X09_QH 第19話
未来、地下深くに封印された《プロジェクト・アレーティア》の研究施設。
外界の光は届かず、冷却液の蒸気が薄い霧となって床を這う。壁一面に並ぶガラスパネルは淡く青い光を反射し、ここが生身の人間の世界から遠く離れた“未来”であることを示していた。
中央に鎮座するのは、棺のような黒いコンテナ。
その蓋が開くと、光沢のある人型――試作機が静かに横たわっていた。まだ目は閉じ、冷たい人工皮膚が無機質な照明を映している。
「こうやってみると、本当にそっくりね」
観測ガラスの向こうから、白衣の女がぽつりと呟く。
「当然だ。そう造ったのだから」
応じたのは義手の博士、無精髭に隈を刻んだアオイだ。彼の眼鏡には、緑色のデータラインが流れ続けている。
作業台の上には、小さな黒いUSBが置かれていた。表面に刻まれた古いメーカーロゴはすでに消えかけている。
「よくそんな旧式の媒体、用意できたわね」
「廃盤前に確保しておいた。古いほど、過去で違和感なく扱える」
USBの中身は単なるデータではなかった。そこに記録されているのは、行動手順、接触する人物、発言すべき内容、すべてを網羅した“シナリオ”――
言い換えれば、過去の時間をねじ伏せるための“台本”だ。
「全て、シナリオ通りってわけね……」
女の声には、わずかな不安が滲む。
アオイは端末を操作し、重厚な装置のインジケーターを順に確認する。
ゲート装置が唸りを上げ、床面の円形基盤が淡く発光した。空気が震え、重力が反転したかのような感覚が研究員たちを包み込む。
「転送チャンネル、安定。ターゲット時代の座標は固定済み」
機械音声が報告を告げる。
女は深く息を吸い、USBを試作機の胸部コネクタに接続した。
瞬間、プロトタイプの瞳に赤い光がともる。呼吸の代わりに、内部の冷却液が小さく脈打った。
「……後は、この装置がうまく起動すれば問題ないわね」
「博士も、準備はいい?」
「もちろんだとも」
アオイは不敵に笑い、最後のスイッチを押し込んだ。
――轟音。
空気が裂け、白い閃光が研究施設を満たす。
黒いコンテナごと試作機が光に飲まれ、USBを胸に抱いたまま時空の裂け目に沈んでいく。
その行き先は、過去――有栖川クラリスのもと。
やがて光が収束すると、ただ静寂だけが残った。
床に残されたのは、うっすらと焦げた円環の跡。
「……これで、未来は変わるのかしら」
誰も答えない研究室に、冷却液の滴る音だけが響いていた。
***
「私は今回はパス」
「そういうな。君ほどの適任が居ない」
「だからよ。何が悲しくて行かなきゃならないのよ」
レイナの声は淡々としているが、マナは机に額を押しつけるようにして顔をそむけた。
「今回に関しては私もマナに同意です。わざわざトラウマを抉るような人選をしなくても――」
「それでも、だ」
上司の低い声が部屋に沈んだ。蛍光灯の白い光が冷たく壁を照らし、重い沈黙が落ちる。
「嫌よ。せっかく忘れてたのに……何が悲しくて、あんなところに行かないと駄目なのよ」
「本当に申し訳ないと思っているが、頼む」
「あー! はいはい! わかったわよ!」
マナは乱暴に椅子を蹴るようにして立ち上がり、諦め混じりに叫んだ。
「すまない」
「……勿論、type-Aを支給してくれるんでしょ?」
「ああ、工作はすべてこちらが行う」
「マナ、大丈夫?」
レイナが隣で静かに尋ねる。
「大丈夫じゃないけど……駄々をこねても仕方ないもの」
マナの声は震えていた。指先には無意識に力が入り、血の気が引いている。
彼女がこの任務を嫌がる理由は明白だった。
かつてマナを異常性に目覚めさせ、そして地獄を味わわせた宗教団体――
深淵信仰会《ネリウスの子ら》。
その残党が、封じられたはずの「D種」の新たな復活儀式を行ったという報告があった。
「D種に対応できる人員は限られている。……だから、君たちに話が行った」
「……あの時に壊滅させて、なおかつ触媒も全部処分できていればなあ」
「今度こそ根絶やしにしよう、マナ」
「……レイナ、ごめんね」
「マナが謝ることはない。私たちはバディなのだから」
その言葉に、マナはわずかに肩を落とし、深く息を吐いた。
***
「主よ、主よ……私たちにどうかお慈悲を……」
廃墟となった教会に、低く湿った祈り声が反響する。
天井の穴から差し込む月光に、粉塵が漂い、まるで海底のように静かだ。
修道女たちが朽ちた祭壇の前にひざまずき、異形の彫像に祈りを捧げる。
人の顔に似せたタコのような顔。螺旋に絡み合う触腕。
その像は、かつてのキリスト像の台座を無理やり利用していた。
「……我らを深淵の主のもとへ導き給え……」
最奥で、一人の修道女が立ち上がった。
彼女は白髪に紅い眼、そしてわずかに覗く尖った犬歯――。
シスターマナツ。
「本日は、貴方を導きましょう」
低く、甘く囁いた瞬間、信者の一人が恍惚の表情を浮かべた。
マナツがその首筋に唇を寄せ、牙を突き立てる。
「ひっ……」
短い悲鳴。
血の匂いが広がり、信者の体から力が抜けていく。
吸い尽くされた信者はそのまま絶命し、冷たい床に崩れ落ちた。
残された者たちは悲鳴を上げることもなく、陶酔と恐怖の入り混じった瞳でその様を見つめる。
別の信者が遺体を抱え上げ、奥の地下へと運んでいく。
まるでそれが、日常の儀式の一部であるかのように。
祭壇の影では、乾ききった触腕の彫像が、不気味に微笑んでいるように見えた。




