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第23話

石畳の道をしばらく進むと、霧が切れた向こうに、黒ずんだ煉瓦造りの時計塔が姿を現した。

高さはおよそ四階建て。風に軋む風見鶏が頂上で揺れ、塔の針はどちらも十二時で止まったまま、時を忘れたように沈黙している。

塔の足元に回り込むと、鉄製の管理用扉がひっそりと口を閉ざしていた。


レイナがノブをひねる。

「……ああ、鍵がかかってるわね。失念してたわ」


「こじ開ける?」


「中にヤバいのが居た時が怖いから止めておきましょう。ここだけ鍵が掛かっているのが、不気味すぎるもの」

塔の周囲は妙に静かで、遠くの風音と自分たちの息づかいだけが耳に残る。


「どうする?」


レイナは広場の中央を指差した。そこには水を吐き出さぬ噴水があり、中央の石像は歪んだ笑みを浮かべている。

「噴水の向こう側、ちょっと変わった建物がある。探索してみましょう」


「ヤー」


両開きの大きな木製ドアは、意外にも軽く、押しただけで音もなく開いた。

中はひんやりとした空気に包まれ、湿った紙と埃の匂いが漂っている。

高い天井まで届く本棚が規則正しく並び、革や布で装丁された無数の背表紙が、半ば暗闇の中で不気味な存在感を放っていた。


「図書館、かしら」


「本屋かもしれない」


「どっちでもいいけど、本は読めそう?」


レイナは最寄りの棚から一冊抜き取り、ぱらぱらとページをめくる。紙は少し湿って波打ち、インクは水に滲んだように奇妙な形で並んでいた。


「私が知る限りの文字ではなさそう」


「知る訳り、ね。何ヵ国語カバーしているやら」


「8、だったかな。マスターしてるわけじゃないけど」


マナは背表紙に触れ、苦笑する。

「というか英語もろくに分からない私が見ても、明らかに地球の文字じゃないでしょ、それ」


「出鱈目というかキテレツというか」


「……あまり深く考えない方がいいかも」


「……待って、奥に人が居る」


棚の向こう、薄明かりの差す机に、背を丸めて座る人影があった。

机の上だけがスポットライトのように照らされ、外の静寂とは別の時間が流れているようだ。


「今日も快晴、いい天気」


「レイナ、さっきも言おうと思ったけど、唐突すぎてサインの意味が無いと思うの。

あと快晴って青のイメージなの?」


「難しいのね」


「身体を鍛える前に機微をもうちょっと学んだ方がいいと思うわ。と、脱線し過ぎね」


「特徴は?」


「男性、顔は俯いてて分からない。何かに文字を書いてるみたい。話しかけてみる?」


「マナが構わないなら。私には見えないし聞こえないからどうしようもない」


「OK。ヤバそうなら逃げるわ」


マナは慎重に机へと歩み寄り、息を整えてから声をかけた。

「こんにちは。い、いい天気ですね」


「マナ……?」


「ごめんなさい。何も言わないで」


男はペンを止め、ゆっくりと顔を上げる。光を失った目は深い湖の底のようで、声だけが生々しく響いた。

「外の天気なんか知らん。そもそもお前は誰だ? またあいつの友人か何かか?」


「あいつ、が誰かは知らないけれど、たぶん知り合いじゃないわ。ここには来たばかりだもの」


「外の人間か。まあ珍しくもない。で、俺に何の用だ」


「そうね、外に帰りたいのよ。何かご存じ?」


「どうやって入ったんだ? 出たいならその逆をすればいいだけだ。簡単だろ」


「気が付いたらここに居たのよ。逆といわれても困るわ」


「それは忘れているだけだ。よく思い出すんだな」


「分かったわ。ありがと、先生」


「おい待て。どうして俺を先生と呼ぶ?」


「あなた作家さんでしょ? 書いてる文字は読めないけど」


「やっぱりあいつの友人じゃねえか」




「どうだった?」


レイナの問いに、マナは少し眉をひそめて答えた。

「……よく思い出せだって。記憶をたどるしかなさそうね」


静まり返った部屋の奥で、風が石畳を撫でるように流れる。何も動かないはずなのに、どこか背後から視線を感じる。


「マナは昨日の出来事を思い出せる?」


「それは当然でしょ、昨日は……あれ?」

口を開きかけたマナの顔に、戸惑いの色が浮かぶ。


「マナ?」


「……レイナはどうなの?」


「私は全く思い出せない」

レイナは即答した。その声音には焦りも困惑もない。冷静すぎるのが逆に不気味だった。


「あなたの記憶って確か――」


「そう、数日分は確実に記憶している。研究所やあなたといった知識記憶に異常は見られないが……ストーリー記憶となると途端に思い出せない。昨日どころか最近の出来事も思い出せない」


