第63話
《B-09冷却廊下、異常波形継続中》
スピーカーから流れる報告が、制御室の空気をさらに冷やした。
レイナは端末を操作し、解析データをマナのヘッドセットに転送する。
「異常波形、封印ポッドから流出した可能性。残留エネルギーではない……“増殖型”の反応」
「増殖……?」
マナは目を細め、呼吸を整える。
手袋を嵌め直し、腰のホルスターに再び手をかけた。
「封印が“伝染する”なんて聞いたことないけど……今の声、もしかして」
「まだ確証はない。でも、封印核が自己増殖するなら、制御領域を超える」
レイナは短く告げると、扉のロックを解除した。
「B-09へ。遮断は後続に任せる」
二人は冷却廊下へと向かった。
扉が開くと、吐き出される空気は極端に冷たく、金属と霜の匂いが混じっていた。
長い通路の先に、点滅する非常灯が赤く滲んでいる。
その明滅の合間、廊下の奥に“影”がうごめくのが見えた。
「職員の一人が残ってたはず……」
マナが呟く。
だが、その“影”が振り返ったとき、すぐにそれが違うと分かった。
顔は職員のものだった。けれど、目は空洞。
黒い液状の膜が皮膚の下で蠢き、血管のように広がっている。
「——マナ、下がって」
レイナが警告するより早く、影が動いた。
その動きは人間のものではなかった。床を滑るように走り、残像を引く。
マナは反射的に身体を沈め、刃を閃かせる。
金属音が短く鳴り、飛沫のように黒い液体が散った。
だが、それはすぐに蒸発し、空気中に薄い靄を残した。
「気化してる……?」
「違う、波長が変化してる。空気を媒介して拡散してる」レイナの声が硬い。
「このままじゃ、施設全体が汚染される」
マナは息を荒げながら影を追う。
黒い残光が通路を駆け抜け、隔壁の向こうへ逃げていく。
「待ちなさい……!」
レイナが端末をかざし、壁面に光の陣形を展開する。
解析紋章が走り、封鎖壁が起動。通路の先が光の格子で閉ざされた。
影は一瞬、動きを止めた。
だが次の瞬間、壁の内側を“染め上げる”ように拡がっていく。
「……封印構造を、侵食してる……?」
レイナの額に汗が滲んだ。
「マナ、退避を——」
「無理だ。止める!」
マナは躊躇なく前に出る。
両手に構えた刃が白く光り、冷気を裂いた。
斬撃が影の中心を捉える。
瞬間、鋭い悲鳴のような音が響き、空気そのものが震えた。
影は弾けるように四散した。
黒い靄が天井へ昇り、光の格子に吸い込まれるように消えていく。
しばらくして、音が止んだ。
非常灯の赤が弱まり、静寂が戻る。
「……終わった?」
マナが息を吐く。
レイナは端末を確認し、慎重に頷いた。
「異常波形、消失。汚染範囲は最小限。だけど」
「だけど?」
「……封印ポッドから“新しい座標”が検出された」
レイナの瞳が淡く光る。
端末のホログラムには、研究所の下層図が浮かび上がっていた。
通常の構造図には存在しない階層。黒く塗りつぶされた“空白域”。
マナは唇を引き結び、視線を落とす。
「……また、あのときと同じパターンね」
「異界の座標と同じ性質。誰かが、封印を下層に“複製”した」
二人の周囲に、再び冷気が流れた。
まるで、地下のどこかで何かが目を覚ましつつあるかのように。
レイナが小さく呟く。
「これが、終わりじゃない。——まだ、始まり」
マナは静かに頷いた。
遠くで、冷却管の水が滴る音が響く。
その音の奥で、誰かが微かに笑った気がした。
地上に戻ると、夜の空気は驚くほど冷たく、息が白く滲んだ。
旧市街の狭い路地は、さっきまでの異様なざわめきが嘘のように静まり返っている。遠くで風が瓦礫を転がす音だけが響き、さっきまでの封印空間の記憶を現実と繋ぐ唯一の手がかりのようだった。
マナは深く息を吸い、背後の階段を振り返る。
もうそこに、あの異常な鼓動も声もない。ただ、扉に残る封印の刻印だけが、淡く光を反射していた。
「……封印は安定した?」
マナの問いに、レイナは端末の画面を確認しながら頷く。
「はい。封印構造は再固定済み。異常波形、完全に消失」
その声音にはわずかな疲労が混じっていた。解析時に大量のデータを処理したのだろう。
マナはレイナの腕に目をやる。淡い金属の継ぎ目が、一瞬だけ熱を帯びて微かに赤く輝いていた。
「……無理してない?」
「大丈夫。エネルギー配分を自動で調整中。問題ない」
そう言いながら、レイナは視線を夜空に向ける。
雲の切れ間から、ぼんやりと月が覗いていた。
「報告を入れる?」
「うん、第零研究機構に。……今回は、軽傷で済んだ方かな」
マナは小さく笑って通信端末を取り出し、短く指示を送る。送信が完了すると、彼女はゆっくりと腰を下ろした。
レイナもその隣に立ったまま、しばらく無言で夜の路地を見つめる。
風が吹くたび、封印扉の奥で起きた出来事がほんの数秒前の夢のように遠ざかっていく。
「……あの声、聞こえてた?」
マナの言葉に、レイナは静かに首を傾けた。
「うん。解析不能な音声波形。感情パターンは“呼びかけ”に近い。――誰かが、あなたを呼んでいた」
「やっぱり、そう聞こえたんだ」
マナは少し視線を落とし、唇を噛む。
「でも、もう聞こえない。あれは……封印の残滓、だよね」
「断定はできません。だが――封印構造が維持されている限り、再現の可能性は低い」
ふたりの間に、静かな沈黙が落ちる。
雨上がりの石畳が月光を反射し、淡く輝いていた。
やがて、遠くで通信機が小さく鳴る。
マナが応答し、簡潔な報告を口にする。
「第零研究機構エイドロン、こちらマナ。封印の再安定を確認。異常存在の痕跡は残留せず。……私たちはこれより帰還します」
通信が切れると、レイナは小さく息をついた。
「……帰ろう」
「うん」
二人は歩き出した。
月明かりの下、濡れた路地をゆっくりと進む。
背後の扉は音もなく沈黙を保ち、封印の印がほのかに光を残していた。
その光が、まるで「再び来る日」を待っているかのように、夜の闇の中で静かに脈動していた――。




