第22話
ルールを教えてくれるのは猫。
けれど――幼女の言葉では「質問には答えてはいけない」とあった。
では、猫はそのルールに縛られていないのかしら。
「幼女との会話の話?」
「ええ。去り際にそんな事を言ってたのよ」
「ルールを決めたのは誰か、が問題だと思う。……破った場合の罰則も」
漂う空気が微かにざらつく。皮膚の表面をかすめるこの感覚は、明らかに現実の風ではない。
「どのみち、あまり情報収集は期待できそうにない世界ね。厄介な」
「文句を言っても始まらない。理不尽なのも含めてオブジェクト」
言葉を交わすうちに、二人の足音がひどく吸い込まれていくことに気付く。地面に触れている感覚はあるのに、音が異様に小さい。
「……完全に見失ったわね」
振り返れば、来た道はもう存在しない。ただ薄い靄のような景色が揺らいでいるだけだ。
「どうする? 右には建物らしきものがある。左には畑のような何かが見えるけど」
「名状しがたい空間ね……正気が削れる音がするわ」
耳の奥で、誰かが小声で囁き続けているような感覚があった。
「私は人が居る可能性がある右の方が良いと思う」
「誰もいないでほしい思いと、情報収集したい気持ちが混同してる」
「人からでなくても、情報は集められる……かも?」
「まあ、気をもんでも仕方ないわ。右に行きましょ」
右手に見えた建物は、近づくにつれ輪郭が歪んでいく。
外壁はゆるく波打ち、窓は斜めに傾き、まるで熱に溶かされた蝋細工のようだった。
マナは歪んだ扉をノックする。
「誰かいませんかー?」
返事はない。
扉の隙間からは、内部の空気がわずかに吐き出され、冷たい金属臭が鼻を突いた。
「中から物音はしないし……入ってみますか」
マナはゆっくりと扉を押し開け、中へ足を踏み入れた。
中の家具も外観に負けず劣らず歪んでいた。
椅子の背もたれは蛇行し、テーブルの脚は途中でねじ切れたように曲がっている。それでも、そこに座れと言われれば、座れてしまいそうな奇妙な現実感があった。
「使い辛そうな家具ね。辛うじて使えそうなのは椅子とテーブルくらいかしら」
「こんな景色、どこかで見た記憶がある……確か映画の作中のテレビ番組で、こんなのがあったような」
「マジックショーの奴?」
「そうだったかも。人の粘土模型の形を変えると本人も同じ形になる奴」
「実際に遭遇したら間違いなく正気が削れるわ……」
探索の結果、目ぼしい手掛かりはなかった。
冷たい空気だけが、家具の隙間を這うように流れていく。
「手掛かりなし。さて、どうする?」
「猫か幼女でも見つかると話が早いのだけど。……あと“先生”とやら」
「もしくは研究所の応援を待つか」
「それは愚策ね。とは言え闇雲に歩き回るのは避けたいわ」
「高所から見渡すとか?」
「あなた、木登りとかできるの?」
「ある程度は」
「さっすがロボ」
「ロボじゃない。落ちたら助けてね」
「無茶言わないでよ……そうね、とりあえずさっきの家から布でも拝借しますか」
マナはカーテンを引きはがし、それを木に括り付け、もう片方は手に持って広げた。
「気休め程度にしかならないだろうが」
レイナは補助具なしで木を登り始める。幹はしっとりと湿り、手の中で脈打つような感触があったが、彼女は気にせず進んだ。
20メートルほど登り、一通り見渡すと、ためらいなく降りてくる。
「よくあれだけ昇ってするすると降りられるわね」
「慣れていれば難しくはない。それよりも、あちらの方角に街を見つけた」
「うわぁ……」
「他には何か見つからなかったの?」
「目ぼしいものは無かった。……ただ、ひとつ気がかりがある」
「何?」
「さっき分岐点で左側には畑のような何かが見えていたけど、上から見ても森しかなかった」
マナは一瞬黙り、舌打ちした。
「空間まで歪んでいたらどうしようもないわね」
「誘導されているような気持ち」
「だとしたら、進展しているのだから良い事……かもしれないわね」
