第31話
――エイドロン本部襲撃から、わずか十日。
外壁修復用の足場はまだ取り払われず、破壊された収容棟の一部は仮設パネルで覆われたままだ。
負傷者は医療棟に横たわり、戦力の三割は復帰不能。そんな不安定な状況で、兆候は訪れた。
最初に空が割れた。
雲の流れが逆巻き、太陽の輪郭がゆらぎ、青空の一部が墨のように黒く染まる。都市上空に光と影のねじれが幾筋も立ち上がり、やがて裂け目となって空を切り裂いた。その向こうには、血のような月と、波打つ異界の海岸線が見える。
港区では高層ビルのガラスが低い音で震え、海岸線では潮が逆流し、停泊していた船が陸へと押し上げられた。
現実が、別の層と干渉している。
エイドロン本部地下、隔離収容区。
強化ガラスの向こうで、イチカは膝を抱えていた。壁面の封印符が一枚、熱にあぶられたように変色し、微かに煙を上げる。閉ざされた空間の中で、彼女の心臓が異常な速さで脈打ち、視界の端が歪み始めていた。
隣接区画では、マナツが無言で天井を見つめていた。仮設照明の白い光が、彼女の瞳の奥で異界色に屈折する。「……来る」と短く呟いた瞬間、監視端末が一斉に警告音を鳴らす。
同じ頃、医療棟の個室ではマナが、鎮静剤を打たれた腕を押さえながら息をつく。抑え込まれていたはずの異界の脈動が、皮膚の下で息を吹き返すのを感じた。
遠く離れた廃礼拝堂では、アリスが祭壇に両手を置き、古の祈りを紡いでいた。蝋燭の炎が逆流し、壁の聖画が笑ったように見える。
司令フロアでは、赤色警報がけたたましく鳴り響く。
壁一面のモニターには世界各地の裂け目が並び、復旧途上の機器は火花を散らし、通信士たちは怒鳴り声で回線を繋ぎ直している。
教授は静かに一瞥し、迷いなく命令を下した。
『全防衛班、異界干渉域半径三キロ圏を封鎖。ナユタとアサギを第二収容区へ、レイナは私と中央管制室へ。……”アレーティアシナリオ”最終段階を起動します』
十日前の襲撃ですら死者を出した。今回は、世界そのものが崩れかけている。
ナユタは無言で鎌を担ぎ、レイナは教授の横顔を一瞥し、低く問うた。
「……あれを、本当に使うんですか」
教授は答えず、モニターの中――異界の力に目覚めつつある四人の巫女を見据えていた。
第二収容区、隔離ブロックB。
非常灯が赤く点滅し、壁の封印符が一枚ずつ音を立てて剥がれ落ちていく。
監視室の職員が制御端末を叩きながら叫んだ。
「精神波、限界値突破!これは……共鳴反応だ!」
「補助封印起動――駄目だ、応答しない!」
イチカは床に手をつき、低く息を吐く。背骨に沿って黒い文様が浮かび上がり、皮膚の下で脈動している。
隔壁の強化ガラスが、内側から波紋のようにたわむ。
「……見える。あの海が」
彼女の瞳に、現実では存在しないはずの紅潮した波と、無数の影がうごめく水平線が映り込む。
隣の区画では、マナツが首を傾げて笑った。
「封じても無駄だって、言ったでしょう」
瞬間、床下の拘束配管が金切り声のような音を立て、結晶化した異界の蔓が吹き出す。それが封印機構を食い破り、警告灯が全系統で赤に変わる。
制御室に飛び込んだナユタは、即座に隔離用の鎌を抜き放った。
「これ以上は出すな!」
だが彼女がブロック扉に手をかけるより早く、隔壁が粉砕され、冷気のような異界の風が吹き抜ける。
その向こうから、覚醒した二人の巫女の視線が、現世の全員を突き刺した。
――エイドロン本部・地下第零階層。
かつて一度も開かれたことのない防護扉が、重い金属音を響かせて左右に割れた。
冷却蒸気が床を這い、白い靄の向こうから姿を現すのは、厚く封印された記録庫。
壁一面に並ぶ円筒形の情報カプセル、そして中央には異様に存在感を放つ黒塗りのデータポッド。
教授は遠隔で認証キーを入力する。
『……起動。アレーティア・シナリオ、最終開示。』
無機質な声が記録庫内に響き、ポッドの外殻が分解され、無数の光子データが空中に浮かび上がった。
それらは映像でも文章でもなく、直接脳に焼き付くような形式で、立ち会った者の認識を侵食する。
レイナは感情の色を見せず、冷徹な瞳で情報の流れを追っていた。
そこに描かれていたのは――
未来から送られた、複数の分岐世界のシミュレーション。
時系列は不明。だが共通するのは、「異界の巫女」4名――マナ、アリス、イチカ、マナツ――が覚醒し、互いに激突するという一点だった。
海が割れ、空が崩れ、都市が異界化していく光景。
そしてどの分岐でも、戦いの結末は世界そのものの位相を揺らぎに巻き込んでいく。
