第5話
夕暮れの駅裏。廃ビルの路地にセンサーが静かに配置されていた。
マナは影に隠れ、レイナはモニターに目を凝らしている。
「……来た。座標一致、半径4メートル内に入った」
「ほんとに出てくる?」
「確率は81%。十分に高い」
ピピッ、と静かな音が鳴る。
「感知。空間歪み反応あり。時間停止が──解除された」
「今!」
マナが飛び出すと同時に、空中に一瞬だけ揺らめく影。
少女が現れ、息を呑んだ表情で振り返る──
「補まえた!」
マナが少女の腕をつかむ。
「きゃっ……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」
少女は目に涙を浮かべ、怯えた様子で震えている。
「マナ、彼女が怯えている」
レイナが低く諭すように言うと、マナは少し身を屈め、やわらかい声に変えた。
「ああ、ごめんなさい。驚かせちゃったわね。……私たちは、あなたが持っている“ふしぎなもの”を、返してほしいだけなの」
「……これ、ですか?」
少女はジャケットのポケットから、小さな銀色の懐中時計を取り出した。
光を受けて表面が鈍く輝くそれは、まるで時間そのものを内包しているかのようだった。
「ただ落ちていたから……持ち主に返さなきゃって思っただけなんです……」
「そう、ありがとう。──でも、これは普通のものじゃないの。だから、私たちが預かるね」
少女の不安を和らげるように、レイナがそっと微笑んだ。
「大丈夫。怖がらないで。私たちはその時計を預かるだけ。すぐに安全にするから」
少女は怯えた目でうなずき、震える手から懐中時計をそっと差し出した。
マナは慎重にそれを受け取り、布で包む。
「よし、これで完了」
その時、不意に路地の入り口から足音が響いた。
男二人組が現れ、冷たい視線を向けてきた。
「その時計を返せ」
男の一人が冷たく命じる。
「これは俺たちが奪ったものだ。簡単に手放せると思うなよ」
「今渡すわけにはいかない。私たちにも命令がある」
レイナが鋭く返す。
男たちは懐から鋭利な刃物を取り出し、襲いかかろうとする。
マナは身をかわし、レイナは片手で一本の苦無をはじく。
すると背後から、風のような気配が忍び寄る。
黒い忍者装束の影が、音もなく彼らの背後に立った。
「もう終わりだ」
刹那、忍者が瞬く間に男たちに飛びかかり、鋭い刃が影の中で閃いた。
男たちは倒れこみ、動かなくなる。
マナとレイナは互いに顔を見合わせ、息を整えた。
レイナが低く呟いた。
「知らなかった。……まさか、あんな奴らが背後にいたなんて」
マナが言うと、忍者の少女は冷静に言った。
「彼らは組織から逃げ出した脱走者。処分対象なので始末したっす」
沈黙の中、三人は夜の闇に包まれていった。
空はすでに茜色から紫に染まり、逢魔が時が始まっていた。
「その時計は返してもらうよ」
忍者が言った。マナは即座に言い返す。
「私たちも、上からの命令で回収を指示されているのよ」
「そもそも、それは我々の物だ。返却されるのが当然だとは思わないっすか?」
「レイナ、ナギサに連絡して」
「すでにしてる。そこの忍者──3分だけ待って」
「いや、忍者だけど……まあいいや。3分で何するの? 増援でも呼ぶ?」
「これは組織間の問題になる。だから根回しをする」
「返却できないけど、拒めば抗争になるぞってナギサに伝えるのね?」
「そう。ほうれんそうは大事」
「──珍しいわね、レイナがジョーク言うなんて。雨か苦無でも降りそうね。」
「お望みなら、苦無、降らせようか?」
「ジョークに乗るな、忍者。で? 本当に3分でいいの?」
「二対一するよりマシだし、話をつけるなら待ってやるっすよ」
レイナは通信を続けた。
「という訳でナギサ、折れてくれないと私達は非常に困る」
『……わかった。そこの忍者に端末を渡してくれ』
レイナが小型端末を忍者に放る。相手はそれをキャッチし、通話を繋げる。
『チャンネル329に合わせろ。と君の“上司”に伝えてくれ』
忍者は顔をしかめながらも、無線で何かを報告している。しばしの沈黙の後──
『……やれやれ。まったくもって聞きたくなかった声だ。何年ぶりだ、ナギサ』
『8年4ヶ月と3日。忌々しい』
『で、俺は何をすればいい?』
『自分の部下を統制することだ。虚構を暴かれる事態を引き起こさなければ、我々が出動することはなかった』
『……それは確かに。彼らの処分で済むなら、それでいい。条件は呑む』
通信が切れ、静寂が戻る。
「交渉、成立したわ」
「ナギサが言ってた。──返していいって」
マナは懐中時計を少女のほうへ向けて振りかぶったが──
「阿呆か。そんなもの投げようとするな」
忍者の姿が消えたかと思えば、すぐ隣に現れていた。背後から手を差し出す。
「……失礼」
マナは慎重に、時計を手渡す。
忍者は懐中時計を確認すると、端末と同時に懐に収める。
「──では、御免」
そう言って、風のように姿を消した。
話に取り残された少女は、あっけに取られて立ち尽くしていた。
「……あの、今のって……」
「ごめんね、怖い思いをさせて。もう大丈夫。時計も、あなたの責任じゃないわ」
レイナが優しく声をかける。
「私たちがきちんと処理したから、あなたはもう帰っていいの」
「ほんとに……?」
レイナがそっと懐から小型の端末を取り出す。
「これは……記憶処理装置よ。君の記憶の一部を安全に消すためのもの」
少女は目を見開き、ほんの一瞬だけ抵抗の色を見せたが、すぐに俯いてしまう。
「わ、わたし……何も覚えてないほうが……いいの?」
マナは静かに頷く。
「それが一番安全。もし覚えていたら、また危険が及ぶかもしれないから」
レイナは端末の操作を開始する。淡い青い光が少女のこめかみに触れるように広がる。
少女の呼吸が徐々にゆっくりと深くなり、瞳がぼんやりと曇り始めた。
その光は静かに彼女の脳内の断片をなぞり、恐怖や痛みの記憶、組織の追跡に関する部分を丁寧に削ぎ落としていく。
「目を閉じて……ゆっくり呼吸して」
マナの囁きに少女は素直に従い、小さく震える唇を閉じた。
数分の静寂の後、レイナが端末をしまい、少女の額に優しく手を置いた。
「終わったわ。もう大丈夫。危険なことは覚えていないから、安心して」
少女はふっと安堵の吐息を漏らし、小さく微笑んだ。
けれど、その微笑みはどこか儚く、どこか切なげだった。
「レイナ、あの懐中時計って結局何だったの?」
「私は知らない。でも──知らなくても問題はない。ナギサが保証してる」
「それってつまり、いつものやつね。──人間の管理の限界」
「……そういうこと」
「帰ろっか。やっと夕飯にありつけそう」
レイナは小さく笑って頷いた。
──空はすっかり夜の帳に包まれていた。




