X10_AW 第21話
地下の簡素なラボは、外界から切り離されたように静まり返っていた。
夜の街灯の明かりすら届かず、壁の剥げたコンクリートに冷気が貼り付いている。
机の上には旧式のモニター、黄ばんだキーボード、まだ市販されていた頃に買い溜めた電子部品や試薬瓶が雑然と並び、空気は金属と薬品の匂いで満ちていた。
有栖川クラリスは、半ば眠気と疲労に滲む目をこすりながら、古びたオシロスコープに視線を落としていた。
波形は一定のリズムを刻んでいるが、その規則正しさがかえって眠気を誘う。
――その瞬間、空気がひどく冷たくなる。
背筋をなぞるような微かな圧迫感。
照明が一度だけ瞬き、床に置かれた鉄製のラックがビリ、と共鳴音を立てた。
「……は?」
クラリスが顔を上げたとき、目の前の床に黒いコンテナが現れていた。
煙のような白い蒸気を吐き出しながら、まるで空間そのものから押し出されたかのように。
金属の縁には焼け焦げたような跡があり、触れる前から微かな熱を感じる。
恐怖と好奇心が、研究者としての本能を同時に刺激する。
クラリスは、ためらいながらもコンテナへと歩み寄り、指先で蓋に触れた。
カシャン――
機械的な音とともに蓋が自動で開き、中から冷気が一気に溢れ出す。
そこに横たわっていたのは――人間の少女にしか見えない「何か」だった。
チャコールグレーの髪は頬にかかり、閉じた瞼の下で人工皮膚が呼吸のように微かに上下している。
肌は人間と見紛うほど滑らかで、だがその静止した姿には無機質な均整があった。
「……人形……じゃない……?」
胸元に、小さな古びたUSBメモリが固定されている。
クラリスは無意識にそれを抜き取り、机の端末に差し込んだ。
古いOSが唸りを上げ、新しいフォルダ名が画面に浮かび上がる。
フォルダ名「ALETHEIA_SCENARIO」
Step.0 試作機(REINA)を起動せよ
Step.1 シナリオを理解し、インフラを整備せよ
Step.2 有栖川クラリスは、本計画の中核となる
Step.3 プロメテウスとクラリスシステムを構築せよ
Step.4 オブジェクトを秘匿・収容する組織を立ち上げること
「……何、これ……」
USBに記されたシナリオは、まるで未来から送られてきた設計図のようだった。
プロメテウスも、クラリスシステムも、この時点ではまだ構想すらしていない。
なのに、それらは自分の名と共に、当然のように記されている。
胸の鼓動が、ひとつ大きく跳ねた。
――コンテナの中の少女が、微かに身じろぎする。
瞼が開き、人工の瞳がゆっくりと発光した。
光がラボの壁を淡く染める。
「……ここは……?」
声はわずかに機械的だが、響きは人間の声帯を思わせる温度を持っていた。
クラリスは無意識に口元を緩め、低く呟く。
「……面白いわね……未来が、私に賭けている」
この夜、クラリスはUSBの“シナリオ”を一晩中読み解いた。
それがやがてクラリスシステムとプロメテウスを生み、
後に「第零研究機構」へと繋がる計画の最初の一歩になることを、
この時の彼女はまだ知らなかった。
***
「はじめまして、こんにちは!」
声は、あまりに唐突で、あまりに場違いだった。
マナは瞬きを一度、二度。視界の端に、色の濃い影がにじみ出る。
「……ここは……?」
レイナの低い声が背後から届く。
足元の床は木の板のようでいて、踏むとじわりと水の感触がする。壁も空もないのに、なぜか「室内」としか思えない閉塞感があった。
「座標不明。というか、現実だとは思えない」
レイナは即座に判断する。
マナは、先ほどまで自分が確かにベッドで眠っていた感触を思い返す。シーツのしわ、まぶたに落ちていた温い暗さ。それが一転して、この奇怪な場所。
夢なのかと疑うには、冷たい空気が肌にやけに生々しい。
「もう、わたしはむしかしら!?」
甲高い声に、マナは思わずそちらを振り向く。そこには――
背丈も服装も、まるで絵本の中から抜け出したような幼女が立っていた。くるくるの髪、つややかなリボン。
「あー、その、ごめんなさいね。理解が追いつかなくて」
「マナ? 一体誰と話している?」
レイナの声は冷静だが、その眉間にはかすかな緊張が刻まれている。
「誰も何も、目の前に居る幼女よ」
「しつれいね。わたしはりっぱなレディよ!」
レイナの反応は、まったくの無。
――見えていない。
「そちらのおねーさんには見えてないみたいだけれど、気にしないで。そういうルールなのよ」
「ルール? というか、あなた誰よ?」
「ルールその1、しつもんにはこたえちゃいけない。ほかのルールがしりたかったらネコさんにきいてちょうだい」
幼女は懐から懐中時計を取り出す。
その表面の細工――マナは見覚えがあった。以前、回収案件で触れた、あの奇妙な時計とそっくりだ。
「あら、もうこんな時間! それではごきげんよう、先生によろしくね!」
「先生って誰よ……って、もう行っちゃった」
幼女の姿は走り去るのではなく、空気に溶けて輪郭から消えていった。
マナは腕を組んで小さく吐息を漏らす。
「説明してほしい」
「こっちのセリフよ……で、どうする?」
「行く当てもないし、追いかけるというのは?」
「賛成。と言っても、どうしていいか分からないけどね」
レイナは周囲を素早く見回す。色も形も安定しない景色が、視界の端でゆらめいている。
「あなたにしか見えないものが多いと推測される。……貴女が頼り」
「ヤー。一応、住人に気付かれないようにサインを決めておきましょ」
「マナだけに見えている場合は青、私にも見えている場合は赤に関する言葉を入れる」
「あなたも好きね。今度見ておこうかしら」
「見識を広げることは大事。例え娯楽作品であっても」
「はいはい」
二人は、幼女が消えた方向へと歩き出した。
歩くごとに、足元の質感が変わる。木、砂、絨毯、石畳……連続するはずの景色が、まるで誰かが描き替えているように断片的に差し替わっていく。
「それにしても、奇妙な場所ね」
「仮想世界説と夢説……またこの可能性を考える日が来るとは思わなかった」
「前回って、最近すぎるでしょ……何回巻き込まれたら気が済むのよ私たち」
「オブジェクトに携わっている以上、無縁にはなれない。諦めて」
足音は、不思議なほど遠くまで響いていた。




