X03_CC 第6話
時空論──タイムパラドックス、バタフライ・エフェクト、親殺しのパラドックス。
古今東西、様々な議論が繰り返されてきたが、それらはすべて机上の空論である。
実際に時間軸の移動を制御した事例は未だ存在せず、仮に可能となったとしても、その瞬間に我々の世界は「現実」から乖離し、空想科学の世界へと変質する。
だが、もしこの世界自体が既に空想科学の世界だったとしたら──話は別だ。
親殺しのパラドックスも、胡蝶の夢も、この世界には“実例”として記録されている。
つまり、それは確かな「事実」なのだ。
一般に、世界は一本の線、すなわち「世界線」として扱われ、過去へ遡ることはその線を幹として後退する行為だとされる。
だがこの世界の法則では、幹を辿るような形での「過去への回帰」は不可能である。
そして──神はサイコロを振らない。
もし世界が無数に分岐するのだとすれば、隣接する世界に移動することなど不可能だ。
なぜなら「無数」、すなわち「無限」であるならば、隣という概念は成立しない。
無限の中では、最も近いものにすら辿り着けない。
よって、世界線の分岐は「有限」である。
では、分岐点はどこにあるのか?
隣接する世界線には、明確な「転換点」が存在する。
たとえば──第二次世界大戦が発生しなかった世界線。
あるいは、親を殺した世界線。
SF作品によくあるように「元の世界線に戻ってきたのに、現在が変化している」といった描写は、実のところ論理的ではない。
過去に介入した瞬間、それはすでに「元の世界線」から分岐した別の軸なのだ。
仮に物体を過去に転送したとしても、「転送した」という事実そのものが分岐点となり、元の現在が変化することはない。
要するに──
過去に介入したからといって、自分がいた現在は何も変わらない。
パラドックスもまた、観測される側の視点に過ぎず、第三者の立場が存在しなければ、その変化を証明することもできない。
親を殺したとして、そこから生まれるはずの生命が別人だったとしたら──
その生命は「自分」ではなく、まるでクローンのように別個の存在なのだ。
***
『レイナ:マナ、部屋までちょっと来てほしい。』
朝早くに、珍しく相棒から端末にメッセージが届いた。
任務以外で使うことのない端末から。
レイナにとっては深刻な事態なのだろうが、それはマナにとっても同様かどうかは別だ。
マナはメッセージを見つめながら、声に出す。
「……さて、どっちかなぁ。前者だといいのだけど」
決して短くない期間連れ立った相棒のSOS(かどうかは不明だが) 。
マナは軽く身支度を整えると、研究所地下施設のレイナの部屋へと向かった。
この施設は監禁所とは違う。外界に出るには理由が必要だが、部屋自体は出入り自由。
セキュリティクリアランスさえあれば、施設内のほとんどのエリアには自由に入れる。
レイナの部屋は一般居住セルではなく、研究用セルに分類されている。
理由は単純。彼女の“定期メンテナンス”の必要性によるものだ。
部屋の前に立ち、マナはノックもそこそこにセキュリティカードを翳す。
「入るわよ」
返事を待たず中に入ると、薄暗い室内にレイナがベッドにくるまっていた。
まるで人型の繭だ。
「レイナ? あなたが呼び出すなんて、珍しいじゃない。何かあったの?」
「──深刻よ。正直、どうすればいいか分からない」
その声は、ほんのわずかに震えていた。
マナは眉をひそめる。
「いつも氷のように冷静なあなたが取り乱すなんて……何よ? 顔に斑点でも出た?」
レイナは何も言わず、シーツの中で小さく首を横に振る。
「いつまで被り虫してるのよ。とにかく、そのシーツ取って出てきなさい」
「……笑わない?」
「努力はしましょ」
笑いの沸点はすでに下がっていたが、そこは濁して答える。
ゆっくりとシーツがめくれ、その下から現れたレイナの頭には──
猫耳が生えていた。
「…………」
「…………」
「……マナ?」
「い、イメチェン?」
「冗談はやめて」
その声は真剣だった。
「……ごめんなさい」
