X21.5_TB7 第72話
管制棟の昼下がり。
休日とは思えないほど静まり返った廊下を、マナとレイナは並んで歩いていた。
外の光は分厚い強化ガラス越しに淡く差し込み、金属の床を銀色に染めている。
「……ねぇ、レイナ。オフって言われても、やることないよね」
「あなたが外出許可を取らないからでしょ」
「だって街、監視ドローンうようよしてるじゃん。落ち着かないよ」
二人の軽口が廊下に響いたその瞬間――
スピーカーから、低く穏やかな声が流れた。
『――落ち着かないのは、あなた自身がまだ“実験体”として生きているからでしょうね』
マナの肩がぴくりと動く。
「……教授?」
『ええ。あなた達の休日を邪魔するつもりはなかったのだけれど』
次の瞬間、廊下の端に光が集まり、やわらかなホログラムが形をとる。
白衣をまとった女性――クラリス教授。
その姿は透けるほど淡く、それでいて、瞳の奥には確かな生の温度があった。
「教授、監視モード切ってください。オフの日まで観測されるのはごめんです」
レイナが呆れたように言う。
『監視じゃありません。……少し、会話がしたかっただけです』
クラリスはそう言い、静かに笑った。
笑みの中には、かすかに寂しさがあった。
『あなたたちを見ているとね、昔の研究室を思い出すの。
実験と報告と、失敗と――コーヒーの匂いで埋め尽くされた、あの時間を』
マナは首を傾げた。
「教授にも、そんな時代があったんですか?」
『ええ。まだ私が“生きていた”頃の話。
指先に触れる温度や、眠気に耐える夜の重さ――あれは、演算では再現できない』
レイナが、少しだけ真面目な表情になる。
「教授、今……そういう感覚、もうないんですか」
『正確には“感じ方が変わった”の。
冷たいはずの液体の中でも、思考のどこかで“懐かしい”と感じる。
それだけで、まだ人間の部分が残っている気がするの』
マナは壁にもたれながら、小さく笑った。
「教授って、意外とセンチメンタルなんですね」
『そうかしら? 歳を取るとね、記憶が一番強い神経信号になるのよ』
少しの沈黙。
空調の低い唸りと、どこか遠くの装置音だけが響いていた。
やがてクラリスは、二人を見て目を細める。
『あなたたちの笑顔、ずいぶん自然になった。
レイナ、あなたの神経補助機構も安定してるわね。マナの血圧も問題なし』
「教授、それ……結局モニタリングしてるじゃないですか」
『観察と監視の違いは、対象からの好意で決まるの』
「また難しいことを言うんだから」
マナは息をつき、少し照れたように言った。
「……教授、私たちが“実験体”じゃなくて、“ただの人間”として過ごしてる時間、好きですか?」
クラリスは目を細め、少しだけ視線を落とした。
『好きよ。
この世界のどんな演算より、あなたたちが人として笑っている瞬間の方が――ずっと綺麗』
その言葉に、レイナがわずかに頬を緩めた。
「教授、それ……ちょっと詩的すぎ」
『たまには、演算以外の言葉も使いたくなるのよ』
マナは笑いながら、ホログラムの方へ手を伸ばす。
けれど、その手は空を掠めただけだった。
「……触れられたら、きっとあったかいんだろうな」
『ええ。私も、そう思う』
クラリスの声が、わずかに揺れた。
その音は、まるでガラス越しの心音のように淡く響く。
『……ありがとう。ほんの少しだけ、また“人間”に戻れた気がするわ』
やがて光は静かに消えていく。
マナとレイナはしばらくその場に立ち尽くし、
消えた光の余韻を見つめていた。
「教授、ほんとずるい人だなぁ」
「そうね。でも、そういうところが……人間なんだと思う」
レイナの言葉に、マナは微笑んだ。
エイドロンの空調が柔らかく吹き抜け、
二人の髪を、夕方の光が淡く撫でていった。




