X22_NR 第73話
静寂の通路を、微かな冷却音が支配していた。
照明の断片が壁に滲み、ひび割れたガラスを通して散乱する。
マナは息を整えながら、視線だけでレイナを探った。
「……行く?」
「行く。……ここに居たら、飲み込まれる」
レイナの声は低く、短く切り取られている。
その横でアサギが無音のまま歩き出した。靴底が床に触れるたび、金属音が淡く響く。
「待って」マナが声を上げる。「あなた、本当にこっち側の人間なの?」
アサギは振り向かない。銀の髪が光を撫でるだけだ。
やがて、静かな返答が空気を震わせた。
「――人間ではありません。けれど、あなたたちの敵でもない」
マナは一瞬、言葉を失った。
レイナの眉がわずかに動く。
「敵じゃないって……じゃあ、あの戦闘は何?」
「確認です。あなたたちが、まだ“人として選べる”かを確かめただけ」
その言葉には、感情がなかった。
けれど、わずかな寂しさのようなものが、機械音に紛れて残った。
レイナが前に出る。
「だったら、なにを選ばせようとしてるの。あんたたち《エイドロン》は」
「真実を――」アサギが答えようとした、その瞬間。
研究棟の奥で、低い轟音が響いた。
床がわずかに震える。空気が反転し、圧が変わる。
警報が作動し、赤い非常灯が点滅した。
――“封印区画、破損検知。収容障壁、減衰率37%”
自動音声が無機質に告げる。
アサギが振り向き、瞳の奥に電子の光を宿す。
「……想定より早い」
「なにが起きてるの?」マナが問う。
「封印が、別系統から干渉を受けています。あの夜の波形に近い」
“あの夜”――ふたりにとって、それは禁句に近い言葉だった。
マナは歯を噛みしめ、レイナがわずかに顔をしかめる。
アサギは拳を握り、言った。
「行きます。収容区画へ。――あなたたちも来なさい。見届ける義務がある」
マナとレイナは、顔を見合わせた。
その表情に浮かんだのは、恐怖ではなく、確かめたいという衝動。
「……行こう、レイナ」
「うん。どうせ、ここで終わる気もしないし」
ふたりは同時に駆け出した。
赤い警報灯の明滅が、通路を血のように染めていく。
その先に、かつての守護者であり――今は黒幕となったアサギの影が、静かに揺れていた。
***
通路に静寂が戻る。
ただ、蛍光灯の明滅と、遠くでうなる機械の低音だけが続いていた。
アサギは壁際に背を預け、深く息を吐く。義体の継ぎ目が赤く点滅し、冷却液の匂いが漂った。
「……あたしは、守るつもりだったの。けれど、もう止められない」
その声に、マナが眉をひそめる。
「止められないって……何を?」
アサギは一瞬、言葉を選ぶように沈黙した。
そして、かすかに震える唇で名を告げる。
「――ノクティリアよ」
レイナが息を呑む。
「ノクティリア……?」
「吸血鬼の始祖。あなたの血の、最初の“原型”。」
アサギの視線がマナに向く。
「彼女は、古代で分解――解体され、世界各地に封印された。心臓、骨、血、そして“名”。それぞれが異なる研究施設に収容されたの。でも、誰かがそれを集めている」
マナの瞳に赤い光がちらついた。
「……誰が」
「――セリーヌと、マナツ。あなたの“原型”と“反射”。」
通路の空気が一気に冷たくなる。
レイナの義眼が警戒色に切り替わり、微弱な電流が走った。
「二人は、ノクティリアを復活させようとしてる。
――“吸血鬼という種”を、完全な存在に戻すために」
その瞬間、通路奥の隔壁が低く唸りを上げ、金属が軋む音が響いた。
赤い警告灯が点滅し、壁のパネルにひとつの紋様が浮かび上がる――歪んだ三つ巴の印。
アサギの声が震えた。
「……封印が、ひとつ、解けたのね」
マナは静かに立ち上がり、レイナの前に出た。
その横顔は、恐怖ではなく、どこか運命を受け入れる者のように見えた。
「行くよ。放っておいたら、今度こそ取り返しがつかなくなる」
レイナが頷く。
