第61話
暗闇の底から、何かが這い出てくる。
無数の眼のような光点、蠢く影、何かの欠片――。
それは封印を守るものか、それとも封印そのものの意志か。
判別不能な存在が、二人の足元を取り囲んだ。
レイナの瞳に冷たい光が宿る。
「マナ、後退して――」
「だめ、私もやる!」
マナが短く返し、銃口を闇に向ける。
引き金が引かれ、光の閃光が地下を照らした。
だがその瞬間、闇の中で何かが「笑った」。
『封印を、壊すな。解き放て――“彼女”を――』
声と共に、封印核が爆ぜた。
紅い光が波のように広がり、地下全域を飲み込む。
次の瞬間、マナとレイナの姿は光の奔流に包まれ、音もなく消えた。
――落ちていく。
無数の光が、闇の中を螺旋状に流れていた。
まるで封印の記憶が断片となって、時間そのものを渦巻かせているようだった。
マナは息を呑みながら、目を開けた。
視界は紫と青の光で満たされ、上下の区別もない。
足場の代わりに、崩れた封印式が漂っている。円環、鎖、祈祷文字。どれも砕け、ゆっくりと再構成されようとしていた。
「……レイナ……どこ……?」
声を出しても、空気がない。音は波のように揺れて、消えた。
代わりに、胸の奥に誰かの声が直接響く。
――“還レ、星ニ”
あの声。
封印核から漏れた囁き。
言葉の意味は理解できないのに、なぜか懐かしさを覚える。
遠く、白い光が瞬いた。
レイナだ。浮遊しながら、両手で端末を操作している。
周囲に展開された解析ウィンドウが、風のように流れていく。
「ここ……現実じゃない。封印の構造層――情報の裏側」
レイナはかすれた声で言った。
「私たち、封印の中心に“取り込まれた”」
マナは震える手で周囲を指した。
「この光……全部、記録?」
「そう。封印が保持してきた世界の“痕”。人、場所、記憶。封印は“保存”と“隔離”を同時に行う構造体。……でも今は崩壊しかけてる」
遠くの光がひとつ、ぱん、と弾けた。
波紋が広がり、崩れた封印式が宙を流れていく。
マナの足元がぐらりと揺れ、重力が戻ったように身体が引かれた。
「ッ――うわっ!」
レイナが腕を伸ばし、マナの手を掴む。
二人は宙に浮かんだまま、互いに支え合う。
「……ありがとう」
「気を抜かないで。封印構造が自己修復を始めてる。異物――つまり私たちを“排除”しようとしてる」
その瞬間、周囲の空間に微かな“音”が生まれた。
金属が擦れるような、あるいは低い唸り声のような。
光の粒が集合し、ゆっくりと人の形を作り始める。
「……っ、何これ……」
マナが銃を構える。
形を成したそれは、顔のない“人影”だった。
光でできた鎧を纏い、無数の封印文字を身体に刻まれている。
「防衛層……?」
レイナの分析が途切れた。
影が動いた。
無音のまま、二人へ向かって滑るように迫ってくる。
マナは反射的に引き金を引く。
だが、弾丸は空気を裂いた瞬間に霧のように消えた。
現実の物理法則が、この空間では意味をなしていない。
「レイナっ!」
「物理攻撃は通らない――思念干渉で制御されてる!」
レイナが手首の装置を展開し、光の盾を形成する。
影がそれに衝突し、空間が歪む。
反動で二人が後方へ押し飛ばされた。
「ちょっと、どこまで敵対的なのよ……!」
「封印にとって、私たちは侵入者。――これが“試練”よ」
レイナの言葉が終わるより早く、影が増えた。
光の残像のように、十体、二十体と周囲を囲む。
マナは背を合わせ、呼吸を整える。
「ねえ、レイナ。もし、封印が“意思”を持ってたら……」
「持ってる。明確に。封印は自我の欠片を媒体にして作られている。……つまり、これは“拒絶の意志”」
レイナの声がかすかに震える。