二人は街の方へと歩き出した。
今度は道を選ばず、森を一直線に突っ切る。
足元は土の感触が続くはずなのに、時折ガラスを踏み割ったような乾いた音が響いた。
約1時間後、街に辿り着く。
通りはしんと静まり返り、窓はすべて内側から覆いがされている。
「今度は中世ヨーロッパって感じの街並みだけどね」
「さて、どこから探索しましょうか」
マナは両手をポケットに突っ込みながら、歪んだ石畳の通りを見回した。
通りはひび割れたレンガ色の舗装で、雨に濡れてもいないのに鈍く光っている。
左右には斜めに傾いた建物が並び、その壁はわずかに波打っていて、見ていると酔いそうになる。
「近くの建物から手当たり次第に探索、外観だけ見て街全体を探索、街を俯瞰できる場所を探す。思いつく限りだとこの辺り」
「1番目は却下ね。多すぎる。2番目は悪くはないけど、手っ取り早く一望できそうな場所が欲しいわね」
「となると3番?」
「そうね。まずは大きい建物、若しくは高い場所を探しましょ」
マナが顎で遠くの屋根を示すと、風が路地を抜け、耳鳴りのような音を残して消えていった。
遠くで木製の看板が、誰もいないのにミシリと揺れる。
「とは言え、建物が邪魔ね。屋根の上に登れないかしら」
「建物と建物の間の壁を蹴って上に行くとか?」
「どこぞのゲームじゃないんだから」
マナが呆れたように言うと、レイナは無表情のまま肩をすくめる。
「漫画でも試してた作品はあったよ」
「フィクションを参考にしてどうするのよ。まああなたの場合やってやれない事もないんでしょうけど」
「試す?」
「失敗したときのカバーが出来ないから却下。丁度ベランダがあるし、どうせならパルクールで登りなさいな」
「了解」
マナは近くの木製ドアに手をかける。
金属のノブは氷のように冷たく、皮膚が張り付く感触がした。
ゆっくり押し開けた瞬間――
「待って――」
すると、中に住人が居た。
光の乏しい部屋の奥、椅子に腰かけた影が、ぎこちなく首をこちらに向ける。
「ああ、人が居る可能性を忘れてた」
遅かった。
「販売情報目ぼしいまるで収集訂正」
「は? 頭大丈夫ですか?」
「稀土sぢうz癖mっえう」
その口は笑っているようで、声は何かの断片をランダムに吐き出すだけだった。
皮膚は紙のように薄く、目は曇ったガラス玉のようだ。
「水玉のリボンが素敵ですね」
「レイナ、あなたまでバグったの?」
「私は先にベランダに行く」
「え? ああ、了解」
住人は虚ろな目で椅子に腰かけ、視線は宙を彷徨うばかり。
マナが手を振っても瞬き一つしない。
(私すら見えているか怪しいレベル。やっぱり正気が削れるような奇天烈物体しか居ないじゃない)
マナは周辺を軽く探索したが、家具は形を保てず、引き出しは開くたびに内側が変形していた。
結局何も収穫はなく、レイナが向かったであろうベランダに向かう。
ベランダに出ると、レイナは今にも飛び出す姿勢で構えていた。
灰色の空が背後に広がり、屋根瓦は湿った鱗のように鈍く光っている。
「これから向かいの屋根に飛び乗る」
「大丈夫と思うけど、落ちないでね?」
「大丈夫、問題ない」
「そんなベタで古いフラグ立てないでよ」
レイナは助走をつけ、柵を踏み台にして飛び出す。
空気が一瞬だけ引き裂かれ、着地の瞬間に屋根瓦がかすかに鳴った。
「ひゅー、さっすがロボ」
「だからロボじゃないし、慣れればマナも出来るって」
「もうちょっとトレーニングしようかしら」
「ボルダリングとかラペリングとか、訓練しておくと何かと役に立つ」
「お、おう。いつになく推すわね」
レイナは再び助走をつけ、軽々とマナのいる側へ戻ってきた。
「周りを見たけど、1ヵ所くらいかな、高そうな場所は」
階段を下り、二人は通りへ戻る。
冷たい風がふっと吹き、遠くで鐘のような低い音が響く。
レイナは左――来た道と逆方向を指差す。
「あっちに時計塔があった」
「登れるといいわね」




