1 魔の巣窟 後宮
一颯の姉を守るという頼みを引き受ける代わりに、蓮花の両親を殺した賊を見つけて捕らえる。
それを条件とし、蓮花は宮廷へあがることになった。
そして、蓮花の後宮生活が始まった。
一颯の姉はこの国の皇帝、赦鶯陛下の皇后で宮廷にいる。
いや、今の言い方はおかしい。
皇后なのだから宮廷にいるのはあたりまえだから。
皇后付きの侍女として入宮した蓮花の主な仕事は、皇后の身の回りのお世話だ。
辺鄙な田舎で自由に育った蓮花にとって、後宮は想像以上に窮屈な所だった。
「とんでもないところへ来ちゃったかも」
空を見上げ、ため息をつく。
季節は春。
梅の花が咲き、風が吹くと辺りに芳しい香りがふわりと漂った。
澄みきった青空に、舞い散る梅の花びら。時折、広い空を悠々と鳥が飛んでいく姿が見えた。のどかな昼下がりだ。
窓際の長椅子に腰をかけている皇后は、何やら難しいことが書かれている書に目を通し、時折、まぶたのあたりを指先で揉みほぐしている。
その姿を見た蓮花は、静かに部屋を退出する。
皇后付きの侍女として仕事をすることになったとはいえ、たいしたことができるわけではないから、もっぱら雑用ばかりだ。
もっとも、頭を使う仕事より、そのほうが気楽でいい。
必要最低限の作法は、香麗夫人から教わった。もちろん、最初は蓮花が宮廷にあがることに夫人は激しく反対した。
夫人に後宮がどんな所か、どれほど恐ろしい所かを懇々と聞かされ正直、心が折れかけやっぱり行くのをやめようと思った。が、やはり両親を殺した賊のことはあきらめきれない。
そのことを夫人に話したら、涙ながらに納得してくれた。
どんな環境にもすぐに慣れ、たいていの人とはそつなく馴染める蓮花だが、後宮はそれほど生やさしい場所ではなかった。
ぶっちゃけ、いずれ後宮を出ると思っているから、窮屈なしきたりも耐えられたし、特別親しい者を作らず、ある程度距離を置いて接すると決めていれば、人間関係も別にどうってことはない。
だが、蓮花に関わってくるのは、なにも生きている人間ばかりではないというのが問題であった。
さすがは宮廷。
信じられないほどの霊が浮遊している。
それも、恨みやら妬みやらの負の感情を放つ者がほとんどで、霊的なことに敏感な蓮花にとっては、しんどいものがあった。
皇后が暮らすこの永明宮にも、無数の霊がうろついていて、正直、生者と死者の区別がつかない時もある。
この間はうっかり死者に話しかけてしまい、周りの者に気味悪がられた。そのせいもあって、蓮花は変わり者だとか、頭のおかしい気の毒な娘と思われ、みんなから距離を置かれている。
「皇后さま、菊花茶をどうぞ」
集中して書を読みふけっていた皇后は、蓮花の声に我に返り視線をあげた。
書物を卓の上に置き、蓮花が差し出した茶器に手を伸ばす。茶器の蓋をずらして開けると、器の中で菊花の花が開き、甘味のある香りが漂った。赤い枸杞の実も浮かべられている。
菊花茶には目の健康の維持と、心労からくる目の充血を取り除き、瞳を美しくする効果がある。さらに、鎮静作用もあり心を落ち着かせる効果も。
浮かべた枸杞の実も目に良い生薬で、菊花茶と相性がよいのだ。
目の疲れを気にしている皇后のために、蓮花が厨房でいれた茶である。
茶を一口飲んだ皇后は、ほっと一息ついた。
「休まれたほうがいいのでは?」
皇后の顔色が悪い。
たぶん疲れがたまっているのだろう。
最近あまり寝付けないようだし、今日の朝食も食欲がないと言って、ほとんど手をつけていなかった。
心配だから、侍医を呼んで診てもらおうと言っても、たいしたことはないからと断るのだ。
「これに目を通したら休むわ」
そう言って、皇后は再び読み物に視線を落とす。
「皇后さま、凜妃さまがいらっしゃいました」
侍女の声に、皇后は手にした読み物を閉じる。
客人の訪れに、書を読むのをあきらめたようだ。
凜妃さまちょうど良いところに! と、心の中で蓮花は親指を立てる。
