第71話
金属音が通路中に響き、影がさらに速さを増して迫る。
マナは端末を握り、波形を必死に安定させようとする。
「……レイナ、これ、ただの影じゃない。何か――意思がある!」
レイナは素早く周囲を見渡す。
「わかってる……でも今は動くしかない」
アサギは静かに、しかし確実に動いた。
義体の右腕が滑るように動き、空間に触れると、影の動きが一瞬止まった。
そのまま、微細な光の糸が影の内部に潜り込み、形を整えていく。
「……アサギ?」
マナが低く声を漏らす。
「覚えていてください、子供の頃の私を」
アサギの瞳は鋭く、冷徹。
「私はずっと、あなたたちを見守りながら、同時に試していました」
言葉と同時に、影がふたりを包むように押し寄せる。
だが、アサギの操作によって、その動きは一定のパターンに制御されていた。
敵意は保たれつつも、直接的な危害はまだ及ばない。
「これは……試されてる……?」
レイナの脳裏を、幼少期にメイドに見守られた日々の記憶がかすめる。
「……そうね。逃げ道も計算済み……」
アサギの微笑みは、一瞬だけ優しさを見せる。
しかし、その背後には、冷たい意図が蠢いていた。
「命令ではなく、私はあなたたちの力を測っています。
すべては“最適化”のために」
マナが唇を噛む。
「最適化……って、私たちのことを、実験してるってこと?」
「そうです」
アサギの声は柔らかいが、響きは鋭い。
「私の役目は、ただ仕えるだけではありません。必要とあらば、排除も含めた“管理者”です」
その言葉が通路に反響した瞬間、影の一部が急に暴走する。
マナとレイナは反射的に構え、アサギは間髪入れずに指を振った。
光の糸が影に絡みつき、制御を取り戻す。
しかし、制御の度に影はほんのわずかに、二人の意識や動きを誘導するように反応していた。
「……アサギ、本当に……私たちを守るつもりなの?」
レイナの問いに、アサギは淡く笑う。
「守る……かもしれません。ですが、守ることで得られる情報は、私にとっても必要なのです」
戦闘の熱気と緊張が、三人の間に漂う。
子供時代の面影を残すメイドの顔は、今や“計算された策士”の表情に変わり、影を自在に操るその手には、微かな恐怖と同時に、冷たい優雅さが宿っていた。
通路の空気が震え、影の動きが一瞬収まった。
アサギは肩の力を抜き、ふたりに向かって低く言った。
「私が、こうしてあなたたちを監視してきた理由――それは、単なる任務ではありません」
その声は、冷たくもあり、どこか懐かしい響きを帯びていた。
マナが眉をひそめる。
「任務……以上に?」
「ええ。あなたたちは、単なる被験体でも戦闘員でもない。特別な存在です」
アサギの瞳に、幼少期の面影がちらりと映る。
「私は傭兵であり、義体の戦闘者であり、あなたたちの世話係でもありました――。しかし、その裏で私は、あなたたちの成長と適性をずっと観察していたのです」
レイナが短く息を吐く。
「成長……適性……?」
「この研究棟は、異常存在の管理と、試験体の評価を同時に行う場所でした」
アサギの声は静かだが重い。
「あなたたちは、子供の頃から、さまざまな試練に晒されてきました。その結果、生き延びる力と、判断力を身につけた。私はその過程を記録し、分析し、そして、必要なときに干渉する――それが私の任務でした」
マナの目が揺れる。
「……私たち、ずっと見られてたの……?」
「はい。ですが、単なる監視ではありません」
アサギの声が柔らかくなる。
「守るために、あなたたちを誘導し、制御することもあったのです。危険から逃れるため、時には戦わせるために――すべてはあなたたちの生存確率を最大化するため」
レイナの瞳が鋭く光る。
「……私たちを、実験するためじゃなくて……守るために、だった?」
「守ることと、試すことは、紙一重です」
アサギは微笑む。
「私はあなたたちの敵ではなく、最も冷静な味方であり続ける。それが、私の存在理由です」
しかし、その微笑の裏にある計算――
“もし、最適化のために排除が必要になった場合”という冷たい可能性――
それをマナもレイナも感じ取っていた。
通路の影が、再びうごめき出す。
アサギはすっと右腕を伸ばし、影を押さえ込む。
その姿は、幼少期にお世話係として寄り添ったメイドそのものなのに、冷たい戦闘者としての気配を同時に纏っていた。
「さあ、進みましょう」
アサギの低い声が通路に響く。
「生存と試練の先に、あなたたちの答えがあるはずです」
異常体の影が、再び通路の奥から伸びてきた。
