第68話
翌朝、研究棟の廊下にはまだ焦げた匂いが残っていた。
白い壁は煤け、ガラス片の一部は除去されていない。
非常灯の赤がまだ点滅を続けているのは、封印区画が依然として「危険指定」だからだ。
マナはその区域の手前で立ち止まり、手にした小型端末を見下ろした。
昨夜、拾い上げた破損チップ――そこに刻まれた「Re:birth」の刻印が、どうしても気にかかっていた。
エイドロンのシステム端末にチップを挿入し、解析ソフトを起動する。
端末のスクリーンが微かに点滅し、断片的なデータ列が浮かび上がった。
ノイズ混じりの波形。その中に一つ、見覚えのある署名コードが埋め込まれていた。
「……A-Φ_01……?」
コードネームは、アオイ博士の初期プロジェクト群に使われていた識別だ。
しかし、博士は今、この区画の開発には関与していない。
つまり――誰かが、彼女の設計コードを再利用している。
マナの背中に寒気が走った。
実験ログの断片には、「β層反応核」「神経式封印体」「擬似魂魄」の単語が見える。
それはただの封印装置ではなく、“何かを起動させるため”のものだった。
「Rebirth……再誕、か」
マナは呟いた。
まるで、誰かが何かを“蘇らせよう”としているような言葉。
そこへ、背後から静かな足音が近づいた。
「――マナ、ここにいたの」
レイナだった。
包帯を巻いた左腕を押さえながら、彼女は小さく息を吐いた。
まだ顔色は悪いが、その瞳だけはしっかりとした光を宿していた。
「休んでていいって言われてたはずよ」
「平気。システムの異常……気になって。マナも、気づいてるんでしょ?」
「ええ。封印式の中に“別の構造”が仕込まれてた。外部の誰かがアクセスした痕跡がある」
レイナは端末を覗き込む。
解析画面に流れるコード列を見て、彼女は僅かに眉を寄せた。
「この記述、見覚えがある」
「どこで?」
「……未来側のシステム設計で、似たアルゴリズムを見た。
でも、これはもっと粗い。まるで未完成の試作機構みたい」
マナは息を飲む。
「じゃあ、誰かが未来の技術を――」
「――盗用した」レイナが低く言葉を重ねた。
「封印を暴走させたのは、その“模造技術”の干渉かもしれない」
マナは端末を閉じ、無言で立ち上がった。
廊下の向こう、封印区画を覆う隔壁の表面には、焼けたような手形がひとつ残っている。
それは、昨夜暴走したオブジェクトが残したものか、あるいは――。
「誰がやったのか、突き止める必要があるわね」
「マナ、単独行動は危険」
「分かってる。でも、今のままじゃまた同じことが起きる。……誰かがエイドロンの中で、何かを動かしてる」
レイナは短く頷いた。
その瞳に一瞬、青白い光が宿る。
「私も行く。――マナを一人にしたくない」
マナはその言葉にわずかに目を伏せ、短く息をついた。
「……ありがとう。なら、二人で確かめに行こう」
非常灯の赤が、二人の影を長く伸ばしていた。
封印区画を離れ、地下階層の調整室へと向かう途中――
通路の奥の暗がりで、センサーが一瞬だけ“生命反応”を検知した。
誰もいないはずの空間に、微かな電磁ノイズが残る。
それはまるで、誰かが二人の会話を“監視”していたかのように。
壁の裂け目から、青白い光が滲んでいた。
金属製の通路は薄い霧に包まれ、空気が妙に冷たい。
照明は半分以上が落ち、残った非常灯の赤が断続的に点滅している。
マナは手のひらを壁に当て、ゆっくりと息を整えた。冷たく、ざらついた感触。だが、時折その表面が微かに脈打つように震えた。
「……おかしい。まるで建物自体が――生きてるみたいだ」
呟くマナの隣で、レイナが震える声で答える。
「マナ……ここ、さっきまでこんな構造じゃなかった」
「気づいてたか。廊下の形が、さっきから変わってる」
通ってきたはずの扉が、いつの間にか壁に変わっている。
機器の唸りは遠くなり、代わりに空気の底から「軋むような音」が混じり始めていた。
ふたりの視線が重なった。
沈黙――いや、ほんの一瞬の静寂のあと。
「……聞こえた?」
マナの耳が、鋭く反応する。
通路の奥――誰かが、ゆっくりと金属の床を踏みしめていた。
カン……カン……と、規則的で不気味に響く足音。
レイナは息を詰め、壁際へ身を寄せた。
マナも即座に動き、非常灯の陰に身を滑らせる。
通路の向こう、揺れる霧の中に、ぼんやりと黒い影が浮かんだ。
それは確かに、“この調整室”へと向かってくる。
躊躇いもなく、狙いを定めたような足取りで。
「……来るわ」
マナが囁く。指先が、無意識に冷たい床を掴んでいた。
次の瞬間、金属音が一段と近づき、空気がぴんと張り詰めた――。
カン……カン……カン――。
足音が止まった。
通路の向こう側、非常灯の赤がちらりと反射し、霧の奥に“輪郭”が浮かぶ。
レイナの目が、わずかに見開かれた。
「マナ、あれ……動いてる」
「分かってる。けど、呼吸の音が――しない」
次の瞬間、霧の層が裂けるように散った。
そこに立っていたのは、人の形を模した“何か”だった。
白い拘束服のような布を纏い、全身を黒い液体が縫い止めるように覆っている。
顔らしき部分はあるが、目も口も潰れていて、ただ光のない空洞が開いていた。
マナがわずかに息を呑む。
「……収容区画の異常体。解けてやがる」
「封印が……」
レイナの声が震えた。
マナは首を振る。
「違う。誰かが、わざと開けた」
空気が低く唸り、壁の配線が青い火花を散らした。
異常体の胸部が、ずるりと裂けて伸び、金属のような触手を通路いっぱいに伸ばす。
その音は濡れた金属の擦過音のようで、空間全体を軋ませる。
「レイナ、後退!」
マナの声と同時に、床が爆ぜた。
レイナは反射的に跳び退り、背後の制御盤にぶつかりながらも体勢を立て直す。
マナは非常灯の残光を頼りに、壁際の緊急封鎖スイッチを探った。
だが――その間にも“それ”は進む。
壁のパネルを、通路を、鉄骨を腐食させながら。
音もなく、ただ“そこにあること”そのものが空間を壊していくようだった。
「……レイナ、隔壁を閉める。できる?」
「試す」
レイナは素早く端末を起動し、掌の青い光を制御盤に流し込む。
電子ノイズが弾け、制御盤のロックが一つ解除された。
だが、異常体はもう目の前だ。
マナは咄嗟にレイナの腕を掴み、背後の補助通路へ飛び込む。
直後――通路全体が、爆ぜるような衝撃とともに崩壊した。
金属片が飛び散り、赤い非常灯が閃光のように弾ける。
マナは咳き込みながらレイナを庇い、瓦礫の陰に身を潜めた。
「……最悪だわ。何をどう間違えたら、あんなもんが動く」
「マナ、封印区画の座標データ……誰かが改竄してる」
「誰か、ね」
マナの視線が細くなる。赤い残光がその瞳を照らした。
異常体の影が、再びこちらへ伸びてくる。
マナは立ち上がり、短く息を吐いた。
「逃げるだけじゃ済まないか……レイナ、ここで止める」
レイナも静かに頷く。
非常灯が一瞬だけ明るくなり、ふたりの輪郭を照らした。
崩れかけた研究棟の奥で、再び金属音が響く。
戦闘の始まりを告げる合図のように――。




