表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35/82

第31話

――エイドロン本部襲撃から、わずか十日。

外壁修復用の足場はまだ取り払われず、破壊された収容棟の一部は仮設パネルで覆われたままだ。

負傷者は医療棟に横たわり、戦力の三割は復帰不能。そんな不安定な状況で、兆候は訪れた。


最初に空が割れた。

雲の流れが逆巻き、太陽の輪郭がゆらぎ、青空の一部が墨のように黒く染まる。都市上空に光と影のねじれが幾筋も立ち上がり、やがて裂け目となって空を切り裂いた。その向こうには、血のような月と、波打つ異界の海岸線が見える。


港区では高層ビルのガラスが低い音で震え、海岸線では潮が逆流し、停泊していた船が陸へと押し上げられた。

現実が、別の層と干渉している。


エイドロン本部地下、隔離収容区。

強化ガラスの向こうで、イチカは膝を抱えていた。壁面の封印符が一枚、熱にあぶられたように変色し、微かに煙を上げる。閉ざされた空間の中で、彼女の心臓が異常な速さで脈打ち、視界の端が歪み始めていた。

隣接区画では、マナツが無言で天井を見つめていた。仮設照明の白い光が、彼女の瞳の奥で異界色に屈折する。「……来る」と短く呟いた瞬間、監視端末が一斉に警告音を鳴らす。


