X15_VR 第48話
夜の街は、人の気配をひとつも残していなかった。
昼間は人通りの絶えない繁華街の裏通り。だが深夜二時を回れば、ここは別世界になる。街灯の光は湿ったアスファルトに鈍く反射し、ネオンの看板は虚ろな赤と青を交互に瞬かせる。
ゴミ袋が風に揺れて擦れ合い、猫の影が素早く駆け抜けた。
だが――この夜の静けさには、言葉にできぬ“異物”が混じっている。
目には見えず、音にもならないそれは、肌の裏側をざらつかせるような違和感として、確かにそこにあった。
「……また、厄介なシロモノってわけね」
先に口を開いたのは、黒羽マナだった。
ネイビーブラックのショートヘアを夜風になぶられながら、彼女は足を止める。路地の入り口に立ち尽くし、鋭い目で闇を射抜くその姿は、ただの少女には見えない。
吸い込んだ空気は湿り気を帯びて重い。喉にひっかかる金属臭は、血の匂いに似ていた。
「感想は、後にして」
隣に並ぶ声は低く、平坦だった。
空科レイナ。長身のシルエットが街灯に照らされると、その姿は人工的な精密さを帯びて浮かび上がる。灰銀色の瞳は光を吸い込み、まるで世界を計測する機械のように動かない。
レイナの眼差しは、人間のそれではない。
だが――その奥底には、説明しがたい揺らぎが潜んでいるようにマナには思えた。
「観測しているけれど。対象がこの場所にまだ留まっているかどうか」
淡々とした声。
だが、言葉の端にはわずかな執着が混じっていた。
「観測ね」
マナは肩をすくめ、乾いた笑いを漏らした。
「そういう言い方、いかにも“私は人間じゃありません”って宣伝してるみたい」
「……私は、人間ではない」
静かな返答だった。
レイナの横顔は陶器のように滑らかで、その表情の硬さは彫像を思わせた。だがほんの一瞬、灰銀の瞳に影が差す。――その陰りを、マナは見逃さない。
「まあいいわ」
軽く吐き捨てるように言って、マナは歩を進める。
ヒールの低いブーツがアスファルトを叩き、その音が路地の闇に溶けていった。
「どうせ私も、“普通の人間”じゃないんだから。おあいこでしょ」
その声には冷淡さと、かすかな自嘲が混じっていた。
***
路地の突き当たり。
そこに――“それ”はあった。
宙に浮かぶ指輪。
直径は数センチ。素材は不明。赤にも青にも見え、時には透明になり、目を逸らせばそこに存在した記憶すら薄れていく。
だが、見れば必ず“ある”。
存在と不在が同時に並び立つ矛盾の産物。それが《ストレンジオブジェクト》だった。
マナの心臓がひときわ強く打つ。
血が熱を帯び、手のひらに汗がにじんだ。
「……気持ち悪い」
無意識に漏らした声は、冷たさよりもわずかな恐怖を帯びていた。
「収容対象《#R-019存在しない指輪》、確認」
レイナが感情の色を欠いた声で告げる。
右手の指先から淡い光が広がり、空中に透明なパネルのようなものが展開された。内部センサーによる記録処理だ。
「……データ化、失敗。やはり、物理記録には定着しない」
「だから実物を持ち帰るしかないんでしょ」
マナが目を細め、唇を噛む。
「ただし」
レイナが視線を横に移す。その瞳は冷たいが、わずかに警告の色を帯びていた。
「対象に接触した者は“痕跡”を失う。記録や記憶から、少しずつ存在が消えていく。そう報告されている」
「つまり、触れば自分が“いなかったことになる”ってわけ?」
マナの口角が上がる。その笑みは冷笑でありながら、刃を隠した強がりでもあった。
「冗談じゃないわね」
空気が軋んだ。
“存在しない指輪”が震えるたび、世界がわずかに歪む。
壁に落ちる影は液体のように流れ、街灯の光は異様な速度で明滅し、アスファルトの路面に波紋が走る。
世界そのものが、拒絶されている。
「……っ」
マナは奥歯を噛みしめた。
かつてなら、身体が自然に反応していたはずだった。半吸血鬼としての力――研ぎ澄まされた感覚も、肉体を突き動かす獣性も。
だが今は、それがない。
脈はただの人間としての速度で打ち、肺は苦しげに酸素を求める。膝の奥が震えているのが自分でもわかる。
ジャケットの内ポケットの奥。
小さなガラス瓶が、心臓の鼓動に合わせて存在を主張していた。
――赤い液体。
吸血鬼の血を抽出した触媒。ひとしずくで、失った力は戻る。
だが同時に、二度と人間には戻れない。
マナは指先をそこにかけかけて、やめた。
震えを押し殺し、奥歯を強く噛む。
「……使わない」
小さく、自分に言い聞かせるように呟いた。
***
隣で、レイナが動いた。
灰銀の瞳が一度、指輪に焦点を合わせる。
「変化。世界の構造、局所的に乱れている」
冷ややかな声。
「このまま拡大すれば、周囲の住居も呑み込まれる」
「つまり、急がなきゃいけないってことね」
マナの声は乾いていたが、心臓の高鳴りは隠せない。
レイナが一歩、前に出た。
長身のシルエットが街灯に切り取られ、その輪郭が淡く光を帯びていく。
有機シリカの構造体が変質し、彼女の肉体は戦闘形態へと移行する。
「収容を阻害する力。強い。あなたの補助が必要」
「……あたしは、もう」
マナの言葉は途中で途切れる。声に出すのも苦しい。
――もう、吸血鬼じゃない。役立たず。
その沈黙を、レイナは正確に読み取った。
振り返りもせず、ただ背を向けたまま。
「弱さ。知っている。だが、後退は選択肢にない」
短い断言。
人間らしい励ましでも、温かさでもない。ただの事実として告げられた言葉。
それなのに――マナの胸の奥で、何かがかすかに震えた。