影たちの輪の中心――封印核の光が再び脈動した。
光の奥から、囁きが響く。
――“守レ、還ス、喰ラウナ”
マナの視界が揺れる。
光の粒が身体に触れた瞬間、無数の記憶が流れ込んだ。
見知らぬ街、血塗られた祭壇、封印を築いた人々の祈り。
そして、少女の声。
『……わたしが、眠っている間だけ、世界は保たれるの……』
マナは息を詰めた。
「……レイナ、今の……誰かが“眠ってる”って……」
「封印の中核存在。……自己犠牲の儀式で構築された、人格付きの“核”。」
影が一斉に動き出す。
レイナが防壁を再展開し、マナがその内側で構え直す。
「つまり、封印は壊れかけてる。中の人格が目を覚まそうとしてるのよ!」
空間が震えた。
核の光がひび割れ、光の欠片が降り注ぐ。
封印の“夢”が崩壊していく。
「レイナ、どうすれば止められるの!?」
「再封印――でも、方法は一つ。誰かが代わりに“眠る”こと!」
マナの目が見開かれる。
影が近づく。光が爆ぜる。
封印の声が、哀しげに響く。
――“還レ、星ニ……誰カガ、残レ……”
マナは息を呑み、銃を構え直した。
「……レイナ、もし、どっちかが残らなきゃいけないなら――」
レイナが遮るように叫んだ。
「言うな!まだ終わってない!」
封印核の光が弾け、空間が再び反転する。
二人はその光に呑まれながら、現実への帰還を賭けた最後の選択へと投げ出された――。
裂け目は、空の中心で静かに脈動していた。
封印装置の崩壊は止まり、辺りには焼け焦げた金属の匂いと、黒い霧の残滓が漂っている。異界の空は再び赤紫の光を帯び、時間の流れすら歪むように見えた。
マナは崩れた床の縁に片膝をつき、息を吐く。
手にはまだ収容ポッドの制御装置が握られており、その内部では封印したオブジェクトが淡く鼓動していた。金属の檻のようなポッドが、時折低い呻き声を上げるたび、空間がわずかに震える。
レイナがその隣に立ち、傷ついた壁を一瞥する。
「……ここ、もう持たない。異界の結界が限界みたい。帰らなきゃ、私たちごと潰される」
マナは頷く。
封印を終えた瞬間から、空間の縫い目が軋んでいる。異界を構成する構造そのものが、オブジェクトの暴走に巻き込まれていたのだ。
「転送装置、まだ動く?」
「エイドロン側と通信は切れてるけど……」レイナは掌のデバイスを操作しながら、焦げ付いた回路を睨む。「信号の残滓をトレースすれば、強制転送はできるかも。座標がズレたら——」
「死ぬだけ、でしょ?」マナが淡々と答える。
だがその口元に、ほんの一瞬、皮肉めいた笑みが浮かんだ。
レイナはそんなマナを見て、小さく息を呑む。
「ほんとに……あなたって、こういうとき笑うのね」
「怖がってもしょうがないでしょ。レイナが居るんだし」
短いやり取りの後、二人は床に描かれた転送陣へと足を踏み入れた。
地面が震え、異界の風が渦を巻く。封印装置の奥で、何かがまだ目を覚まそうとしていた。
黒い液体のような影が、ポッドの隙間から染み出し、床の符号を侵食していく。
「ダメ、残留波が干渉してる——!」
レイナが叫ぶや否や、マナは躊躇なく腰のホルスターから封印具を抜いた。
「もう一度、封印する」
刃先を床に突き立て、封印術式を再起動させる。燃え上がるように光が走り、ポッドの周囲に鎖の幻影が形成されていく。
影は呻き声を上げて抵抗したが、マナの視線は揺るがない。
レイナが転送座標の補正を完了させると、陣の中心が一瞬、まばゆい白に輝いた。
「マナ、今!」
「分かってる!」
同時に光が爆ぜる。
異界の風が一気に吹き荒れ、空間が反転するような感覚が二人を包み込んだ。
耳鳴り、視界の崩壊、そして——無音。




