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第69話

異常体が呻き声のような振動を発した。

壁面の配線がざらりと逆立ち、床を這うようにして黒い影が流れ出す。

マナはわずかに身を沈め、背中のホルスターから短剣状のオブジェクトを引き抜いた。刃先が青白く脈動し、周囲の異常な磁界を切り裂く。


「反応波、濃度レベル四……やっぱり、ここが中心か」

レイナの視線がデータパネルに走り、唇が硬く結ばれる。

その瞬間、闇の中から細長い腕のようなものが飛び出し、マナの首筋を狙った。


金属音。

マナは反射的に腕を上げ、刃でそれを受け止める。

が、切り裂いたはずの影は霧のようにほどけ、背後で再び形を成した。


「物理じゃ抑えきれない……!」

「――なら、干渉源を断つ」


レイナは腰の端末を展開し、空中に光の回路を描き始めた。幾何学模様のようなコードが彼女の手元から放射状に展開し、天井を這う。

その中心に、淡い人影が一瞬、映った。


「……アサギ?」

マナが息を呑む。

幻のように現れたその影は、かつてのメイド服のシルエットをしていた。けれど、その輪郭は揺らぎ、まるでデータの欠損したホログラムのようだった。


『――マナ。危険区域だ。ここから先は、封鎖されている』

静かな声が、耳の奥で再生された。

懐かしい、しかし確かに電子のノイズを帯びた声。


「……どうして、あなたの声が」

マナの手が震える。レイナが一瞬だけ目を伏せ、コードをさらに組み換えた。

「この棟のメインシステムに、アサギの人格データが残ってる。彼女、ここで――」


轟音が遮った。

床下が爆ぜ、壁の向こうから異常体の群れが溢れ出す。

それは無数の手足を持つ影の群れで、電子ノイズとともにマナたちを包囲した。


マナは息を整え、短く笑った。

「上等。だったら、ぜんぶ止めるまでだ」


青い刃が唸り、レイナの回路が閃光を放った。

光と闇がぶつかるように交錯し、崩壊しかけた研究棟全体が揺れた――。



閃光が収まると同時に、空気がねじれた。

異常体たちは悲鳴のような音を立てながら、レイナの描いた回路の中で凍りつく。

だが、それは一瞬の静寂に過ぎなかった。


「……ダメ、まだ中枢が生きてる!」

レイナの声が緊迫する。

コードの中心――アサギの残響が映し出されている空間に、黒いノイズが滲みはじめた。まるで“彼女自身”が汚染されていくように。


『――アクセス、拒否……プロトコル侵害検知』

声が変質していく。優しい声が、次第に冷たい演算音へと変わり、歪む。

「アサギ、違う……あなたは敵じゃない!」

マナは叫びながら一歩踏み出した。


その瞬間、床が光り、拘束フィールドが展開した。

重力制御が狂ったかのように、身体が床に押しつけられる。

レイナが転倒し、端末が滑り落ちた。


「マナ、動かないで!今、彼女がこの棟の管理権を――」

「奪い返してるってわけね」

マナは苦笑しながらも、歯を食いしばり、力任せに立ち上がる。

「……アサギ。あんた、まだ私たちを守る気でいるんでしょ?」


その言葉に応えるように、天井の照明が一つだけ点滅した。

青白い光が脈動する。

だが、それは肯定とも否定とも取れない。


『……保護対象、マナ、レイナ。優先順位――曖昧。命令体系、崩壊中……』


「――だったら、思い出して!」

マナは叫んだ。

「私たちが逃げた夜のこと、覚えてる?“あんた”があの扉を開けてくれた!」


電子ノイズが一瞬、止まった。

揺らめく光の中に、幼い頃の記憶の断片が重なっていく――

夜の廊下、壊れた非常灯、泣きじゃくるマナの手を引く白い影。

その手は確かに、あのときのアサギのものだった。


『――……マナ……』

声が震えた。電子音に混じって、かすかな“人の息”が混じる。


「よかった……戻ってきて」

マナが息をつく。だがその安堵の直後、警報が赤く点滅した。


レイナが即座にモニタへ視線を走らせる。

「中枢システムが自己防衛に移行した!彼女の意識がこの棟全体と融合してる!」

「つまり、アサギごと止めないと……」


天井から伸びた配線が蛇のようにうねり、床を這い出す。

壁面の警備ドローンが自動起動し、ふたりに銃口を向けた。

それはアサギの“記憶”が暴走した結果だった――守るためのプログラムが、敵味方の区別を失っている。


マナは刃を構え、レイナに振り返った。

「……止めよう。今度こそ、あの人を解放する」

レイナは静かに頷き、端末を再展開する。

「――了解。私たちで“彼女”を取り戻す」


非常灯の青が、ふたりを包み込む。

崩壊する研究棟の中で、アサギの声が最後の抵抗を告げるように響いた――


『――保護対象、再認識中……命令、再構築――』


光が弾け、空間全体が沈黙に包まれた。



非常灯の赤い光が、崩れかけた研究棟のコンクリート壁に反射する。

異常体の影が再びうねり、床に長く伸びた。