黒い膜のように、ゆらゆらと形を変えながら、床と壁に絡みつく。
マナは短く息を吐き、体を低く構えた。
「ここで……止める」
レイナも静かに頷く。
非常灯が瞬間的に明るくなり、ふたりの輪郭を照らした。
その瞬間、アサギの姿が通路の影から現れた。
銀糸の髪が揺れ、メイド服の裾が戦闘の風でそよぐ。
「私も手伝います」
低く、確かな声。戦闘モードに切り替わったアサギは、義体化した右腕を静かに構えた。
影が三人に向かって跳ねる。
マナが瞬間的に腕を振り、黒結晶の短剣を光の軌跡で振るう。
「行くわよ、レイナ!」
レイナはB-タブレットを手に取り、端末を展開する。光が結晶を貫く軌跡を描き、影の動きを読み取り、部分的に凍結させる。
アサギはその隙間を縫うように動く。義体化した右腕が影の内部で閃き、強制的に揺らぎを生じさせた。
「影の拡張を抑えます!マナ、レイナ、そこを!」
マナが跳躍し、影の腹部に黒結晶を突き刺す。
同時にレイナがタブレットの光を集中させ、影の表層を焼き払う。
影が軋む音を立て、反射的に後退した。
しかし、影はすぐに姿を整え、再び伸びようとする。
「止まらない……!」マナが叫ぶ。
その時、アサギは静かに笑った。
「想定内です」
義体化した左脚で床を蹴り、影の中心に正確に跳び込む。
アサギの手が影の内部で特定の結晶点を押さえ込み、内部の構造を微細に揺らす。
「これで少し、制御が効きます」
レイナは息を整えつつ、タブレットから複数の光の弾を生成。
マナとアサギの連携で、影は徐々に分断され、形を保てなくなった。
通路に静寂が戻る。
影は地面に触れることなく、光に溶けるように消え去った。
アサギはふたりの間に立ち、深く息を吐く。
「……危険は去りました。ですが、次はもっと厳しい試練が来るでしょう」
マナは息を整えながら、アサギを見上げる。
「……あなた、ずっと私たちを見てたんだよね?」
アサギの瞳に、一瞬だけ幼少期の柔らかな光が宿る。
「はい。守るため、試すため――そして、あなたたち自身の力を信じるためです」
レイナは無言で頷き、タブレットを閉じる。
三人の間に、言葉にできない緊張と信頼の余韻が残った。
影が消えた通路に、三人の呼吸だけが響く。
マナは膝をつき、額に手をあてながら静かに息を整える。
レイナはタブレットを脇に置き、光を消したモニターの前でじっと影の残像を見つめていた。
アサギは静かに、しかし確かな足取りで二人の間に立つ。
「……皆さん、怪我はありませんか?」
その声には冷静さだけでなく、微かに緊張が滲む。義体化した腕や脚の関節が、低い音を立てた。
マナは顔を上げ、視線をアサギに合わせる。
「……怪我はないけど、あんたは……?」
アサギは一瞬だけ目を伏せ、指先でカップを触れる仕草を見せる。
「私は大丈夫です。ただ……皆さんの安全が最優先ですから」
レイナは静かに口を開く。
「アサギ、教えて。あの影、どうしてこんなに私たちの動きを読めたの?」
問いは、戦闘の結果を超えて、計画の全貌を知りたいという好奇心からだった。
アサギの瞳がわずかに揺れる。
「……それは、私の任務に関わることです。ですが、皆さんの力も十分でした。影を制御するのは私の技術と、皆さんの判断力の組み合わせです」
マナが腕を組み、少し突っ込む。
「……あんた、ずっと監視してたんだよね。子供の頃から、私たちを」
アサギは静かに頷く。
「ええ。ずっと見守り、育て、戦闘能力の評価もしてきました。時には叱咤し、時には守る――それが私の役目でした」
レイナの表情が微かに変わる。
「……守るために、私たちを利用してたってこと?」
アサギの瞳が一瞬、冷たく光る。
「利用、という言葉は正確ではありません。ですが、全ては計画の範囲内です。最善の結果を導くために、私の判断で行動してきました」
マナはその言葉を聞き、少し顔を背ける。
「……計画、ね」
レイナは黙ったまま、アサギを見つめる。
その視線に、問いかけとも警告ともつかない静かな力が宿る。
「……次に何が来るか、知ってるのね」
アサギは微かに肩をすくめ、静かに答えた。
「未来を完全に知ることはできません。でも、予測は可能です。そして、皆さんの力は計画の鍵です」
通路に沈黙が戻る。
戦闘の緊張はまだ心の奥に残るが、アサギの言葉はふたりに、新たな疑念と覚悟を残した。
銀糸の髪がわずかに揺れ、義体の関節がかすかに光を反射する。
その姿は、ただのメイドではなく、かつての守護者であり、そして、計画の黒幕としての影をも帯びていた。