同じ頃、医療棟の個室ではマナが、鎮静剤を打たれた腕を押さえながら息をつく。抑え込まれていたはずの異界の脈動が、皮膚の下で息を吹き返すのを感じた。

遠く離れた廃礼拝堂では、アリスが祭壇に両手を置き、古の祈りを紡いでいた。蝋燭の炎が逆流し、壁の聖画が笑ったように見える。


司令フロアでは、赤色警報がけたたましく鳴り響く。

壁一面のモニターには世界各地の裂け目が並び、復旧途上の機器は火花を散らし、通信士たちは怒鳴り声で回線を繋ぎ直している。

教授は静かに一瞥し、迷いなく命令を下した。


『全防衛班、異界干渉域半径三キロ圏を封鎖。ナユタとアサギを第二収容区へ、レイナは私と中央管制室へ。……”アレーティアシナリオ”最終段階を起動します』


十日前の襲撃ですら死者を出した。今回は、世界そのものが崩れかけている。

ナユタは無言で鎌を担ぎ、レイナは教授の横顔を一瞥し、低く問うた。

「……あれを、本当に使うんですか」

教授は答えず、モニターの中――異界の力に目覚めつつある四人の巫女を見据えていた。


第二収容区、隔離ブロックB。

非常灯が赤く点滅し、壁の封印符が一枚ずつ音を立てて剥がれ落ちていく。

監視室の職員が制御端末を叩きながら叫んだ。

「精神波、限界値突破!これは……共鳴反応だ!」

「補助封印起動――駄目だ、応答しない!」


イチカは床に手をつき、低く息を吐く。背骨に沿って黒い文様が浮かび上がり、皮膚の下で脈動している。

隔壁の強化ガラスが、内側から波紋のようにたわむ。

「……見える。あの海が」

彼女の瞳に、現実では存在しないはずの紅潮した波と、無数の影がうごめく水平線が映り込む。


隣の区画では、マナツが首を傾げて笑った。

「封じても無駄だって、言ったでしょう」

瞬間、床下の拘束配管が金切り声のような音を立て、結晶化した異界の蔓が吹き出す。それが封印機構を食い破り、警告灯が全系統で赤に変わる。


制御室に飛び込んだナユタは、即座に隔離用の鎌を抜き放った。

「これ以上は出すな!」

だが彼女がブロック扉に手をかけるより早く、隔壁が粉砕され、冷気のような異界の風が吹き抜ける。

その向こうから、覚醒した二人の巫女の視線が、現世の全員を突き刺した。



――エイドロン本部・地下第零階層。

かつて一度も開かれたことのない防護扉が、重い金属音を響かせて左右に割れた。

冷却蒸気が床を這い、白い靄の向こうから姿を現すのは、厚く封印された記録庫。

壁一面に並ぶ円筒形の情報カプセル、そして中央には異様に存在感を放つ黒塗りのデータポッド。


教授は遠隔で認証キーを入力する。

『……起動。アレーティア・シナリオ、最終開示。』

無機質な声が記録庫内に響き、ポッドの外殻が分解され、無数の光子データが空中に浮かび上がった。

それらは映像でも文章でもなく、直接脳に焼き付くような形式で、立ち会った者の認識を侵食する。


レイナは感情の色を見せず、冷徹な瞳で情報の流れを追っていた。


そこに描かれていたのは――

未来から送られた、複数の分岐世界のシミュレーション。

時系列は不明。だが共通するのは、「異界の巫女」4名――マナ、アリス、イチカ、マナツ――が覚醒し、互いに激突するという一点だった。

海が割れ、空が崩れ、都市が異界化していく光景。

そしてどの分岐でも、戦いの結末は世界そのものの位相を揺らぎに巻き込んでいく。


教授は無感情に読み上げる。

『全ての未来予測において、唯一世界の安定が得られる条件……それは、マナが異常性を失い、人間として存続すること』


レイナが僅かに息を呑む。

「……じゃあ、他の巫女は?」


『存在を維持できないか、異界へ還るしかない』


冷酷な結論が、記録庫にいるレイナの胸に突き刺さった。

未来予測は慈悲を持たない。

その安定条件を満たすための犠牲は、誰であろうと等しく「必要経費」として扱われる。


さらに解析は続く。

『……そして、この世界線における我々の任務は、4名の巫女をこの地に集結させること』

教授の声に、レイナの握る手がわずかに強張った。

つまり、これまでの巫女の保護、収容、そして時に解放してきた全ての行動は――偶然ではなく、シナリオ通りの布石だったということだ。


『未来は観測するだけでは変わらない。誘導しなければ』

教授の唇がわずかに歪む。

記録庫の光が明滅し、最後の行が浮かび上がる。


――この選択は、世界を救うが、君を救わない。


沈黙が落ちた。

遠くで警報が鳴り、地上の「重なりの地」から新たな異界化の波が押し寄せてくる。

未来はもう、止まらない流れに乗って動き始めていた。



***



――空と地が、ひとつの世界として成り立つことを拒んでいた。


黒と金の雲が渦を巻き、都市のビル群が異界の尖塔に変わり、また崩れ、また築かれる。

足元はアスファルトと黒曜石がまだらに入り混じり、踏み込むたびに感触が変わる。ここは現世と異界がせめぎ合い、互いを侵食し合う**「重なりの地」**。


その中心で、四つの気配が衝突した。光と影が爆ぜ、空気が裂け、時間の流れさえ揺らいでいる。言葉は交わされない。かわりに、力と意思が直接、空間を通して叩きつけられる。


地を割る衝撃波と共に紅い刃が雨のように降り、受け止めた腕が白い光に溶け、影の槍が即座にその光を貫く。誰かが笑い、誰かが苦鳴を漏らし、その声はすぐさま異界のざわめきに飲み込まれた。


輪郭は崩れ、誰が人で誰が神なのか、判別がつかなくなる。

ただ、動きだけが鮮烈だった――血が鎖となって絡みつき、影が牙を剥いて喰らいつき、光が空間の裂け目を縫い合わせ、そして再び破り捨てる。


一瞬、全てが静止したかと思えば、次の瞬間には世界がひっくり返ったように色を変え、重力の向きが狂い、戦場は天と地を何度も交換する。異形たちは這い出るそばから崩れ、崩れた残骸すら新たな怪物へと再構築される。