ベッドの上、ぐるぐると身体を巻き込んだシーツの山。その中からわずかに覗いた顔は、明らかに怯えていた。
冷静沈着な彼女がここまで動揺するなど、並大抵のことではない。
「朝起きて、鏡を見たら……頭にこんなものが付いていた」
そういう彼女の頭頂部には艶やかな黒い毛並みを持つ二本の耳が生えている。
「へ、へぇ……。尻尾は?」
「……無い、と思う」
ぼそりと答える声には、不安と戸惑いがにじんでいた。
「オブジェクトに曝露したってことかしらねぇ。これは確かに……どうしていいか、わからないわね」
彼女の言葉に、部屋の空気がずしりと重くなる。
もし研究所の職員に見つかれば、検体扱いされるのは時間の問題だ。
監視カメラで既に把握されている可能性もあるが、今は考えないようにした。
「私じゃなくてよかった」
「……冗談のつもり?」
「ごめんってごめんって。あんまり大きな声出すと気づかれるよ」
猫耳をぴくりと震わせながら、彼女は再びシーツに包まる。
「ちなみに、その耳……本物?」
「触感はある。頭から生えてるとしか思えない」
「触ってもいい?」
「嫌。でも……少しだけなら」
そっと手を伸ばし、シーツ越しに撫でる。猫耳に指先が触れた瞬間、ピクリと震える。
本物だ――そう思わざるを得なかった。
室内にはわずかな静寂が漂う。冷蔵庫の微かな駆動音と、空調の風音だけが耳に残る。
「うーん。この施設には変異現象の専門家も多いけど……誰かに相談する?」
「職員に頼るの……?」
「正直、私たちだけじゃ手に負えないでしょ」
「……そう、ね」
「いつもメンテナンスしてるのって、誰だったっけ?」
「I博士」
「あの人か……適任だけど、変人でも有名なのよねぇ。じゃあ、地下の教授は?」
「私たちのクリアランスじゃアクセスできない」
その時、空気を裂くように端末から音声が響いた。
『いいえ、構わないわ』
無機質な女の声が部屋に反響する。冷たいようでどこか楽しげな響きを含んでいた。
「あらら……聞かれてたか。ってことは、もうバレてるのね」
『今この瞬間、私が通報すればね。……でもね、これはなかなか愉快な事態よ?
そもそもこの施設で、私の目を欺けると思ったの?……交換条件を提示するわ。
そちらの中身を、少しだけ研究させてちょうだい。その代わり、猫耳の件は私が処理してあげる』
「言い切るのね……さすが天才教授」
『選択肢が多いようには見えないけれど、一応確認するわ。どうする?』
「……構わない?」
「いいよ別に。I博士ならともかく、教授なら悪いようにはしないでしょうし。もうバレてる以上、選択肢はないわ。
言う通りにするしかない」
『了解。それでは――あなたの部屋の引き出し、下から二段目の右奥にチェックの帽子があるわね。
それを被って。エレベーターの操作はこちらで行うわ』
「……なんでそれを……いや、いいわ」
指定された帽子を手に取り、研究施設の奥へと向かう。足音だけが静かに廊下に響く。
無人の通路、冷たい蛍光灯。無機質な扉の前に立つと、自動でロックが解除され、エレベーターが開いた。
二人が乗り込むと、無言のままエレベーターは降下を始めた。階層を示すランプは全て消えている。
どれほど下がったのか、もはや感覚が曖昧になる頃――静かに停止音が鳴った。
扉が開く。
そこは半球状の空間。直径20メートルほどのその内部には、無数の花々が咲き乱れていた。
鮮やかな赤、深い青、毒々しいまでの黄色――人工的な光が照らす温室のような空間だった。
『ようこそ、私のラボへ』
声だけが天井のスピーカーから響く。姿は見えない。
『さて。当研究所からオブジェクトによる汚染が発生したというのは、あなたたちが思う以上に深刻な事態よ。
本来なら隠蔽ではなく封じ込めを行う必要があるけれど……残念ながらその現象は、レイナだけに限られているようね』
「“残念ながら”って……」
『……コホン。対処方法はいくつかあるけれど、まずはその前に。目の前のカプセルに入ってちょうだい』
地面が機械音と共にせり上がり、二つの透明なカプセルが現れる。中は青白い光で満たされていた。
目配せをし、互いに頷いて中へ入る。
意識が遠のいていく。