教授は無感情に読み上げる。
『全ての未来予測において、唯一世界の安定が得られる条件……それは、マナが異常性を失い、人間として存続すること』
レイナが僅かに息を呑む。
「……じゃあ、他の巫女は?」
『存在を維持できないか、異界へ還るしかない』
冷酷な結論が、記録庫にいるレイナの胸に突き刺さった。
未来予測は慈悲を持たない。
その安定条件を満たすための犠牲は、誰であろうと等しく「必要経費」として扱われる。
さらに解析は続く。
『……そして、この世界線における我々の任務は、4名の巫女をこの地に集結させること』
教授の声に、レイナの握る手がわずかに強張った。
つまり、これまでの巫女の保護、収容、そして時に解放してきた全ての行動は――偶然ではなく、シナリオ通りの布石だったということだ。
『未来は観測するだけでは変わらない。誘導しなければ』
教授の唇がわずかに歪む。
記録庫の光が明滅し、最後の行が浮かび上がる。
――この選択は、世界を救うが、君を救わない。
沈黙が落ちた。
遠くで警報が鳴り、地上の「重なりの地」から新たな異界化の波が押し寄せてくる。
未来はもう、止まらない流れに乗って動き始めていた。
***
――空と地が、ひとつの世界として成り立つことを拒んでいた。
黒と金の雲が渦を巻き、都市のビル群が異界の尖塔に変わり、また崩れ、また築かれる。
足元はアスファルトと黒曜石がまだらに入り混じり、踏み込むたびに感触が変わる。ここは現世と異界がせめぎ合い、互いを侵食し合う**「重なりの地」**。
その中心で、四つの気配が衝突した。光と影が爆ぜ、空気が裂け、時間の流れさえ揺らいでいる。言葉は交わされない。かわりに、力と意思が直接、空間を通して叩きつけられる。
地を割る衝撃波と共に紅い刃が雨のように降り、受け止めた腕が白い光に溶け、影の槍が即座にその光を貫く。誰かが笑い、誰かが苦鳴を漏らし、その声はすぐさま異界のざわめきに飲み込まれた。
輪郭は崩れ、誰が人で誰が神なのか、判別がつかなくなる。
ただ、動きだけが鮮烈だった――血が鎖となって絡みつき、影が牙を剥いて喰らいつき、光が空間の裂け目を縫い合わせ、そして再び破り捨てる。
一瞬、全てが静止したかと思えば、次の瞬間には世界がひっくり返ったように色を変え、重力の向きが狂い、戦場は天と地を何度も交換する。異形たちは這い出るそばから崩れ、崩れた残骸すら新たな怪物へと再構築される。
そのすべてが、四人の戦いの副産物にすぎなかった。
――遠く離れた観測室で、モニターに映る光景を見ていた者は息を呑んだ。
これはもはや予兆ではなく、決定の瞬間だ。
重なりの地に、鋭い金属音と光の裂け目が走った。
レイナが空間そのものを引き裂くように両腕を振り抜いた。光と影のきらめきが縦横無尽に走り、異界化した壁や地面が崩れ落ち、
現世の構造が一時的に露わになる。開いた突破口を通って、エイドロンの重装兵装が次々と前線に流れ込む。
遠く離れた制御室で、教授は冷静にコンソールを遠隔で操作する。
位相操作装置が深い脈動音を発し、戦場全体に目に見えない波紋が広がる。それは巫女たちの力の流れを絡め取り、揺らぎを一定の方向へと押し流す仕掛けだった。
『……全位相をリンク、マナを安定域に誘導。他は計画通りに――』
その声は冷たく、そして迷いがなかった。
異界の咆哮も、戦場の光景も、すべては一つの未来に収束するための過程に過ぎなかった。
マナとアリスがぶつかり合った瞬間、空間は悲鳴のような音を上げて裂けた。
赤と蒼――二つの色が、境界のない渦となって天と地を繋ぎ、現実と異界の輪郭を引き裂く。
マナの血が宙へと解き放たれ、鎖のようにうねってアリスの身体を絡め取ろうとする。
しかしアリスは、背後に広がる古代神の影を引き寄せ、その腕で血鎖を粉砕した。
「異界は呼んでいる、マナ。あなたも気づいているはずでしょう?」
アリスの声は人の声でありながら、何重もの共鳴音を帯びて響く。
マナは歯を食いしばり、足元の大地を蹴ると同時に自らの血を刃と化す。
その一閃は、時間の流れを断ち切るかのように、アリスの目前で世界を静止させた。
だがアリスはその静止世界の内側から動き、指先で虚空を裂いた。
亀裂から溢れ出す闇の触手が、マナの足元を掴み上げ、地平線まで引きずり込もうとする。
反撃のためにマナが力を解き放つと、背後で裂けた空から巨大な月が現れ、その光が血を紅蓮に染め上げる。
