたを完全に戻すために、少し我慢して」
その言葉でノクティリアの動きが一瞬止まる。赤黒い光の揺らぎが収まり、霧がゆっくりと沈静化していった。
マナが短く息を吐き、レイナを見やる。
「……まだ戦える。……でも、油断はできない」
レイナも小さく頷き、端末の光を浴びながら封印維持の指示を出す。
「これが……最後のチャンス。誘導を誤れば、ここもろとも全滅する」
不完全な真祖――少女のようなノクティリアは、まだ微笑みを浮かべつつも、少しずつ制御の中に沈んでいった。




