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第18話

医療観察室の映像は、静止画のように止まっていた。

けれど確かに、二人のイチカがいた。

カメラに向かって並び、同じ姿勢、同じ呼吸で、ただ笑っている。


「……やばくない?」


レイナが目を細めてモニターを覗き込みながら、僅かに息を吐いた。


マナは黙って頷き、警告灯が瞬く扉へと歩き出す。

音もなく自動ドアが開き、空調の異様な唸りだけが耳に届く。


ふと、どちらかのイチカが、ぴくりと指を動かした。

まるで「誰が見ているのか」を確認するように、首をゆっくりと傾けて、カメラの視線を探る。


「入る。バックアップ頼むわ!」


「了解。もしもの時は、すぐ遮断する」


マナは扉を抜け、観察室の中へ。

薄いカーテンの向こう、そこに――二人のイチカが、並んで座っていた。


「マナちゃん……!」


声を上げたのは、右側のイチカだった。

左側も同じタイミングで唇を開いたが、音はなかった。


右のイチカが立ち上がる。裸足のまま、床をすり足で歩いてくる。

左はその場に残り、じっとこちらを見ている。


マナは立ち止まる。息を潜めながら、二人を交互に見つめた。


「私……私の中で、誰かがささやくの。『目を逸らさないで』って。『見つめ返して』って……」


「それは、いつから?」


「気づいたら……隣に“私”がいた。でも、ずっと……前から、いたような気もする」


その言葉を聞いて、マナは視線を左側のイチカへと向ける。

左のイチカは、笑っていた。口角を不自然に上げたまま、表情だけが貼りついたような笑顔だった。


マナの指が、そっと腰のホルダーへ触れる。B-タブレットが何粒か、わずかな重みでそこに並んでいる。


「ねえ、マナちゃん。どっちが私か……わかる?」


右のイチカが、そう問いかける。

左のイチカは動かない。ただ、まばたきすらせず、鏡像のように“完璧な静止”を保っていた。


「わかるわけ、ない。少なくとも今は」


マナはそう答えて、室内を見回す。

窓もない。鏡もない。

――けれど、この空間自体が、もしかしたら“模倣”の一部かもしれない。


「私たち、どうすれば……」


右のイチカの声は震えていた。

それを聞いた左のイチカが、唐突に立ち上がる。

無音のまま、一歩、二歩と近づいてきて――ぴたりと、マナと右のイチカの目の前で止まった。


その時だった。


モニター室からレイナの声がインカム越しに響く。


『……観測ノイズ。空間に重複エントリがある。マナ、今いる場所――そこは完全に“コピーされた内部”かもしれない』


「どういう意味?」


『マナたちが今いる観察室、位置座標が微妙にズレてる。“もうひとつの観察室”が、この施設内に存在してるように見えるの』


左のイチカが笑った。まるで「正解」に気づいたかのように。


「出る。とにかく、ここを離れる」


マナは右のイチカの腕を引いた。が、その瞬間。


天井の蛍光灯がぱちりと一つ切れ、次の瞬間――部屋全体がぐらりと揺れた。


足元が沈む。視界が歪む。


“コピーされた空間”が、ゆっくりと崩れ始めていた。


床が軋んだ。タイルの目地がゆっくりと歪み、壁の繋ぎ目がぐにゃりと膨らんでいく。


模倣空間の崩壊が始まっていた。


「レイナ、こっちの座標データ、転送できる!?」


『やってる!でも、空間が反転してる!脱出ルートは一つしかない!』


「分かった!」


マナは右のイチカ――最初に声をかけてきた方の手を強く握った。逃げ道を探して視線を巡らせる。

観察室の扉は歪んで半分溶けかけていた。代わりに、背後の壁の一角が、まるで「誘導されるように」裂けていく。


――そこが出口。


「走れ!」


二人は飛び込むようにその裂け目へ向かった。

背後で、左のイチカが静かに笑ったのが、気配だけで伝わった。


裂け目の中は、視界がぐにゃぐにゃに歪んでいた。

白と黒のまだら模様、上下の区別もなく、重力も不安定だ。

マナは右のイチカの手を引いて、文字通り“空間をかき分ける”ようにして進んだ。


