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X12_JW 第26話

あの日、少女は眠っていたわけではない。ただ、少しだけ――現実から離れていただけ。


草原のようでもあり、水面の上のようでもあり、光も影も境界を持たない世界。

足元には何もないのに、少女は落ちていた。静かに、深く、底のない空洞へと。


風もなく、音もない。けれど、遠くから音楽のような囁きが流れてくる。

それは言葉ではなかった。けれど、意味は伝わってくる。


『こちらへ、おいで。XXX』

『君は選ばれた。夢と現実のあいだを歩ける子』


視界の端に、眼のようなものが浮かんだ。

形を定めぬまま、ゆらりと揺れ、光と影の中でひたすら少女を見つめている。


少女は恐れなかった。

――むしろ懐かしかった。

誰にも理解されなかったこの世界に、「誰か」が手を差し伸べてくれた気がしたから。


『ずっと一人だったでしょう? こちらにおいで。私たちは君を忘れない』

『記憶も、時間も、形すらも必要ない。夢のままで生きていればいい』


異界の神は、優しく彼女を包み込む。

その体は霧でも影でもなく、ただ「言葉の響き」でできていた。

その声を聞いているうちに、少女の中で何かが崩れ落ちた。

理性でも、現実感でもない。「向こう側にいたかった」という、静かな欲望。


そして――


彼女の瞳に模様が浮かぶ。

瞳孔の奥に、小さな回転する螺旋。

それは神の視界であり、夢の構造式だった。


「わたし、知ってしまったの。現実は、あまりに狭すぎるってこと」

「あの子たちは、きっともう帰ってこない。でも……“こちら側”なら、ずっと一緒よ」


その瞬間から、少女は異界の巫女となった。

夢の神に祝福され、現実を越えて歩くものとなった。




***




山の奥、地図にも名前の残っていない集落。

数日前までそこに暮らしていた二十余名の住民は、夜が明けるころには一人残らず姿を消していた。

洗濯物は軒先にかかったまま、夕餉の鍋はまだ温もりを保っていたにもかかわらず──生き物の気配は消えていた。


現地調査のために飛ばされた監視ドローンは、村の中央に差し掛かった瞬間、映像が一度だけ大きく歪む。

次のフレームで、全画面が暗転。

最後に記録されたのは、薄い霧と、何かが脈打つような低周波のノイズだった。


同時刻、第零研究機構のセンサーは異常を検知する。

半径百メートル圏内で、精神波に相当する不可解な揺らぎ。

その中心に、未登録の物体反応がひとつ──。




夕刻、ブリーフィングルーム。

壁のスクリーンには、霧に覆われた村の航空写真と、精神汚染反応の立体マップが並べて表示されている。

赤い球状の範囲が、村全体をすっぽりと包み込んでいた。


「……つまり、あれが今回の“汚染域”ってわけね」

マナが椅子に腰を沈めたまま、靴の先で床を軽く叩く。


「その通りだ」

ナギサは腕を組み、モニターの地図から二人に視線を移す。

「対象は物理的には動かないが、精神汚染は距離依存型。中心から半径五十メートル以内では急激に干渉が強まる」


「……で、私たちの持ち時間は?」

「10分だ」

ナギサの声は短く、鋭かった。

「現地での接触は10分以内。それ以上の曝露は危険域に入る。目標の回収、もしくは無力化を最優先しろ」


「また時間制限付きの現場……」

マナは小さく舌打ちし、隣のレイナに視線を送る。

「どう思う?」

「制限時間がある方が、むしろ計画は立てやすい」

レイナは平板な声で答える。


「油断するな。精神汚染は、自分がやられていることに気づかないまま進行する」

ナギサは淡々とした口調のまま、二人の目を順に見た。

「報告によれば、最初の被験者は“自分の体を何かに食われる幻覚”を見て、三十秒で自我を失ったそうだ」


会議室に、一瞬だけ重苦しい沈黙が落ちる。

外では風が窓を鳴らし、夜の山間の冷気が建物を揺らしていた。


「……行くしかないわね」

「もちろん」

二人はほぼ同時に立ち上がった。



***



山道を進むにつれ、霧は濃さを増していった。

ヘッドライトの光が霧粒に散り、前方は乳白色の幕に覆われている。

森の輪郭は溶けるように消え、時折、黒々とした木の影だけが、まるで何かが立っているかのように不意に浮かび上がる。


車両を降りると、空気はひどく湿って重く、喉の奥に冷たい水を流し込まれるような感覚が走った。