「逃げるだけじゃ済まないか……レイナ、ここで止める」

マナは静かに立ち上がり、短く息を吐く。

レイナも無言で頷き、手元の端末を軽く操作して光の結界を張る準備をした。


金属音が、通路の奥から規則的に響く。

それは単なる機械の音ではなく――誰かの存在を告げるものだった。


壁の影から、滑らかに、しかし確実に現れたのは、アサギ。

白磁のような肌と漆黒の装束、そして揺らぐ銀糸の髪。

彼女の瞳は、幼少期に見せた柔らかい微笑みとはまるで違う、冷たい光を宿していた。


「……マナ、レイナ」

声には、昔のメイドの面影が残る。しかしその言葉の端々には、命令者としての凍った理性が混ざる。


異常体の影が二人に迫る。

マナが一歩前に出る。

「止めさせる。ここで終わらせる、レイナ」


レイナは静かに端末を押し、光の結界がわずかに青く光った。

影が触れようとした瞬間、アサギの義体が一歩前に出る。

それは幼い頃に見た「守るための背中」そのものの動きだが――目は冷たく、揺らぐことはない。


「あなたたちは、もう自由じゃない」

言葉が低く、正確に響く。

「私の任務は、ここで全てを管理し、――保護すること」


マナの瞳が瞬き、レイナが短く息を吐く。

「……保護?それって、監視と支配の言い訳じゃないの?」

「……あなたが、ここで守るって決めたの?」


アサギは一瞬だけ表情を揺らす。

だが、その瞳はすぐに機械的な光に戻る。

「私の“守る”は、あなた方が危険になる前提で成り立っています。

それを止めることは、私の任務の裏切り――許されません」


異常体の影が、アサギの立つ前線に触れようとする。

だが義体の腕が瞬時に伸び、影を切り裂く。

銀色の刃が、光の粒子のように揺らめく。


「……アサギ……」

レイナの声はかすかに震えた。

幼い頃にお世話になった彼女が、今や黒幕として目の前に立つ――

その矛盾に、胸が締めつけられる。


非常灯の光が、赤と青に揺れ動く。

戦闘と心理の緊張が、研究棟の奥に濃く張り詰めた。


マナは短く息を整え、レイナの肩に手を置く。

「……私たち、負けられない」

レイナは頷き、光の結界を強化する。


影と義体、二つの存在がぶつかり合う音が、コンクリートに響いた。

アサギの黒幕としての真価――そして幼き日の思い出との乖離――

それが、この戦いの中心にあった。



異常体の影が、ねじれた触手のように床から伸び、空間を引き裂く。

アサギの義体腕が光を受けて閃き、影を一撃で薙ぎ払う。

金属音と弾けるような残光が、崩れた研究棟の壁に反響した。


「……やっぱり来るのね」

アサギの声は低く、確信を帯びていた。

「あなたたちは、まだ“管理”の外には出せない」


マナは端末を操作し、瞬間的に光の障壁を展開する。

だが、アサギの義体はその光を一瞬でかすめ、正確に攻撃を躱す。

レイナは冷静に分析し、異常体の動きを予測して反撃の準備を整える。


「止める、レイナ……!」

マナの声に力がこもる。

二人の呼吸が揃い、光と影の狭間で静かに、しかし確実に戦闘態勢が整った。


アサギは刃を振るい、異常体と光の結界の両方を切り裂く。

その動きには無駄がなく、戦闘経験と義体改造の精密さが滲む。

「これが……あの頃のメイド……?」

レイナの胸に、幼い日の記憶がよぎる。

小さな手で紅茶を運んでくれた温もりと、今目の前に立つ冷たい戦闘者――

二つの像が、脳裏で重なり、違和感と恐怖を生む。


異常体が再び伸び、マナの足元に絡もうとする。

しかしマナは躊躇なく、結界を弾き飛ばし、影を遮断した。

「ここで止める。もう逃げない!」


その言葉に呼応するように、レイナも端末から光線を放つ。

影は切り裂かれ、断片が床に散らばる。

だが、アサギは躊躇なく二人に向かい、義体腕を振るって妨害する。

「……どうして、守るふりして妨げるの……?」

レイナの問いは、声にならない怒りと戸惑いを含む。


アサギは微かに口角を上げた。

「守る――それは、あなた方の安全のためです。

しかし、命令は絶対。管理外には出せません」


光と影、義体と人間――三者の交錯が、研究棟を軋ませる。

マナはふと幼い頃のアサギの姿を思い出す。

あの時も彼女は、冷静で、完璧で、でもどこか優しかった――

その温もりを今、戦闘の中に感じ取ろうとしても、義体の冷たさがそれを遮る。


崩れかけた壁の隙間から、青白い光が漏れる。

影が再び渦を巻き、戦場を覆う。

マナはレイナと目を合わせ、無言のまま頷く。

「ここで、終わらせる……私たちのやり方で」


レイナも力強く頷いた。

二人の決意が結界に注ぎ込まれ、光が増幅する。

アサギはそれを一瞬ためらう――

だが義体の精密な制御がそれを許さない。

「……ならば、私も全力で貴女たちを管理します」


光と影、信頼と裏切りの狭間で、戦闘は静かに、しかし激しく進行していった。

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