「……あなたが駄目なら、誰が覚えているのよ」


「この世界の住人が見えない私はイレギュラーなのかもしれない。けれど――」


「私なら何か思い出せるかもしれない、か。……ねえレイナ、質問いいかしら」


「? 構わない」


「誕生日は?」


「知らない。マナも知っているでしょ?」


「ええ、そうね。じゃあ靴のサイズは?」


「それは……」


「答えられない? だって私は知らないものね」


レイナの瞳が、ほんの一瞬だけ鋭く細まった。

「……何が言いたい?」


「あなた、レイナじゃないでしょ」


「……何時、気が付いた?」


「怪しいな、と思ったのはこの街を見つけた辺りから。登った木の高さと歩いた距離が合っていないと感じたのよ。あの高さからじゃ、この街は見えなかったはず」

マナは腕を組み、わずかに視線を逸らす。

「まあ畑が見えていないっていう情報を信じるなら、あまり当てにはならない根拠だけれど。後は街が見えたなら時計塔も見えていたはず。

なのにあなたは、この街に入ってから、さも“見つけた”ように答えた。……行き詰まったからここまで誘導したのかな、と予想」


「正解。流石研究所のおねーさんだ」

その口元に、不自然な笑みが広がる。


「で、あなたどちら様?」


「おねーさんなら予想はついてるんじゃないかな」


「ここにきて知った登場人物でまだ出ていないのは……猫さんだけだわ」


「消去法ってこと? まあでも正解」


「ねえ猫さん。この世界は一体何?」


「とある少女の夢の世界、かな。ちなみに質問をしてはいけないのは、彼らに意思が無いからだね」


「さっきの先生とあなたは例外?」


「そうだね。彼は夢に囚われたことすら気にもせずに、ずっと執筆活動さ。ボクは――秘密」


「あら、答えてはくれないのね」


「なんでも答えるとは言ってないよ。誰だって秘密にしたいことはあるさ」


「まあいいわ。この世界から帰る方法は?」


「彼の言っていた通り、この世界に入った時と逆の行動をすればいいのさ」


「覚えてないんだけれど」


「それはおねーさんの問題、ボクは知らない。……まあ、一つだけヒント。おねーさんの予想が当たっているとしたら?」


「それはどういう――」


猫は、レイナの姿のまま、空気に溶けるようにすっと消えた。存在したはずの気配も、匂いも、一瞬で失われる。


「あんな猫……何処かで見たような気がするけど、思い出せない」


「……それよりも、ヒントねえ」


マナは小さく息を吐き、視線を周囲に走らせる。

「ここに誘導したことが正とするなら……本――」


脳裏でカチリと歯車が噛み合う音がした。

「そうだ、私は、本を開いた。タイトルは――」


机の上に乱雑に積まれた本の中から、ひときわ存在感を放つ一冊を見つける。

厚い革表紙には金色の箔押しが施され、擦り切れた角からは古びた紙の匂いが漂っていた。

ページの間には微かな風が吹き抜けたような冷気が籠もっている。


マナは、深く息を吸い込む。

指先がその冷たさに触れた瞬間、脳裏にノイズのようなさざ波が走った。

――誰かの笑い声。遠くで鳴る時計の針の音。水面を叩く雨のような音。

どれも現実では聞いたことのない響き。


「……これを閉じれば」

呟きと同時に、彼女はゆっくりとページを閉じた。


ぱたん――。


その瞬間、世界の輪郭が波打つ。

街の石畳が蜃気楼のように揺らぎ、遠くの時計塔が霧に沈む。

