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第49話

“指輪”が脈打つ。

空気が裂け、路地の壁にありえない扉が現れる。

錆びた鉄の蝶番、古びた木の表面。触れた瞬間、現実の物理法則が書き換えられていくのがわかる。


「来る」

レイナが低く告げた。


扉の隙間から、影がにじみ出る。

人影のようでありながら、顔も手も曖昧なまま滲む黒い存在。

音を立てず、だが確実に“こちらへ”歩いてくる。


マナは反射的にポケットの瓶に手を伸ばした。

――指先が、触れる。


ガラス越しの冷たさ。

赤い液体が、月明かりにわずかに輝く。


「……違う」

マナは自分の手を弾くように引いた。

強く息を吸い込み、素手のまま影を睨み据える。


「レイナ。あんたに背中は預ける。だから――」


その瞳に、消えかけた獣の光がわずかに戻る。


「一緒にやるわよ」



廊下の奥で、燭台が勝手に倒れた。

鉄と蝋のぶつかる甲高い音が響き渡り、その瞬間、黒い靄が渦を巻く。指輪の影響か、形を持たぬものが壁から滲み出すように姿を現した。


「来たか。まるでヴェルガの残滓みたいね」

マナが小声で呟く。喉が乾く。恐怖か、それとも――本能が求める渇きか。


黒い靄は人型を模し、次第に輪郭を固めていった。伸びてきた腕は異様に長く、爪のような影が床を削る。


「案外向こうの指輪かも。敵性対象……収容困難」

レイナは低く言い放つ。感情を交えぬ声。まるで機械のように冷たい。


「分かってる!」

マナは短剣を抜き放ち、構えを取った。人間の筋力では届かないはずの速度に、必死に自分の身体を馴染ませる。

吸血鬼だった頃は、刃より速く動けた。それを失った今、呼吸ひとつで遅れが生死を分ける。


影が襲いかかる。爪が眼前を薙ぎ払う。

反射で身を伏せ、マナは床を転がった。長い髪が切り裂かれ、空気が震える。


――危ない。あと半秒遅ければ首を落とされていた。


「マナ、下がって!」

レイナの声が飛ぶ。


彼女は右腕に装着した装置を起動した。銀色の板、幾何学的な光の紋様が宙に浮かぶ装甲が展開される。


レイナの掌から放たれた光刃が、影の身体を切り裂いた。断末魔のような音が空間に響き、黒煙が壁に散って消える。


「やる……」

マナは思わず息を呑む。だが同時に悔しさが胸を突いた。

かつての自分なら、この程度、力ずくで粉砕できた。

今はただ、レイナの背に守られるだけ。


影は再び形を変える。分裂し、廊下の両端から迫ってくる。


「二体。いや、もっと」

レイナの目が淡く光る。

「自己増殖型……長期戦不可」


「分かってる!でも……」

マナは短剣を握り直した。呼吸を整える。人間の動体視力で、どこまでやれるか。


レイナが片側を斬り払う間、マナは逆側に躍り出た。

爪が迫る。マナは身体を沈め、滑るように間合いへ飛び込む。そして短剣を影の胸へ突き立てた。


手応え。だが影は実体を持たず、刃は半ばまで飲み込まれる。冷たい抵抗。体温を奪う泥に腕を突っ込んだような感覚。


「くっ……!」

そのまま押し返され、壁に叩きつけられた。肺の空気が抜ける。視界が白む。


視界の端、腰のポーチの中で、小瓶が赤く煌めいた。

ほんのわずかに指先が震える。――使えば、力は戻る。

だが、それは自分が忌み嫌った「吸血鬼」への逆戻り。


「マナ!」

レイナの声で我に返る。

彼女の光刃が飛び、マナに迫る影の腕を弾いた。


「立って。あなたが必要」


短く、鋭い言葉。

マナは震える膝に力を込め、立ち上がる。

刃を構え直し、赤い瓶から目を背けた。


「分かってる……!私も、戦う」


再び二人は並び立つ。

影は無限に湧くかのように廊下を埋め尽くす。

その中心に、きらりと銀色の光を宿した指輪が、床に転がっていた――。



路地裏を抜けると、薄い霧が漂う夜の通りに出た。

息を切らしたマナとレイナの背後で、黒い靄は完全に消え去っていた。指輪は静かに、だが確かに路面に残されている。


「ここまでか……」

マナは膝に手をつき、荒い息を整える。

身体の震えはまだ止まらない。

――吸血鬼の力を失った人間として、あの戦闘を生き延びた。


「マナ、立って」

レイナが手を差し伸べる。無表情だが、声にわずかな柔らかさが混じった。

マナは手を取り、ゆっくり立ち上がる。