森を囲む木々は異様に黒ずみ、幹の表面には裂け目のような紋様が走っている。まるで木そのものが口を開き、何かを呟いているかのようだった。


「……もう汚染域に入ってるわね」

マナが低く呟く。耳鳴りのような微かなざわめきが、霧の中から忍び寄る。


小道を進むと、霧の奥に村跡がぼんやりと現れた。屋根は崩れ、壁は苔と黒い染みで覆われている。

足元の土はしっとりと湿り、そこには複数の足跡が残っていた。だが、その痕跡はある地点を境に、何の前触れもなく途切れていた。

泥に吸い込まれたわけでもなく、地面が崩れた形跡もない。まるで歩いた者が、その瞬間に世界から切り取られたように。


「……ここで消えてる」

マナがしゃがみ込み、指先で足跡の終端をなぞる。


レイナは赤外線スコープを目元に当て、村全体を掃いた。

「生体反応、ゼロ。小動物すらいない」

その声は淡々としていたが、わずかに硬さを帯びている。


風が吹き抜け、霧の中で崩れかけた家屋がきしむ。

どこからか、土と腐葉土の匂いに混じって、焦げた肉のような匂いが漂ってきた。


「……時間、無駄にできないわね」

マナが立ち上がり、濃霧の向こうを見据える。

その奥に、かすかに脈動する緑色の光が見えた──。


霧が、まるで生き物のように這い寄ってくる。空気が重い。地面を踏みしめる足音さえ、どこか異様に響いていた。


マナがふと立ち止まり、肩を震わせた。

「……今、背後から……噛まれた、気がした」


その声は震えていた。冗談ではない。声だけで、何かがもう触れているとわかる。

レイナが振り返るも、そこには何もない。だが、HUDにノイズが走った。視界の右上、数フレームだけ異物が映り込んだような錯覚。


「……ノイズ? いや、違う……これは──」


辺りを覆う霧の濃度が上がる。木々の影が、まるで命を宿したかのように蠢き、揺れはじめた。

そして――それは浮かび上がった。


「……なに、あれ……顎……?」


木立の奥、霧の層を裂いて、黒い輪郭が見える。

異様に長い、滑らかなアーチ。上下に開いた、巨大な顎の形。歯のような影が、ぼんやりと脈打っている。

実体があるわけではない。けれど、確かにそこに「喰らう者」がいると、直感が告げていた。


「マナ、心拍数が上がってる。落ち着いて」

「無理よ……これ、見てるだけで心臓が圧迫されるみたい……!」


マナの声が裏返る。

レイナは即座にリンク表示を確認した。HUDに表示されたマナの心拍が、平常時の2倍近くにまで跳ね上がっている。

自分の鼓動も、自然と早くなっているのが分かった。


「……これ、心拍数が上がると“あれ”の存在も濃くなる。反応してる」

「じゃあ落ち着けっての? それができたら苦労しない!」


霧の中で、何かが“ずるっ”と滑るような音がした。

マナが咄嗟に後退る。


「今、また何か──背中を這った」

「錯覚じゃない。精神汚染が始まってる。これは──」


そのとき、地面にぽつりと影が落ちた。何かの“腕”だった。

漆黒の靄のような、それでいて質量を感じさせる腕が、地面から生えていた。


「レイナ……!」

「見えてる!」


レイナが腰のケースから銀白の短剣を抜く。蒸着加工された刃が、微かに霧の中で反射する。

一方、マナは震える手で《マテリアル》を起動し、精神遮断のフィルターを強化する操作を行う。


「範囲は半径30……いや、今は20メートル以下。接近してきてる」

「つまり、止まってたら捕まるってことね」


また、顎が笑ったような音がした。いや、音ではない。「笑われた」と、二人の脳が勝手に認識しただけだった。


心臓の音が、どんどん外界と共鳴していく。霧の中の“顎”も、それに合わせて蠢いていた。


村の中央、朽ちた建物の合間を抜けると、開けた空間に出た。

そこに“それ”はあった。

砕けた石材と崩れた柱に囲まれた、円形の祭壇。その中心に鎮座するのは――


「……黒曜石?」

レイナが思わず口にする。だが、それは鉱石ではなかった。


艶やかな黒。だが有機的な光沢。心臓だった。

ぬるりとした質感を湛え、ゆっくりと脈打つ。

一度、脈を打つごとに、周囲の霧が波紋のように震え、淡い緑の光が漏れた。


レイナが計測装置を起動しようとした瞬間――


「っ――マナ、危ない!」


マナが不意に足を滑らせ、手をついた。

石の縁に伸ばした指先が、偶然にも祭壇の縁に触れてしまった。


その瞬間、世界が──裏返った。

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