空から色が抜け落ち、視界は白い光に満たされた。

耳の奥で、猫の声が「またね」と囁く。



***



「……おはよう、レイナ」

視界に白い天井が広がる。消毒液の匂いと、遠くで鳴る計器の電子音が、現実へと引き戻していく。


「おはよう、マナ」

レイナは計測端末を片手に立っていた。

「こちら側で試せることは試したが、結果は全て報告通り。本を手放させることも、本を閉じることも不可能だった」


「……どれだけ時間が経ったの?」

上体を起こしながら問うと、レイナは壁の時計に目をやる。


「二時間ほど。報告にあった時間よりは短い」


マナは、隣の作業台に置かれた本へ視線を移す。

革表紙の表面は冷たく、触れただけで掌にざらつきと微かな湿り気が伝わってくる。

その無機質な静けさが、かえって中に潜むものの存在を際立たせていた。


「中での出来事はおおよそ予想通りだったけれど……やっぱり厄介なオブジェクトだってことは分かったわ」

マナは額に残る冷や汗を拭いながら、小さく息を吐いた。


「早く帰ってこれたのは、お人好しの猫さんのおかげってことね」


「……よくわからない。頭は大丈夫?」

レイナの眉がわずかに動く。


マナは肩をすくめ、作業台の上の太い麻紐を指さす。

「詳細は報告書に書くから手伝って。あと、その本――絶対に開かないように、きつく縛っといて」


二人は無言で本を麻紐でぐるぐると巻き、最後に研究所の封印用ワックスで結び目を固める。


「……ふぅ」

本を縛り終えた瞬間、二人はほぼ同時に息を吐いた。

さっきまでまとわりついていたあの夢のような世界の匂い――湿った紙と甘ったるい香りが、少しずつ薄れていく。


「やっと、外界の空気に戻った感じね」

マナは深呼吸しながら呟く。

研究所の無機質な空調音と、壁越しに聞こえる遠い足音が、現実であることを強く実感させた。


「戻れたのは事実だけど、完全に安全とは言い難い」

レイナの視線は封じられた本に釘付けだ。

その赤い表紙は、光を吸い込むように艶を失い、まるで深淵の入口のように沈黙していた。


「……触れただけであれだけ引きずり込まれるんだもの。封印は絶対条件ね」

マナは封印用ケースを引き寄せる。透明な防護パネルが開き、内部には耐火・耐酸・耐磁の多重保護が施されている。


「確認――封印対象、オブジェクト番号は仮で《暫定-紅の書》」

レイナの淡々とした声が、事務的でありながらもどこか重みを帯びる。


マナは本を両手で持ち上げ、防護ケースの中央へそっと置いた。

置いた瞬間、ケース内部の空気がわずかに揺れ、かすかな低音が響く。

まるで本そのものが抵抗しているかのようだった。


「……聞こえた?」

「ええ。だからこそ急ぎましょう」


ケースの蓋がゆっくりと降り、密閉音とともに内部が完全に遮断される。

最後に封印コードを入力し、赤い警告ランプが緑に変わった。


「これで……ひとまず、外界には影響は及ばないはず」

マナはケースから視線を外さずに言った。


「“はず”って言い方、あんまり安心できないんだけど」

「オブジェクト相手に絶対はないの。だからこうして、私たちが存在してるんでしょ」


二人は短く視線を交わし、今度こそ緊張をほどいて歩き出した。

その背後、保管庫の奥で眠る本は――開かれない限り、静かに沈黙を保っているはずだった。


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