通りの先には、収容班の車両が静かに停まっていた。装甲が黒光りする大型車両。側面には《EIDOLON》のロゴが刻まれている。

助手席の扉が開き、ナユタを含む収容班が迎えに出ている。


「指輪、確認」

収容班が報告する間にも、マナは目を光らせて路地を見渡す。異常現象が再発する兆しはない。

深呼吸を一つ、胸の中の緊張を押し込める。


収容班が運び出したのは、異常物品専用の「特殊収容ポッド」だった。

外見は白銀色のカプセル型。内部には光学・磁場・時間制御の複合シールドが組み込まれており、物理法則の逸脱や存在の波動を封じることが可能だという。


マナとレイナは指輪を慎重にポッド内に設置するのを見守った。

光学シールドが作動すると、指輪は宙に浮き、微かな赤い脈動を残して完全に固定された。

内壁のパネルが数字と模様を次々に表示し、指輪の存在を解析・抑制していく。


「封印完了。異常現象の拡散は停止」

収容班の声が静かに告げる。

金属の扉が閉じられ、シールドが全方位を覆うと、指輪の微かな光も完全に消えた。


マナは肩で息をしながら呟く。

「……終わったのか」

力なくも、どこかほっとした表情。


「終わった。マナ」

レイナが静かに答える。

光刃は収められ、彼女は膝の高さでマナを見下ろす。冷たい目の奥に、わずかに安堵の色が揺れる。


二人の間に、戦闘の余韻が静かに沈む。

傷と疲労、そして互いに寄り添う存在の重み。

マナは小さく息を吐き、手を短剣の柄から離す。

レイナはただ静かに横に立つ。


路地裏の暗闇も、今はもう安全だった。

だが二人の心には、指輪の余韻が微かに残っていた――現実にあって現実でないもの。


やがて車両のドアが閉まり、エイドロン基地へと向かう。

夜の風が路地を通り抜け、冷たく、静かに二人の背中を撫でた。



大型収容車両が基地の格納庫に滑り込むと、路地裏の夜とはまるで別世界の静寂が広がった。

白い蛍光灯の光が天井から降り注ぎ、金属の床が冷たく光る。

指輪を納めた特殊収容ポッドは、格納庫中央で静かに脈動していた。まるで眠る生物のように、だが決して目覚めることはない。


マナは膝を抱え、短剣を横に置く。体中の筋肉が燃えるように痛む。

吸血鬼の力が使えない今の自分にとって、あの戦闘は限界を超えた挑戦だった。

小瓶に触れれば力は戻る。だが、もう吸血鬼には戻りたくない――その渇望すらも拒絶した。


「……マナ、怪我は?」

レイナがゆっくり歩み寄る。光刃は収められ、両手を背に組んでいる。

その表情は相変わらず無表情に近いが、目だけがほんのわずかに柔らかい。


「大したことない……ただ、体力が尽きただけ」

マナは力なく笑った。

震える手で膝を押さえ、呼吸を整える。


「無理した」

レイナが短く言う。

「でも、道を開いたのはマナ。私だけでは……」

言葉を切る。淡々としているが、言外に感謝が滲む。


マナは顔を上げ、レイナを見た。

いつもは冷静で、感情を見せない存在。だが今、その瞳は確かに自分を見つめていた。


「……私も、戦えた。レイナと一緒なら」

思わず口にしたその言葉に、二人の距離が一瞬だけ縮まる。


格納庫の奥で、収容班がポッドの周囲を確認する。

収容班が指示を出し、光学・磁場・時間制御の複合シールドが完全稼働していることを確認する。

指輪は完全に封じられ、これ以上の影響は及ばない――だが、それでも空間には異様な余韻が残る。


「安全は確保された」

ナユタの声が響く。

マナは深く息を吐き、肩の力を抜いた。

戦闘の緊張がゆっくりと溶けていく。


レイナは短く頷き、言葉少なに続けた。

「戦闘、正確には……あなたに依存」

表情は変わらない。だが声の調子が、微かに重い。


「依存……してない。レイナと一緒に戦った、だけ」

マナはそっと答え、短剣を手元に置く。

疲れた身体を伸ばし、しばしの安息を許した。


外の風が、基地の扉の隙間から差し込む。

路地裏で震えた闇とは違い、冷たくも安心できる空気。

二人は互いに背を向けず、しかし言葉少なに、静かに存在を確かめ合った。


――戦闘は終わった。

だが、互いの心に残った影と余韻は、まだ消えない。


マナは小瓶を見ずに手を握り直した。

レイナは光刃を再び腰に収め、ただ静かに横に立つ。

互いの呼吸が、わずかに重なり合う。


夜は深く、基地の静寂だけが二人を包んでいた。

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