そのすべてが、四人の戦いの副産物にすぎなかった。


――遠く離れた観測室で、モニターに映る光景を見ていた者は息を呑んだ。

これはもはや予兆ではなく、決定の瞬間だ。


重なりの地に、鋭い金属音と光の裂け目が走った。

レイナが空間そのものを引き裂くように両腕を振り抜いた。光と影のきらめきが縦横無尽に走り、異界化した壁や地面が崩れ落ち、

現世の構造が一時的に露わになる。開いた突破口を通って、エイドロンの重装兵装が次々と前線に流れ込む。


遠く離れた制御室で、教授は冷静にコンソールを遠隔で操作する。

位相操作装置が深い脈動音を発し、戦場全体に目に見えない波紋が広がる。それは巫女たちの力の流れを絡め取り、揺らぎを一定の方向へと押し流す仕掛けだった。


『……全位相をリンク、マナを安定域に誘導。他は計画通りに――』


その声は冷たく、そして迷いがなかった。

異界の咆哮も、戦場の光景も、すべては一つの未来に収束するための過程に過ぎなかった。




マナとアリスがぶつかり合った瞬間、空間は悲鳴のような音を上げて裂けた。

赤と蒼――二つの色が、境界のない渦となって天と地を繋ぎ、現実と異界の輪郭を引き裂く。

マナの血が宙へと解き放たれ、鎖のようにうねってアリスの身体を絡め取ろうとする。

しかしアリスは、背後に広がる古代神の影を引き寄せ、その腕で血鎖を粉砕した。


「異界は呼んでいる、マナ。あなたも気づいているはずでしょう?」

アリスの声は人の声でありながら、何重もの共鳴音を帯びて響く。

マナは歯を食いしばり、足元の大地を蹴ると同時に自らの血を刃と化す。

その一閃は、時間の流れを断ち切るかのように、アリスの目前で世界を静止させた。


だがアリスはその静止世界の内側から動き、指先で虚空を裂いた。

亀裂から溢れ出す闇の触手が、マナの足元を掴み上げ、地平線まで引きずり込もうとする。

反撃のためにマナが力を解き放つと、背後で裂けた空から巨大な月が現れ、その光が血を紅蓮に染め上げる。

衝突するたびに、「重なりの地」の地形が書き換わり、塔が海へと変じ、海が瞬く間に焦土へと変貌する。


――その混沌の渦中に、イチカが飛び込んだ。

彼女は光と影の揺らぎを纏い、アリスの進路を遮る。

「アリス、もうやめて……!」

だがその姿は徐々に透け、まるで存在そのものが薄紙のように剥がれ落ちていく。


反対側からはマナツが現れ、マナに刃を向ける。

「あなたは私。だから……ここで終わらせる」


反対側から、足音が静かに響いた。

異界の揺らぎを縫うようにして、マナツが現れる。彼女の手には白刃が握られ、その切先は迷いなくマナへと向けられていた。


「……あなたは私」

その声はかすかに震えていたが、目だけは鋭く光っている。

「だから、ここで……終わらせる。あなたが人に戻るなら、私は……いらない」


マナは一瞬だけ目を細め、刃を振り下ろそうとするマナツの腕を受け止める。鋼の擦れる音が耳を裂き、二人の距離は息が触れ合うほどに近い。

「……お前は、私じゃない」


「違う……? でも、私は同じ記憶を持ってる。あなたが泣いた夜も、怒った朝も……全部、私のものだ」

「そうだな。けど、それは“私”じゃない。お前はお前で……私がなれなかった自由だ」


マナツの呼吸が荒くなる。

「……自由? 私は鎖だよ。あなたが異常であるために生まれた影。消えるためにある存在だ」

「違う。お前がいるから、私はここまで来れた。お前が背負ってくれたから、私はまだ人でいられる」


マナツの手が震え、刃が少しずつ下がっていく。

「……でも、私が残れば……あなたは普通になれない」

「なら、私が選ぶ。お前を否定するんじゃなく……解き放つ」


マナはゆっくりと手を離し、まっすぐに彼女を見据えた。

「お前は私じゃない。――自由になれ」


その言葉は、鋭さよりも温かさを持ってマナツの胸に突き刺さる。

瞳の奥に宿っていた戦意は、まるで霧が晴れるように消え失せ、彼女は刃を取り落とした。

「……自由……。私に、そんな未来が……?」


「あるさ。ここで終わる必要なんてない。お前は“生きていい”」


マナツの目から涙が零れる。震える足取りで、一歩、また一歩と後退する。

その姿は、憎しみを失い、初めて自分の存在を受け入れようとする少女のようだった。


残ったのは、マナとアリス――そして崩れゆく境界世界。

両者は最後の力を解き放ち、異界色の光と血の閃光が交差する瞬間、

地の底からエイドロンの装置が重低音を響かせながら起動した。


マナの刃がアリスを貫いた瞬間、世界は息を呑むように静まり返った。

赤と蒼の奔流が弾け、視界が純白に染まる。その中心で、アリスはかすかな笑みを浮かべた。


「……これが……あなたの未来…か」

その声は、もはや神格の響きを失い、ひどく人間的で、弱々しかった。


足元の大地が、ゆっくりと、しかし確実に崩れ落ちていく。

境界の裂け目から溢れ出していた闇も光も、引き潮のように遠ざかり、

すべての異界は、目に見えない海の底へと帰っていく。


その収束の波がアリスを包み込み、粒子のように分解していった。

マナは手を伸ばす――だが、その指先が触れる前に、彼女は形を失い、風と光の中へ消えていった。


「……イチカ!」

振り向いた先で、イチカが何かを言いかける。

けれど言葉は音になる前に霧散し、代わりに柔らかな光がマナの胸を温めた。

その笑顔は――もう二度と見られないものだった。


マナツもまた、自分の手を透かすように見つめていた。

光に溶けていく指先、頬を流れる涙。

けれど最後に向けられた眼差しには、恐怖も未練もなく、ただ静かな安堵だけがあった。

それは、マナが「自由になれ」と告げた時の言葉が届いた証だった。


やがて、光は三人をすっかりさらっていった。

戦場には、マナひとりだけが残された。


そのとき、胸の奥で何かが音を立ててほどける。

血の異常性が抜け落ち、全身を覆っていた冷たさが消える。

そして――心臓が脈打つ。

それは、人間としての、生きている証の鼓動だった。


安堵が胸を満たす。だが同時に、膝が折れるほどの喪失感が押し寄せる。

彼女たちはもういない。異界は閉じ、手を伸ばしても、何も触れられない。

それでも――彼女たちが消えてまで託した、この世界のために。


空は静かに晴れ渡り、崩壊しかけた都市も、裂けた海も、すべてが元通りに戻っていく。

遠隔管制室で教授の声が響く。

『……アレーティアシナリオ、完了。位相、安定』


マナはその言葉を遠くに聞きながら、ただ目を閉じた。

頬を撫でる風は冷たく、そして――あまりにも優しかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