「――エイドロンの深層へ、ね」
赤い光が二人の影を引き延ばす。
その奥、冷たい鉄扉の向こうで、確かに何かが目を覚まそうとしていた。
エイドロンの深層へ降りるためのリフトは、通常ならば認証を三重に通す必要がある。
だが今は、非常事態モードで安全ロックが解除され、薄い霧のような蒸気が漂っていた。
鋼鉄製の扉が重たく開くたび、冷たい空気が肌を刺す。
「……静かすぎる」
レイナが呟く。義眼のディスプレイには、途切れたセンサーの波形と、意味をなさないノイズが流れている。
通信網は完全に遮断されていた。
マナは前を歩きながら、壁に走る銀色の管を指でなぞる。
その中を流れているのは、封印区画を保つための液体――封印媒体。
光を失ったそれは、まるで腐敗した血液のように濁っていた。
「封印層が……生きてるみたいだ
」
レイナが苦く笑う。
マナは返事をしなかった。
ただ、通路の奥に見える“何か”に、微かな嫌悪と懐かしさを覚えていた。
やがて二人は、最下層の隔壁へ辿り着く。
黒い鋼板の中央には、紋章のような刻印――三つ巴の印が沈黙のまま浮かんでいる。
その表面を見た瞬間、マナの胸が鈍く痛んだ。
「……マナ?」
「――分かんない。でも、呼ばれてる気がする」
手を伸ばす。
指先が冷たい金属に触れた瞬間、表面の紋様が脈打つように赤く輝いた。
心臓の鼓動と、同じリズム。
血が、扉の奥と共鳴している。
「まさか……」
レイナが一歩下がる。
扉の縁から、微細な粒子が空中に舞い上がり、重力を無視して螺旋を描いた。
それは封印システムの再起動――いや、“呼応”だった。
――カチリ。
扉のロックが一つ、外れる音。
空気が震え、通路の照明が明滅する。
遠くの壁が呼吸するように膨らみ、低い呻きが響く。
「マナ、離れて!」
レイナが腕を引くが、マナの足は床に縫い付けられたように動かなかった。
――なにかが、確かに彼女を見ている。
鼓動が速くなり、視界の端で、赤い糸のような光が絡みつく。
それは封印の残滓なのか、あるいは意志を持つものなのか。
そして――
壁面に描かれた紋章が、ゆっくりと「目」の形に変わった。
レイナが低く息を吸う。
「……これは、“封印”じゃない。『扉』だ」
その瞬間、隔壁が音を立てて開き始める。
内側から流れ出すのは、鉄と血の匂い。
古い、懐かしいようで、嫌悪を誘う香り。
マナの喉が震える。
「――ここに、“核”がある」
空気が裂けた。
封印区画の扉が開いた瞬間、紅い光が溢れ、通路の壁面をなめるように広がった。
光は血のようであり、呼吸するたびに“生き物の匂い”がした。
そこに在るのは――ペンダントだった。
だがそれは結晶でありながら有機的に脈動していた。
「……これが、ノクティリアの……」
レイナの声が低く響く。
その瞳には警戒と分析の色が入り混じっていた。
マナは答えなかった。
ただ、引き寄せられるように歩み出る。
“彼女”の中で、何かがざわめいた。
――血が、呼応している。
指先が心臓の光に触れた瞬間、世界が反転した。
音が消え、視界が白く燃え上がる。
レイナが呼ぶ声が遠くで揺らめき、次の瞬間、景色が変わった。
***
夜があった。
月が二つ、重なる異世界の空。
大地は黒く、風は鉄の味を運んでくる。
そこに立つ女――白銀の髪、赤い瞳。
その足元には、倒れ伏す兵士たち。
槍を手にした騎士たちが、恐怖に震えながら距離を取っていた。
“彼女”はゆっくりと顔を上げ、月を見た。
その唇から、祈りのような呟きが漏れる。
『この血が……呪いであるなら、私はそれを受け入れよう。
けれど、我が眷属までは――巻き込まぬ』
その瞬間、赤い光が奔り、空が裂けた。
世界の法則がねじれ、彼女の肉体が四散していく。
腕、翼、心臓、眼――それぞれが異なる方角へ吸い込まれ、封じられていく。
“彼女”は最後に微笑んだ。
そして、静かに消えた。




