第32話
白い光が収まり、異界の裂け目が完全に閉じたあと――戦場に残っていたのは、瓦礫と焦げた空気、そしてマナだけだった。
やがて、砂埃を蹴立てて駆け寄る影がひとつ。
「……生きてた」
肩で息をしながら、レイナがマナの目の前に立った。
服は破れ、額からは血が流れている。それでも、その目はいつもと同じ鋭さを保っていた。
マナは視線を伏せ、短く息を吐く。
「……終わったよ。全部」
「見てた。……最後まで」
レイナの声には、責める色も慰める色もない。ただ淡々とした事実だけがあった。
それが、逆にマナの胸を締めつけた。
「……三人とも、消えた」
「そうだね」
「もう……会えない」
「そうだね」
肯定が、刃のように深く突き刺さる。
マナは唇を噛みしめ、何も言えなくなった。
レイナはしばらく黙ってから、そっと視線を空に向けた。
「でも、貴女は戻ってきた。人間として」
「そうだ。だから、あの三人は……それを選んだんだ」
マナは拳を握る。爪が掌に食い込み、鈍い痛みが現実を突きつける。
「……勝手に、決めて」
「勝手じゃない。……貴女だって、同じだったでしょ」
レイナの言葉は静かで、しかしどこか優しかった。
風が吹き、マナの短い髪が揺れる。
遠くで、エイドロンの輸送機が到着する音が聞こえた。
「帰ろう」
「……うん」
二人は瓦礫の上を並んで歩き出す。
マナはふと、隣を歩くレイナに問いかけた。
「……もし、あんたがあの中にいたら、私は迷わず助けたと思う」
レイナはわずかに笑った。
「なら、私も同じことをするさ」
そのやり取りの中に、ほんのわずかな救いがあった。
消えた三人の姿は、もうどこにもない。
それでも――マナの横には、まだ歩く誰かがいる。
輸送機の後部ハッチが開き、彼女たちはゆっくりと中へと乗り込んだ。
遠くで、崩れた街並みが夕焼けに照らされ、まるで何事もなかったかのように静かに沈んでいく。
マナは最後に一度だけ、その景色を振り返った。
そして、二度と戻らない戦場に背を向けた。
輸送機のエンジン音が低く唸り、機体はゆっくりと戦場を離れた。
マナはシートに深く腰を沈め、ただ視界の端でレイナの無言の横顔を見ていた。
彼女の鎧の隙間から覗く傷跡が、戦いの激しさを物語っている。
やがて、通信機から教授の声が響く。
『無事帰還、ご苦労。……マナ、恐らくあなたはもう人間と変わりないわ。詳細は検査の結果次第だけれど』
その言葉は、あまりにも事務的だった。
それでもマナは小さく「……そう」とだけ返す。
安堵はある。だが、胸の奥の空洞は埋まらない。
隣でレイナが短く笑った。
「ま、これからは“普通の”飯でも食えるでしょ。血袋の代わりに」
「……そういう言い方しないで」
「冗談」
そう言いながら、レイナの表情にはわずかな柔らかさがあった。
***
第零研究機構本部――。
帰還したマナたちを迎えたのは、無言で立つナユタと、手にタオルを持ったアサギだった。
ナユタはただ一言、
「……おかえり」
とだけ告げ、視線を逸らした。
それが彼女なりの精一杯の感情表現だと、マナは理解している。
アサギは淡々と血と埃を拭いながら、
「今回は……生きて帰ってくれて、助かりました」
と呟いた。声は感情を抑えていたが、握るタオルの力がわずかに震えていた。
地下の教授のラボ。
教授の映像は端末に映し出された位相安定グラフを見つめる。
『アレーティアシナリオは完全に終了ね。……けど、記録は残る』
その視線はマナに向けられた。
『あなたが人間として生きる限り、この世界は安定する。忘れないで』
マナは短くうなずいた。
