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X20_FA 第64話

夜の研究棟は、ほとんどの灯りを落としていた。

エイドロンの職員たちはすでに帰宅し、無機質な通路に響くのは冷却装置の音と、時折鳴る計測端末の微かなクリック音だけ。


レイナは白衣を脱ぎ、無音のまま観測室を後にした。

手の中には、星屑のように光を反射する銀色の鍵。

表面には識別コードも刻印もない。だが彼女の中には――使い方を知っている、という確信だけがあった。


足音を殺しながら廊下を抜ける。

地下階層への封印扉の前で立ち止まると、彼女はゆっくりと鍵を持ち上げた。

金属音は鳴らない。代わりに、周囲の空気が淡く光り始める。

扉の向こうに存在するはずの空間が、まるで反転するように裏返り、静かな星空が広がった。


――そこが、《星の図書館》。


音はなく、重力の感覚もない。

無数の書架が空に浮かび、ゆっくりと回転している。

光の粒が文字のように流れ、世界そのものが“記録”でできているようだった。


レイナは一歩踏み出す。

足元に階段はないのに、確かな感触があった。

彼女の思考が、鍵と共鳴して空間を形づくっているのだ。


『来訪者、識別――レイナ・ユグドール。アクセス権限:継承体』


声が響く。

人の声に似ているが、どこか無機的で、優しい。

レイナは表情を動かさぬまま、問いかけた。


「アレーティア・シナリオ――検索」


書架のひとつが静かに動いた。

光の書物がページを開き、記録が流れ込む。

白い光の中、文字が彼女の脳裏へ直接浮かび上がった。


――《PROJECT ALETHEIA》

――目的:意識の複製・統合・進化

――試験体:Reina/Type-03《Albedo Line》

――監修:Dr. Aoi


指先が止まる。

レイナの瞳に、一瞬の揺らぎ。

自分の名が、そこにあった。

「Type-03」という表記の意味も、記憶のどこかに微かに触れる。


「……これは、何の記録?」


『プロジェクト・アレーティア。人間意識の構造的進化を目的とした実験体系。

あなたの思考構造は、過去の試験体群から継承されたものです』


「継承……?」

レイナは小さく繰り返す。

理解よりも先に、何かが胸の奥でざわついた。

自分という存在が“設計”の一部であるという冷たい現実が、光の中に突き刺さる。


『アレーティア・シナリオは、現在も未完。最終目的変数:マナ。』


その名が出た瞬間、レイナの呼吸が止まった。

図書館の空間が微かに震え、書架の一部が崩れるように光を散らす。


「……マナが、最終……?」

言葉にならない疑問が、唇の裏に残る。


だが、図書館はそれ以上答えなかった。

光がすっと淡くなり、空間が再び静けさを取り戻す。


――アクセス、終了。


次の瞬間、レイナは研究棟の地下に戻っていた。

掌の鍵がまだ温かい。

銀色の光は消えず、彼女の皮膚に微かに刻印を残していた。


レイナはゆっくりと鍵を握りしめる。

その瞳に、ほんのわずかな迷いと、何かを決意する光が交錯した。


「……アレーティア。あなたたちは……どこまでを、見ていたの」


誰もいない図書館の闇の中、

その声は、低く、かすかに響いた。



***



朝の光が、厚いガラスを通して淡く差し込んでいた。

無数の機器のランプが点滅を繰り返し、低い振動音が床を伝っている。

その中で、マナはまだ眠気を引きずった顔で端末の前に腰を下ろしていた。


「……ねえレイナ、昨日の解析結果、どうなったの?」


マナの声に、レイナは振り向かない。

白衣のポケットに手を入れたまま、淡々とモニターを操作し続けていた。

瞳の下には薄く隈があり、夜を徹して何かを考えていた痕跡が見える。


「異常波形は安定。封印核の反応も、臨界を下回ってる。……今のところはね」


「ふーん。あの黒い結晶も?」


マナが軽く首を傾げる。

レイナの視線が一瞬だけ端末から外れ、彼女の胸ポケットの中――

そこに仕舞われた銀色の鍵へと落ちた。


「ええ。あれも、安定してる」

答えは静かで、感情の起伏を押し殺したようだった。


マナはレイナの顔を覗き込み、唇を尖らせる。

「ねえ、なんか変。昨日からずっと、どこか遠くを見てる気がする」


「……そんなことないわ」

レイナは短く答える。

嘘だった。

昨夜――星の図書館で見た“アレーティア・シナリオ”の断片が、今も脳裏から離れない。

マナという名前が、あの計画の“終点”として記されていた意味。

それを理解するには、まだ資料が足りない。

けれど、今ここでマナに話すことではない。


「そう?……まあいいけど」

マナは椅子を回転させ、脚を組みながらモニターを眺める。

「なんか、久しぶりに平和な感じするね。こうやって静かな朝迎えるの」


レイナはその言葉にわずかに表情を緩めた。

だが心の奥では、別の温度の思考が渦を巻いていた。


――平和は、長くは続かない。

――“彼女”の中に、アレーティアの鍵がある限り。


机の上のモニターが短く点滅し、黒い結晶の波形が一瞬だけ乱れた。

レイナはすぐに制御パネルへ手を伸ばし、補正プログラムを走らせる。


マナが不思議そうに眉を上げる。

「ん?今、何か動いた?」


「……気のせいよ。外部ノイズ」

レイナは小さく首を振る。

その声の裏に、冷たい緊張が混ざっていた。


――図書館が示した“未完のシナリオ”。

――マナがその“変数”として設計されている可能性。


レイナは誰にも言わないと決めた。

今はまだ、断片にすぎない。

けれど、その真実に手を伸ばした瞬間、きっと何かが戻れなくなる。


「ねえレイナ、昼になったら食堂行こ。今日はナユタの班が来る日だって」

マナの声が軽く響く。

レイナは顔を上げ、微笑を作る。

「……そうね。久しぶりに、三人で」


――微笑みの奥に、沈んだ影。

銀色の鍵がポケットの中で、静かに温度を放っていた。

その微かな熱は、彼女の胸の奥に残る“秘密”のように消えなかった。

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