『マナ、あと十秒!外殻の同期が完全に破断する!』


レイナの警告が飛ぶ。


その時、不意に――イチカの手が、するりとすり抜けた。


「……え?」


マナが振り返ると、すでに裂け目の外にいる“イチカ”が、ぽかんと口を開けて自分を見ていた。


自分と手をつないでいたはずのイチカは、空間の中に、マナと一緒にいる。


「マナちゃん……! そっち、私じゃない!」


そう叫んだのは、裂け目の外に立っているイチカのほうだった。

崩れゆく空間の中、マナの隣にいる“もう一人”のイチカが、薄く笑った。


「……やっと、わかったのね」


その声は、ほんのわずかに“遅れて”聞こえた。

反響でも、ノイズでもない――まるで真似をしているような、完璧ではない模倣。


マナは迷わず、相手の腕を突き放した。


「イチカ」は、抵抗せず、ふわりと空間の中へ落ちていった。

笑顔を浮かべたまま、鏡の破片のような裂け目に吸い込まれていく。


すぐに、マナは裂け目を抜け、転がるように元の観察室へと戻った。


ぱしん――と音を立てて、裂け目が閉じる。

まるで最初から何もなかったかのように、そこにはただ壁があるだけだった。


「……戻った、わね」


レイナの声がインカム越しに聞こえる。


「こっちにいるイチカ、無事よ」


マナは大きく息をついた。

イチカもまた、座り込んで膝を抱えていた。震えているが、意識はある。


しかし――マナはひそかに思う。

本当に、戻ってきたのは“本物”なのか。

あの裂け目の中で、手をつないでいたのは、果たして――


「……マナちゃん?」


イチカが不安げに見上げてくる。

その表情は、いつものイチカだった。


「平気。もう大丈夫よ」


そう言って、マナは彼女の頭にそっと手を置いた。

だが、その指先には、微かな冷たさが残っていた。




***




観察室は、本来の静けさを取り戻していた。

蛍光灯の白い光、無機質な床、壁に取りつけられたカメラのレンズ――すべてが、日常的な《エイドロン》の一角でしかない。


マナは、イチカの傍らに座っていた。

イチカはまだ時折震えていたが、呼吸は安定し、意識も明瞭だった。検査チームが待機しているが、マナは「もう少しだけ」と伝えて、二人きりで時間を取っていた。


「……マナちゃん」


「なに?」


「さっきのこと、夢じゃないよね?」


「夢にしてもいいのよ。辛いなら、忘れてしまっても」


イチカは小さく首を横に振った。


「……忘れたくない。わたし……ちゃんと“選ばれた”から、ここにいる気がする」


その言葉には、自分を肯定しようとする、ぎりぎりの意思が滲んでいた。


マナは何も言わず、そっとイチカの手を取った。

あたたかい。少なくとも、それは現実の手のぬくもりだった。


観察室の扉が開く。

バイオスーツを着た研究員が一人、検査機材を携えて入ってきた。彼女の肩章には《精神影響課》の印。


「では、精神汚染と身体への変質について、簡易スキャンを行います。協力を」


マナは立ち上がると、イチカの背中を軽く押した。

「大丈夫」とだけ言って。


検査は淡々と進んだ。結果として、明確な汚染も模倣痕も“検出されなかった”。


だが――


マナは自室へ戻ったあと、静かな夜のなか、ひとり考えていた。


あの空間で、あの裂け目の中で、自分が手を引いていた“イチカ”は、本当に――


いや、もうそれを疑うのはやめよう。

そう決めたはずだった。

でも、どこか胸の奥に、小さな“棘”が残っていた。


──イチカの言葉。

「わたし……ちゃんと“選ばれた”から、ここにいる気がする」


それは、果たして“どちらのイチカ”の言葉だったのだろうか。


夜が更けていく。

ベッドに横になったマナは、目を閉じる直前、ぼんやりとした感覚に包まれる。


鏡面のような何かが、ふと脳裏をかすめた気がした。

だが、それもすぐに夜の深みに消えていった。


小さく、囁くような声だけが――


「また、逢いましょう」


──どこかで、聞こえたような気がした。

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