第25話
重厚な防音扉が閉まると、研究棟の空気は一気に冷え込む。
壁一面のモニターと強化ガラス越しの隔離ルーム、その中央に鉛封鎖ケースが置かれていた。
ケースを覆う鋼の枠には多重の封印と警告表示。
「赤眠冠」――、異界誘導型オブジェクトとして分類される。
「……解析班、準備は?」
レイナが腕を組む。
「問題ありません。対象は完全封鎖下、外部への波及反応なし」
白衣の研究員が淡々と答える。
その声が冷たく響くたびに、マナの心臓がわずかに脈打った。
「本当に、大丈夫なの……?」
マナは思わずつぶやいた。
心の奥底で、まだあの囁きが残響している。
――眠れ、眠れ、深く落ちよ……
「マナ、君は隔離ルームには入らないこと。夢との同調が残ってる」
別室からナギサの声が飛ぶ。
「わかってる……でも、感じるのよ。まだ呼ばれてる……」
その瞬間だった。
強化ガラスの向こう、封鎖ケースの表面に「ひび割れ」のような影が走った。
鋼もガラスも無傷のはずなのに、亀裂のような黒が滲む。
「異常反応、発生!夢界の位相が一時的に重なっている!」
解析班が慌てて操作盤に飛びつく。
マナの意識に、突然、闇が差し込んだ。
視界の端が赤く染まり、研究棟の壁が溶けるように歪む。
気がつけば、あの夢の砂の大地――ただし、現実と半分重なった不安定な世界。
巨大な影が立ち上がる。
冠を戴いたものが、今度ははっきりとマナに手を伸ばしてきた。
来い……巫女よ……ここはもう、君の居場所だ……
「……っ、やめろ!」
マナは本能的に叫ぶ。
指先が熱を帯び、紅く染まった視界で、影の腕を切り裂く。
だが、切ったはずの腕は砂となって散り、次の瞬間また伸びてくる。
「マナ、戻れ!」
遠くで、レイナの声。
視界に、現実と夢の重なった研究室がぼんやり見える。
その中で、レイナがガラス越しにB-タブレットをかざしていた。
「マナ!これを思い出して!」
錠剤の黒い光が、現実の引力となる。
マナはその光に意識を引き戻され、重く息を吐いた。
「……はぁっ、はぁ……今の、なに……」
マナは額の汗をぬぐいながら床に崩れ落ちる。
「夢界との干渉が強すぎる……」
研究員が青ざめた顔でモニターを睨む。
「赤眠冠は、保持者の潜在意識を通じて異界と現実を接続しようとする……いまのは、その“橋”だ」
レイナが無言でマナの肩を支える。
「マナ、しばらく休んで。……でも、感じたはずよね。あれは――」
マナは小さく頷いた。
目を閉じれば、あの声がまだ響いている。
また会おう……巫女よ……
夢は扉だ……次は、完全にこちらに来い……
「……ああ、懐かしいのに、最悪な感覚だわ……」
マナの瞳に紅が宿りかけた。
それを、レイナは黙って見つめていた。
収容室は薄暗く、壁に設置された無数の魔術陣が蒼白く淡く輝いている。特殊強化収容カプセルの中、赤い冠のような異様な形状をした「赤眠冠」が静かに宙に浮かび、時折微かな赤い光を放っていた。カプセルの内部は異界との繋がりを遮断する結界で満たされており、部屋の空気は張り詰めていた。
レイナは緊張した面持ちで収容パネルを操作している。彼女の瞳は微動だにせず、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。
「これで、異界の門は封じられる……はず」
彼女の声には、微かな不安と決意が入り混じっていた。
一方、隣に立つマナは、冷や汗をぬぐいながらも目を閉じて集中している。深く息を吸い込むと、その意識はゆっくりと遠い場所へと引き込まれていった。
その瞬間、マナの内面にある異界の深淵が立ち上がる。
暗く広大な空間。視界は深い藍色の海の底のようで、静謐と恐怖が入り混じる。そこに、かすかに人の気配が漂っていた。
「マナ……おかえり」
微かな声が耳元で囁かれる。柔らかく、どこか懐かしく暖かい響き。
マナは震える唇で答える。
「ここじゃない。私は戻れない…戻らない」
その言葉は内面の葛藤を映し出していた。幼い頃から感じてきた、異界からの呼び声と人としての現実の狭間で揺れる魂。彼女は巫女としての自覚と、普通の生活への憧れの狭間で苦しんでいた。
収容室では、レイナがパネルの最終操作ボタンを押す。
「封印開始──」
カプセルから放たれる魔術陣が一気に光を強め、赤眠冠の表面に浮かんだ紋様がゆっくりと消えていく。異界との繋がりを断つ封印が確実に完成していく。
ナギサがモニターの前で息を呑み、細かい数値の推移を見守っていた。
「精神干渉波形、徐々に収束……よし、完全に消えた」
彼女の声には安堵が混じるが、警戒の色は薄れなかった。
マナはゆっくりと意識を戻し、震える手で胸を押さえる。
「……あの声、懐かしかった。でも、もう戻れない」
彼女の言葉は自らへの励ましであり、決意の証だった。
レイナは静かにマナの肩に手を置き、優しく微笑んだ。
「あなたはもう異界の巫女でありながら、この世界の守護者でもある。どちらも諦めないで」
マナは小さくうなずき、二人の視線が交差した。
収容室の扉が重く閉ざされ、静寂が戻った。だが、壁の奥深くで微かな振動がまだ残り、赤眠冠の影響が完全に消えたわけではないことを示していた。
ナギサは深刻な表情でつぶやいた。
「完全収容は達成したが、このオブジェクトの異常性が我々の想定を超えていることは間違いない……引き続き監視体制を強化する必要がある」
レイナもまた、顔をしかめながら頷いた。
「マナの異常性も、これで一旦は沈静化したけど、いつ再び呼び覚まされるかわからない」
マナは静かに目を閉じ、深く息を吐いた。
「それでも、私は戦い続ける……この世界のために」
部屋の明かりが落ち、異界の眠り王「赤眠冠」は確かに封印された。しかし、その眠りは永久に続くのか、いつか再び目覚めるのか、誰にも分からなかった。




