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第27話

鼓動が合わさる。

“それ”の拍動と、自身の心臓の鼓動が同期した。

視界がねじれるように歪み、色彩が反転する。

気づけば、マナは立っていなかった。見下ろしていた。


「……なに、これ……高い……?」


視界は木々の上から。

枝の群れを掻き分けるように、ぬるりと体をくねらせて進む。

脚はない。巨大な蛇のようでもあり、四肢のある獣のようでもある。


“捕食者”の視界。


レイナが見えた。祭壇の近く、短剣を構えている。

背を向けていて。小さい。脆い。

今すぐにでも──喰える。


「……ああ……」


喉が鳴る。

理性が抗っているのに、身体の奥で熱が立ち上る。

咽喉が焼けるように乾き、全身の筋肉がうずいた。


逃げる姿を、追いたい。

潰れる音が、聞きたい。

叫びが、欲しい。


「……っ!違う……これは、違う……!」


マナは膝をついた。視界がまた反転し、正気に引き戻される――が、鼓動はまだ同期している。

脳裏にこびりついた捕食の快楽が、理性を蝕むように響いていた。


「マナ! どうしたの、聞こえる!?」

レイナの声が遠くで響く。気付いた彼女が駆け寄ってくる。


──やめて。来ないで。

今の私は、あなたを“獲物”として見てしまう。


マナは必死に首を振る。呼吸が乱れ、手が震える。

その目がわずかに緑色に光ったのを、レイナは見逃さなかった。


「……本体と、リンクしたのね」

レイナが小さく呟く。


「大丈夫。私が止める」


彼女はゆっくりと、腰のスリングから銀の注射器を取り出す。中にはB-タブレットの濃縮液。

幻覚遮断用のショック投与薬。


「マナ、我慢して。目を閉じて」


「……あ……レイナ……?」


マナの瞳がぎらつく。

わずかに膝を曲げたその姿は、獣のようだった。


レイナは躊躇わずに踏み込み、マナの腕をとって打ち込んだ。


「ッ……!」


数秒後、マナがようやく崩れ落ちるように地面に座り込む。

呼吸が落ち着くまで、数分かかった。


祭壇の上の“心臓”は、再び淡い緑を吐息のように吹き出し、静かに脈を打ち続けていた。


「マナ、離れてッ!!」


レイナの声は鋭く、空気を裂いた。しかし、マナの動きは止まらない。焦点の合わない瞳の奥に理性はなく、霧の中をふらふらとレイナへと歩み寄る。

その姿は、まるで何か別の存在に操られているかのようだった。


「……まずい。完全に引き込まれてる……!」


レイナは腰のホルスターに手を伸ばしながら、瞬時に状況を分析する。


そのとき――


ズズ……ッ


レイナの足元、土の中から黒い影の腕が伸び出た。

靴の裏をするりと滑り、次の瞬間には脛を絡め取るようにがっちりと掴んでいた。


「ッ……!」


冷たい触感。だがそれ以上に、**異常なまでの“生々しさ”**が脳を刺す。

幻覚ではない。――いや、幻覚“だけ”ではない。


「なるほど、心拍が上がるほど濃くなるって、そういうこと……!」


レイナは即座にポーチから閃光式フェーズディスチャージャーを取り出した。

音も光も“フェイク”――幻覚にしか作用しない、特異用途の“空砲”だ。


「目を覚ませ、あたし!!」


引きずられながらも、それを足元に投げ込む。


バシュッ!!