現れた凜妃に、皇后は慈愛に満ちた笑みを浮かべて迎えた。
「ごきげん麗しゅう皇后娘娘。汁物を作ったので、ぜひ皇后さまに召し上がっていただこうと思いお持ちしましたの」
凜妃は窓際に設置された長椅子に腰をかけた。
ちなみに娘娘とは目上の女性への敬称だ。
皇后が暮らす永明宮には、毎日たくさんの妃嬪が挨拶にやって来る。
その中でも凜妃は誰よりも皇后を慕い、話し相手として私的に訪れた。
凜は封号で、名は舒紅花といい、十六歳の時に後宮に入り現在は二十歳となるが、まだ陛下との間に子はなく、家柄もあまり高くないため、後宮内での彼女の立場は低い。
しかし、凜妃は自分を卑下することなく、持ち前のおっとりとした口調で周りの者を和ませた。
人懐こくて愛らしい雰囲気を持つ彼女を、皇后はまるで本当の妹のように可愛がっている。
蓮花も穏やかな性格の凜妃に好感を抱いている。
凜妃の侍女は手にしていた提盒の蓋を開け、汁物の入った腕を取り出し皇后に差し出す。
腕の蓋を開けると、ふわりと甘い香りが漂ってきた。
「まあ、銀耳蓮子湯ね」
腕の中身は白きくらげ、棗、枸杞の実、蓮の実を甘く煮込んだ薬膳デザートだ。これに、梨など季節の果物を入れると、なおうまい。
「最近、お肌が乾燥すると仰っていたので作ってみたの。白きくらげは美肌にいいのよ」
トロトロになった白きくらげに棗の甘酸っぱさ。ホクホクとした蓮の実の食感を味わいながら、心と体を元気にするスープだ。
蓮の実は胃腸を整え、心を落ち着かせる効果があり、棗は貧血の改善。枸杞の実は先ほど説明した通り。まさに今の皇后にぴったりの食べ物だ。食べやすいから食欲がなくてもするっと口に入っていくだろう。
さすが皇后を慕うだけあって、気遣いのできる凜妃だ。
皇后は匙でスープをすくい、一口飲む。
「さすが料理上手の凜妃ね。おいしいわ」
「最近、顔色があまりよくないから心配しておりました。皇后さまのためでしたら、いくらでもお作りいたします」
蓮花が後宮へ来たときからすでに、皇后の体調はあまりよくなく、それが心配だった。
ふと、凜妃の目が机の上に伏せられた書に向けられた。
帳簿のようなものだ。
凜妃の視線に気づいた皇后は苦笑いを浮かべる。
「皇后さま、何か悩み事でも?」
「ええ、景貴妃の無駄使いには本当に困っていて。何度忠告しても改める気がないの」
どうやら後宮のやりくりに頭を悩ませていた。
景貴妃は皇后の次に権力のある人物。
正室の皇后につぎ、側室の最高位である皇貴妃、そして貴妃という順番になるが、皇后が存命の時は皇貴妃という位はたてないので、貴妃は実質上、皇后の次に偉い立場となる。
後宮では皇后と景貴妃の二派に別れて勢力を争っている。
景貴妃の実家はたいそうな名家で勢いがあり、陛下も一目おくほど。
従って、皇后もあまり厳しく言えないのだ。
「先日も、盛大な宴と料理で陛下をもてなしたと聞きました。皇后さま、私も何かお手伝いいたします。なんでも仰ってください」
「凜妃の心遣いには感謝するわ。妃嬪みながあなたのように物分かりがよければよいのに。そうだわ明玉、先日陛下から頂いた薄紅色の反物を持ってきて」
「かしこまりました」
明玉と呼ばれた侍女は、いったんこの場から下がると、指示された反物を手に戻ってきた。
「汁物のお礼に、この薄紅色の生地をあなたに贈るわ」
凜妃は目を丸くする。驚いた顔も愛らしいことこの上ない凜妃さまだ。
「恐れ多いです。それに、褒美をいただくために料理を作ったわけでは」
「もちろん分かってるわ。ただ、この色は私には若すぎる気がして。あなたにならぴったり似合いそうよ。もらってちょうだい」
「感謝いたします皇后さま」
凜妃は立ち上がり、皇后に頭を下げ反物を受け取った。そして、さらに驚きに目を見開く。
反物をめくったその下に銀子が並べられていたからだ。
「聞いたわ。実家に不幸があったそうね。その銀子は私からのお見舞いよ」