第62話
目を開けると、そこは白い天井の下だった。
無数の警告ランプが明滅し、医療区画の空調音が響く。
「……帰って、これたの?」レイナが呟く。
マナはベッドから身体を起こし、隣に転がる封印ポッドを見た。
ひびの入った外殻の奥で、黒い物質は完全に沈黙している。
「帰還確認。転送誤差、0.02秒」
無機質なアナウンスがスピーカーから流れる。
彼女たちは確かに帰ってきた——第零研究機構へ。
廊下の向こうで、白衣の職員たちが走り回っている。
マナは深く息を吸い、レイナの肩を軽く叩いた。
「やれやれ……異界なんて、もう二度とごめんね」
「同感。でも——」レイナは小さく笑う。「あなたがいなきゃ、戻れなかった」
マナはその言葉に何も返さず、視線をポッドへ向けた。
ひとつの封印は守られた。だが、その影が完全に沈黙したわけではない。
装置の奥底で、微かに鼓動のような振動が続いているのを、マナは確かに感じていた。
***
封印ポッドは、処理室の中央に静かに鎮座していた。
鋼鉄の床に固定された台座には、何重もの拘束フィールドが展開され、白い霧のような冷却蒸気が薄く漂っている。
壁面のモニターには無数の波形が走り、その一部が時折ノイズ混じりに乱れた。
マナは防護ガラス越しに、その様子を無言で見つめていた。
傍らでは、レイナが報告端末を操作している。彼女の指先の動きが、いつになく慎重だった。
「封印ポッド、安定化率は……七十六パーセント。残留波形がまだ消えない」
「七十六、ね」マナが小さく呟いた。「異界から持ち帰ったにしては上出来かもしれないけど」
「でも、本来なら九十以上出てないとおかしい。何か、混じってる」
レイナの声に、制御室の空気が一瞬張り詰めた。
背後のドアが開き、白衣を着た職員たちが数名、記録端末を携えて入ってくる。
「帰還報告を受けて分析班が動いてる。すぐに——」
彼の言葉が終わるより早く、モニターの一つが赤く点滅した。
《封印領域に干渉波を検知》
警告音が鳴り響き、制御室全体が淡い橙色の照明に染まる。
「なに——?」レイナが振り向く。
封印ポッドの表面が、わずかに震えていた。
金属の外殻が内側から押されるように歪み、黒い液状の影がじわりと滲み出していく。
「嘘……封印は確かに完了したはず……!」
マナはすぐに前へ出た。
防護ガラスの前に立ち、腰のホルスターから封印ナイフを抜く。
「後退して、レイナ。暴れる気配がある」
「待って、隔離バリアを——」
レイナが指示を出すより早く、ポッド内部から低いうなり声が響いた。
それは音というよりも、空気の振動。言葉を持たない何かの意志。
「——わたしを、だれが」
聞き間違いではなかった。
制御室の全員が息を呑む。
マナの瞳が鋭く細まった。
「喋った……?いや、まさか」
黒い液体が、ポッドのひびからゆっくりと浮かび上がる。
それは煙のようでいて、しかし確かに“形”を求めていた。
指のような影、腕のような影——けれど完成しきらない。
「再収容プロトコル起動!冷却層を再構築しろ!」
職員たちが慌ただしく動き出す。
冷却蒸気が一気に噴出し、封印室が白い霧に包まれた。
マナはその中でじっと動きを見ていた。
黒い影は、まるで彼女を探すように揺らめいている。
霧の向こうで、レイナの声がする。
「——干渉波、消失!再安定化、完了!」
警告灯がゆっくりと消えた。
封印ポッドは再び静寂を取り戻し、黒い液体は中へ吸い込まれるように消えていった。
静まり返った室内で、マナは刃を収め、レイナの方を向く。
「……今の、聞こえた?」
「うん。間違いなく、言葉だった」レイナは震える声で答えた。「“わたしを、だれが”って……」
「封印されていた“それ”が、自我を持っていたということ?」
「あり得ない。あれはただの欠片、のはず……」
二人の間に、沈黙が落ちた。
その沈黙を破ったのは、背後のモニターから流れた別の警告音だった。
《新たな異常反応を検知。セクターB-09、冷却廊下》
職員たちが一斉に顔を上げる。
マナとレイナも同時に振り返った。
マナの表情がすっと引き締まる。
「……まさか、封印の残響が外まで伝った?」
レイナは端末を操作し、監視映像を呼び出した。
モニターに映し出されたのは、誰もいない冷却廊下の映像。
だが次の瞬間、カメラのノイズの中から黒い影が這い出してきた。
影は床を滑るように移動し、やがてカメラの正面で止まる。
レンズ越しに、まるでこちらを見つめているかのようだった。
「マナ……これ、まだ終わってない」
「ええ。封印が“生きてる”なら、私たちが片をつけるしかない」
マナは振り返り、ゆっくりと封印ナイフの柄に手をかけた。
霧の残る封印室に、緊張が再び満ちていく。
異界は終わっていなかった。
その“影”は、現実の中にも確かに根を下ろし始めていた。