衝突するたびに、「重なりの地」の地形が書き換わり、塔が海へと変じ、海が瞬く間に焦土へと変貌する。
――その混沌の渦中に、イチカが飛び込んだ。
彼女は光と影の揺らぎを纏い、アリスの進路を遮る。
「アリス、もうやめて……!」
だがその姿は徐々に透け、まるで存在そのものが薄紙のように剥がれ落ちていく。
反対側からはマナツが現れ、マナに刃を向ける。
「あなたは私。だから……ここで終わらせる」
反対側から、足音が静かに響いた。
異界の揺らぎを縫うようにして、マナツが現れる。彼女の手には白刃が握られ、その切先は迷いなくマナへと向けられていた。
「……あなたは私」
その声はかすかに震えていたが、目だけは鋭く光っている。
「だから、ここで……終わらせる。あなたが人に戻るなら、私は……いらない」
マナは一瞬だけ目を細め、刃を振り下ろそうとするマナツの腕を受け止める。鋼の擦れる音が耳を裂き、二人の距離は息が触れ合うほどに近い。
「……お前は、私じゃない」
「違う……? でも、私は同じ記憶を持ってる。あなたが泣いた夜も、怒った朝も……全部、私のものだ」
「そうだな。けど、それは“私”じゃない。お前はお前で……私がなれなかった自由だ」
マナツの呼吸が荒くなる。
「……自由? 私は鎖だよ。あなたが異常であるために生まれた影。消えるためにある存在だ」
「違う。お前がいるから、私はここまで来れた。お前が背負ってくれたから、私はまだ人でいられる」
マナツの手が震え、刃が少しずつ下がっていく。
「……でも、私が残れば……あなたは普通になれない」
「なら、私が選ぶ。お前を否定するんじゃなく……解き放つ」
マナはゆっくりと手を離し、まっすぐに彼女を見据えた。
「お前は私じゃない。――自由になれ」
その言葉は、鋭さよりも温かさを持ってマナツの胸に突き刺さる。
瞳の奥に宿っていた戦意は、まるで霧が晴れるように消え失せ、彼女は刃を取り落とした。
「……自由……。私に、そんな未来が……?」
「あるさ。ここで終わる必要なんてない。お前は“生きていい”」
マナツの目から涙が零れる。震える足取りで、一歩、また一歩と後退する。
その姿は、憎しみを失い、初めて自分の存在を受け入れようとする少女のようだった。
残ったのは、マナとアリス――そして崩れゆく境界世界。
両者は最後の力を解き放ち、異界色の光と血の閃光が交差する瞬間、
地の底からエイドロンの装置が重低音を響かせながら起動した。
マナの刃がアリスを貫いた瞬間、世界は息を呑むように静まり返った。
赤と蒼の奔流が弾け、視界が純白に染まる。その中心で、アリスはかすかな笑みを浮かべた。
「……これが……あなたの未来…か」
その声は、もはや神格の響きを失い、ひどく人間的で、弱々しかった。
足元の大地が、ゆっくりと、しかし確実に崩れ落ちていく。
境界の裂け目から溢れ出していた闇も光も、引き潮のように遠ざかり、
すべての異界は、目に見えない海の底へと帰っていく。
その収束の波がアリスを包み込み、粒子のように分解していった。
マナは手を伸ばす――だが、その指先が触れる前に、彼女は形を失い、風と光の中へ消えていった。
「……イチカ!」
振り向いた先で、イチカが何かを言いかける。
けれど言葉は音になる前に霧散し、代わりに柔らかな光がマナの胸を温めた。
その笑顔は――もう二度と見られないものだった。
マナツもまた、自分の手を透かすように見つめていた。
光に溶けていく指先、頬を流れる涙。
けれど最後に向けられた眼差しには、恐怖も未練もなく、ただ静かな安堵だけがあった。
それは、マナが「自由になれ」と告げた時の言葉が届いた証だった。
やがて、光は三人をすっかりさらっていった。
戦場には、マナひとりだけが残された。
そのとき、胸の奥で何かが音を立ててほどける。
血の異常性が抜け落ち、全身を覆っていた冷たさが消える。
そして――心臓が脈打つ。
それは、人間としての、生きている証の鼓動だった。
安堵が胸を満たす。だが同時に、膝が折れるほどの喪失感が押し寄せる。
彼女たちはもういない。異界は閉じ、手を伸ばしても、何も触れられない。
それでも――彼女たちが消えてまで託した、この世界のために。
空は静かに晴れ渡り、崩壊しかけた都市も、裂けた海も、すべてが元通りに戻っていく。
遠隔管制室で教授の声が響く。
『……アレーティアシナリオ、完了。位相、安定』
マナはその言葉を遠くに聞きながら、ただ目を閉じた。
頬を撫でる風は冷たく、そして――あまりにも優しかった。




