X05_MH 第11話
また今回も、駄目だったのか。
洞窟を改造した儀式場の空気は、磯の匂いと血の臭いが入り混じり、じっとりと湿っていた。
中央の祭壇に置かれた石盤には、海藻のようにうねる螺旋模様が刻まれ、そこから黒い煙が立ちのぼる。
煙は人の形にも魚の形にも見え、やがて虚空へ溶けるように消えていった。
石盤の光は消えかけている。呼応するはずの「彼」は、今日も沈黙したままだ。
「……やはり、そう易々と適合できるものではないな」
白衣を羽織った技師の一人が、湿った壁にもたれながら肩をすくめた。
背後の海蝕洞からは、低いうなりのような波の音が響いてくる。
「次の神体を探せばいいさ。神は必ず応えてくださる」
前列に跪く男が、うっとりと目を細め、両手を組み合わせて祈った。
その声は途中から嗄れ、血の味を含んだような掠れ声に変わる。
「ああ……深き神よ……あなたはいつ、我らの声に応えてくださるのですか……」
次の瞬間、男がゆっくりと振り向く。
その腕に抱えられていたのは、蒼白な少女だった。
制服は乱れ、うつろな目。
手足には縄の痕が生々しく残り、皮膚は夜の海のように冷たい。
「次は……君の子だったね」
「はい……是非とも、よろしくお願いいたします」
誇らしげに、男は少女を祭壇に差し出す。
周囲に立つ信者たちが、低く不明瞭な異界語を詠唱しはじめる。
「Ia……Gho’n……Uln……」
低周波のような振動が床を這い、海水が滴る壁がぶるぶると震えた。
遠くで波が砕ける音が、なぜか洞窟の内側から響いてくる。
「君、何ともないのかい?」
白衣の技師が、少女の顔を覗き込む。
「……」
「返事もできないのかい?」
「……あなたと、しゃべりたくないだけ」
淡々とした声。
その冷ややかさに、場にいた誰もが一瞬、背筋を冷たくした。
「……そうか。それは困った」
「だが、見たところ問題はなさそうだ」
「ネリウス様ぁ! 大丈夫なんだな!? これは成功ではないですか!?」
祭壇に群がる信者の一人が、歓喜のあまり叫ぶ。
モニターの波形は安定していた。心拍も脳波も平常値に近い。
「おめでとう……君は、“深淵の巫女”に進化したんだ。もっと喜んでいいはずだよ」
「……るさい」
少女の声が割れる。
祭壇の石盤に刻まれた螺旋が、ぼうっと紅く光る。
「うるさい……うるさい……!」
床に、赤黒い飛沫が弾けた。
彼女の爪は、いつの間にか鋭く黒く伸び、後方に立っていた男の首を易々と裂いた。
血が噴き出し、彼女の頬と白い首筋に斑点のように散る。
「頭のなかで……ひびく……声が……声がひびくの!」
金属が倒れる音、警報が鳴り始める。
だが、叫んだ職員の声は最後まで届かなかった。
少女は、全員を等しく切り裂いた。
嘆く者も、祈る者も、狂気に笑う者も、喜び泣き叫ぶ者も。
赤い飛沫はゆらゆらと宙に漂い、やがて祭壇に吸い込まれていく。
「ああ……ねむい」
裂傷だらけの身体で、少女は腕に滴る血を舐めた。
洞窟の奥、黒い海の中から、巨大な影がゆらりと蠢いた気がした。
その目を見た瞬間、誰もが言葉にならない恐怖を覚えた――
「……もっと……ほしい……」
祭壇の上で、深淵に魅入られた少女は、血の味に微笑んだ。
***
まさかこんなことになるなんて――
「……暑い、怠い、しんどい。灰になる……」
「聞き飽きた。真面目に走らないと目立つ」
マナは不機嫌に唇を尖らせ、レイナの横で校庭の外周を走っていた。
「皆、何が楽しくて延々と走ってるのよ……?」
「そういうもの」
涼しい顔で返すレイナに、マナは視線を投げる。
「おやおや、二人は仲いいねぇ」
後ろからひょいと現れたのは、一人の女子生徒。制服のスカートがわずかに跳ね、ポニーテールが陽光を切って揺れた。
「私も混ぜてほしいなあ」
「こら一!喋ってないで走りなさーい!」
教師の怒号が飛ぶ。少女は悪びれもせず笑った。
「あらら、注意されちゃった。ごめんね」
「今更JKなんて何が悲しくてやらないと駄目なのよ……」
「今更も何も、年齢で言うなら私達は高校生。どこも不自然なところはない」
「人生が不自然の塊じゃない……」
今回の任務は、ある私立高校への潜入調査だった。
対象は、校内で飼育されている「兎」。
それ自体は決して珍しくないはずだった。だが、今回の任務に選ばれた理由は、報告書に添付された「映像」にある。
それは、夜間の飼育小屋を監視する定点カメラの映像だった。
暗視補正のかかったモノクロの画面の中、檻の中の一匹の兎が、人間の言葉らしき音声を反復する様子が記録されていた。
──「こっちに来て」「……わかってる、待ってる」──
言語化された内容は曖昧だったが、音響分析では明らかに「ヒトの構音パターン」に類似していた。
しかもそれは、別の事件――過去に“異常知性存在”として収容されかけた「音声誘導型オブジェクト」が残した記録と完全に一致していた。
「ウサギが……喋る?」
マナは呆れたように小さくため息をついた。
「喋るだけじゃないよ。特定個体“01号”は、視線を合わせた職員に対して睡眠障害、幻覚、記憶の混濁を引き起こした記録がある」
「その個体が、この高校のウサギと一致したってこと?」
レイナはタブレットを操作しながらうなずく。
「DNA照合では99.97%。それに加えて、ケージに残された“蹄の痕跡”」
「……待って。ウサギって蹄ないよね?」
「うん、だから異常なんだよ。該当の痕跡は偶蹄類に近く、体重分布からして明らかに大型――このサイズのウサギから出るものじゃない」
マナは眉をしかめる。
「異常があるのは、ウサギそのものじゃなくて、“ウサギという形をとっている何か”ってこと?」
「そういうこと。研究所側では仮に“オブジェクトR-01”として分類してる」
二人が話している間にも、グラウンドでは体育の授業が進行していた。高校生に擬態したエージェントたちが自然に紛れ込み、飼育小屋の周囲ではサーベイ班が微細な振動と音響を計測している。
「……この学校、何かが隠されてる気がする」
マナがポツリと呟いた。
「“ウサギが異常存在”というだけなら、簡単な隔離と検査で済んだ。
でも、調査中に関係者の失踪が三件、“夢の共有”報告が二件」
「まるで……餌のように」
レイナの声が低くなる。体操服のポケットに忍ばせたB-タブレットを持つ指先が、どこか緊張していた。
「放っておいたら、また誰かが引き寄せられる。あのケージの中の“それ”にね」
二人の視線が、校庭の隅の飼育小屋へと向かう。
白いペンキで塗られた木製の扉。よく見ると、フェンス越しに一匹のウサギが座っていた。
……じっと、こちらを見つめている。
不自然に、微動だにせず。
それは生き物というより、むしろ何かを“観測している”存在のようだった。