低い音と共に、空間が“ねじれる”。

瞬間、レイナの視界に走っていたノイズが晴れ、影の腕が弾かれるように消失する。


「──今よっ!」


レイナは体勢を立て直すと、すぐにマナへと駆け寄った。

マナは祭壇の前で、まだ幻覚に囚われている。手はぴくりと震え、唇から低い唸りが漏れる。


「マナ! 聞こえてる? あんた、今にもあたしを“食おうとしてた”んだからね!」


呼びかけても、反応はない。目が合っているはずなのに、焦点が合わない。

レイナは眉をひそめ、マナの肩を強く揺さぶった。


「……あたしは、レイナ。あんたが守ろうとしてる“誰か”じゃない。

本能に流されるな。目ぇ覚ませ!」


その声に、マナの指先がぴくりと動いた。


「――レ、イナ……?」


次の瞬間、緑光が脈動と共に爆ぜた。

まるで心臓が拒絶反応を起こしたかのように、マナの身体が後方へと弾かれる。


「ッ――!」


レイナが慌てて駆け寄ると、マナは地面に仰向けに倒れていた。

呼吸は荒く、だが瞳に宿る色は――先ほどとは違う。


「……はぁ……っ……なんか、すごい夢、見てた……あんたのこと、狙ってた……よね?」


「……うん。狙われてたわよ、バッチリね」


レイナは目を細めて言うが、声に怒気はない。

むしろ、その生気が戻った様子に内心では安堵していた。


「……本当に戻ってきたの?」


「まだふわふわするけど……“あの視界”は、もう消えた」


マナはそう言って、ゆっくりと上体を起こす。

レイナは彼女の額に手を当て、熱と脈を確認する。――まだ共鳴の余韻が残っているが、明らかに回復傾向だ。


「……まったく、心配かけさせるんだから」


そう呟いたレイナの背後で、また“脈”が響いた。


ドクン――ドクン……。


黒曜石のような心臓は、静かに、それでも確かに霧を揺らしていた。


「これ以上、誰かが触れたら同じことになる……。さっさと収容しなきゃ」


レイナはそう言って、通信機を手に取る。


「こちらレイナ。対象オブジェクトとの一次接触完了。共鳴の危険あり。即時収容処理を開始する。」




レイナは防護ケースのロックを解除しながら、祭壇へと歩を進めた。

霧はまだ濃いままだが、先ほどよりも微かに流れがある。心臓の鼓動も、さっきより少しだけ落ち着いているように感じられた。


「対象オブジェクト確認。表面は黒曜石、脈動あり。緑光、強度A。精神汚染の残留あり……」


レイナは短く呟きながら、腰の収容ユニットから遮光・耐衝撃仕様のカプセルを取り出す。

軍用ケースにも似たフォルムだが、内部は特殊なカーボン多層構造でできており、精神波遮断フィルターが施されている。


「マナ、まだ動けない?」


「……ちょっと休憩。あたし、今あんたのこと見ても食べたい気がしないし、たぶん大丈夫」


「……不気味な言い方やめて」


レイナは少し苦笑しながら、心臓の収容に取りかかった。

両手で慎重に持ち上げる。ズシリとした重さと共に、何か“生きている”気配が皮膚を通じて伝わってくる。脈動はまだ止まっていない。


「こいつ……まだ動いてる。けど、もうこっちからはアクセスされない」


祭壇ごと慎重に運び、ケース内に設置する。パネルを操作し、精神遮断シールを展開。


パシィン――という乾いた音と共に、カプセルが閉じられた。


その瞬間だった。


辺りを覆っていた霧が、まるで風に吹かれた布のように裂けていく。

空気の密度が一気に変わる。空間が正気を取り戻し、色が戻ってきたかのようだった。


「……消えた」


レイナが呟く。

“あれ”の放つ幻覚も、恐怖の影も、もうどこにもなかった。


マナはようやく身体を起こし、座った姿勢でカプセルを見つめていた。

瞳に残るのは――後悔にも似た、どこか苦いものだった。


「……レイナ」


「ん?」


マナは、ふっと微笑むような顔をしてから、目を伏せて言った。


「さっき、ほんとうに……あんたのこと、本気で殺そうとしてた。

あたしの中に、あんな“捕食したい”って欲があるなんて、知らなかった。

あれは“視界の共有”とかじゃない。――あたし自身の本能、だよ」


その声は、どこか静かだった。激情ではなく、感情が沈んでいくような言葉。

心から怖れていたのは、幻覚ではなく――自分の中にあった欲望だった。


「だから私がいる」


レイナは、即座にそう返した。まるで、あらかじめ用意していたかのように。


マナが顔を上げると、レイナはカプセルの上に立ち、片手を腰に当てていた。

その表情は変わらず冷静で――けれど、確かにどこかあたたかい。


「一人じゃ危うい。けど、二人なら何とかなる。

それが、“二人で収容する意味”でしょ」


マナは短く目を見開いたあと、ふっと笑った。

その笑みは、いつもよりずっと自然で、少しだけ――弱さを含んでいた。


「……助かったよ、レイナ」


「うん。ちゃんと帰るって約束してたしね」


霧の晴れた森を、ヘリのローター音が割った。

収容完了の信号を受けた回収班が、遠方から姿を現す。


レイナとマナは無言のまま立ち上がり、互いに目を合わせた。

小さな頷きだけで、言葉はもう要らなかった。



***



研究機構エイドロン地下、封印区画D-13。

金属とコンクリートで囲まれた静謐な空間の中央に、黒い収容カプセルが静かに据えられている。


周囲には誰もいない。

数名の技術職員が搬入を終えると、すぐに上階へと引き上げていった。


部屋の中に残ったのは、レイナただ一人。

静かに歩み寄り、足を止める。ガラス越しに見えるその中で、黒曜石の心臓は、なおも淡い緑光を刻んでいた。


――トクン、トクン。


音はしない。だが、視覚の奥で確かにそれは「脈打っている」と感じさせた。

死んでいない。だが、生きてもいない。

あの山間の霧と幻覚の中で、確かに誰かを喰らっていた存在。

その核が、今はただ無言で、箱の中に封じられている。


「動かないくせに……鼓動だけは止めないんだ」


レイナはそう小さく呟き、ポケットから携帯端末を取り出す。

任務レポートの最終確認画面を開き、最後の記述欄にカーソルを合わせた。


『【調査報告書 No.0421-JB/担当:レイナ】

概要:対象オブジェクト「ジャバウォックの心臓(Object:Jabberheart)」は、精神汚染を引き起こす幻覚作用を有する黒曜石状の心臓である。


村落全体に幻覚を展開し、視覚・触覚・本能に作用することで、対象に「捕食される恐怖」を刷り込む。最深部での共鳴により、当該幻覚が“狩る側”の視界へと転換される危険性を確認。


現在、D-13封印庫に収容済み。


備考:』


彼女は、しばらく指先を止めたまま、カプセルの奥を見つめる。

何も言わず、何も考えず――ただ、じっと。


やがて、静かに文字を打ち込んだ。


『このオブジェクトは動かない。

だが、心臓は夢の中でも鼓動を続けるかもしれない。』


「……記録、終了」


送信ボタンを押したとき、カプセルの中で、心臓が一度だけ、強く脈打った気がした。


だがレイナは、それを見ても眉一つ動かさなかった。


彼女は静かに背を向け、封印庫を後にする。


重厚な隔壁が閉まり、オブジェクトは闇の中に沈んだ。

今もなお、誰にも届かない場所で――夢の中の鼓動だけを続けながら。

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