だが、心の中では――忘れることなど、できるはずがなかった。
アリスの最後の表情。イチカの消える瞬間の笑み。マナツの、幼くも強い眼差し。
それらは、まるで焼き付いた傷のように残っている。
部屋を出ようとしたとき、レイナがマナの肩を叩く。
「なぁ、次は……もっと静かな任務にしようよ」
「そんなの、“研究所”じゃ無理でしょ」
「じゃあ、せめて次は――二人とも帰ってこれるやつだ」
その言葉に、マナは少しだけ息を吐き、わずかに口元を緩めた。
それは、ほんの一瞬の安堵だった。
***
――白い霧が立ち込める。
マナは気づけば、見知らぬ草原の中央に立っていた。
風も音もない。なのに、胸の奥がざわめく。
「……来たのね」
背後から聞き慣れた声。振り向けば、アリスが立っていた。
長い銀髪は霧に溶け、瞳はどこか安堵を宿している。
「あなた……」
言葉を探す間に、別の影が現れる。
イチカがいつもの笑顔で手を振り、マナツは少し照れくさそうに俯いていた。
「私たちは、もう向こうに行く。でも……最後に言っておきたかったんだ」
アリスが一歩近づき、マナの手を取る。
その手は暖かく、震えていた。
「人間として、生きて。それがあんたの選んだ道」
「……分かってる。でも、寂しい」
「寂しくていい。その寂しさが、あんたをちゃんと繋ぎ止める」
イチカがくるりと回って笑う。
「また会えるよ。たぶん、夢の中とかでね」
マナツは小さく頷き、囁くように言った。
「自由……くれて、ありがとう」
霧が深くなり、彼女たちの輪郭が淡く滲み、やがて光に変わって消えていった。
マナはその光に手を伸ばすが、触れた瞬間、全ては闇に沈んだ。
***
まぶたの裏の闇が薄れ、現実の天井が視界に広がる。
マナはゆっくりと上体を起こした。
――部屋の外から、微かな寝息が聞こえる。
ドアを開けると、廊下の壁にもたれてレイナが座っていた。
腕を組んだまま、口を半開きにして寝ている。
足元には、読みかけの任務報告書と紙コップのコーヒー。
冷めきったそれを見て、マナは苦笑した。
「……バカ」
小さく呟き、そっと毛布を取りに戻る。
戻ってきて、レイナの肩に掛けたとき――彼女が微かに目を開けた。
「……お、起きた。夢見は?」
「……悪くなかった」
その答えに、レイナは何も言わず、また目を閉じた。
廊下には静けさだけが残り、マナはその中で、自分の鼓動を確かに感じていた。
レイナは肩の毛布を掴み、片目だけ開けてマナを見た。
「……で、人間に戻った気分はどう?」
「よく分からない。でも、もう……あいつらの声は聞こえない」
「そう」
軽く笑うレイナの声には、喜びとほんの僅かな空虚が混じっていた。
マナは廊下の窓から外を見やった。夜明け前の街は、異界の影を失い、静かに眠っている。
「全部……終わったんだよね」
「教授は“安定した”って言ってた。でも――」
「でも?」
「安定ってのは、また揺らぐ前の言葉だ」
レイナの言葉に、マナは眉を寄せる。
「まさか……まだ何かあるの?」
「さあ。ただ、アレーティアシナリオが未来から来たって話、本当にそれで終わりかは……」
そこで、廊下の端に設置された通信端末が短く点滅した。
レイナは立ち上がり、画面を覗き込む。
そこには、エイドロンの極秘回線から送られた短いメッセージ。
【新規位相異常の発生を確認】座標転送中――
マナは小さく息を呑む。
「……終わりじゃないってことか」
「終わらせるのは、まだ先みたいだね」
二人は無言で視線を交わす。
その奥底には、失ったものの痛みと、まだ続く戦いへの覚悟が、確かに宿っていた。




