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X15.5_TB5 第50話

低い機械音が遠くで鳴っていた。

第零研究機構エイドロンの地下は、いつも冷たく、静謐だ。

けれど今日は、警報の音も、金属靴の響きもない。

ただ――人の声と、控えめな笑い声だけが、空気の中に溶けていた。


「……ねぇ、レイナ。本当にオフなの? 何かの訓練じゃなくて?」

マナは白衣を脱ぎ、代わりに渡されたエプロンを胸の前で結びながら、半信半疑の目でレイナを見た。

「うん。本当に。今日は任務も演習もなし。教授から正式な“休日命令”」

「教授が……? なんか裏がありそうだな」

「考えすぎ。あなた、少しは休まないと。体の方はもう大丈夫なの?」

「まぁ……昔みたいに変な渇きもないし、平気」


マナはそう言いながら、自分の手のひらを見つめた。

かつて赤黒い脈動を帯びていた指先は、今はただの“人間の手”に戻っている。

けれど、それを見てもどこか実感が湧かない。

「……なんか、変な感じ。ずっと“違うもの”だったから」

「だからこそ、今を感じる練習だよ」

レイナは軽やかにボウルを取り出し、マナの前に置いた。

「今日はお菓子を作ろう」

「……え?」

「クッキー。ここの厨房、補給部が一部開放してるの。砂糖とかも使っていいって」

「……クッキー?」

「うん。人間の女の子らしく、ね」


マナは目を瞬かせて、思わず笑ってしまった。

「人間らしく、かぁ……なんか、レイナが言うと説得力あるような、ないような」

「あるよ。私はあなたをそうしたいから」

「……ふふ、そっか」


マナは袖をまくって、材料を見つめた。

砂糖、小麦粉、バター、卵。

任務報告書よりずっと単純な並びなのに、なんだか緊張する。


「ねぇ、これって……分量とかあるの?」

「うん、ちゃんと測る。感覚でやると失敗するから」

「へぇ……料理って意外と科学的なんだね」

「そう。だからマナにも向いてると思う」

「……褒めてる?」

「もちろん」


二人は並んで作業を始めた。

ボウルに卵を割り入れ、砂糖を加え、泡立て器で混ぜる。

マナは最初こそぎこちなかったが、徐々に手が慣れてくる。

やがて、バターの匂いと甘い空気が、金属と薬品の匂いしかなかった厨房に広がった。


「……ねぇ、レイナ」

「ん?」

「私さ、こうやって普通のことしてると、少しだけ忘れられる気がする」

「何を?」

「全部。血とか、実験とか、戦いとか……“異常性”のこと」

レイナは静かに手を止めて、マナを見つめた。

「それは、忘れてもいいこと?」

「……わかんない。たぶん、忘れたら私じゃなくなる気もするし……でも、思い出すのも怖い」


マナの声は小さく震えていた。

レイナは何も言わず、そっとマナの手に自分の手を重ねた。

「大丈夫。あなたは“変わった”けど、“失った”わけじゃない」

「……そう、なのかな」

「うん。あなたは、ちゃんと“生きてる”。それが何より大事」


マナは少し目を伏せて、小さく息を吐いた。

その頬にかかる黒髪が揺れ、照明の光を受けて淡く光った。


「……なんか、変な話してごめん」

「いいよ。オフなんだから。少しくらい心の整理しても」

「そういうの、上手いよね。レイナって」

「そう見えるだけだよ。私だって、怖いこといっぱいある」

「え?」

「あなたが人間に戻ったのは嬉しい。でも、どこかに行っちゃいそうで――少しだけ、怖い」


マナは目を見開いた。

そして、ふっと笑った。

「……大丈夫だよ。私はまだここにいる。多分、もう少しだけ」

「“もう少し”って何?」

「……内緒」


オーブンのタイマーが鳴った。

二人の間に漂う静けさが、甘い香りと一緒にやわらかくほどけていく。


焼きあがったクッキーは少し形がいびつだったけれど、レイナは嬉しそうにひとつつまんだ。

「おいしい」

「ほんとに? 焦げてない?」

「焦げててもおいしい」

「……それ、フォローになってないよ」


二人は顔を見合わせて笑った。

その笑い声が、無機質な研究施設の壁に反響して、少しだけ暖かく聞こえた。


そして、マナはふと窓の外――地上の天窓から差し込む光を見上げて呟いた。

「ねぇ、レイナ。今度の休み、地上に行ってみたいな」

「地上?」

「うん。空、見たい。……本当の空」

レイナは少しだけ目を細めて頷いた。

「いいね。それ、すごく人間らしい願いだと思う」


マナは微笑んだ。

彼女の瞳にはもう、異界の光ではなく――

確かに“この世界の青”が映っていた。

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